合理性の外側
「終わりなき日常を生きろ」「透明な不透明な悪意」を大学生のときに読み、宮台真司の社会の捉え方がとてもしっくりきた。
合理性、効率性、すべてのモノや空間への意味づけ。意味のないモノであり行動はとことん排除されていく。そんな息苦しさの中にいるからこそ、人間の適応能力として見たいものしか見なくなっていくことが加速するのかもしれない。
そう、インターネットをベースにしたサービスという名のシステムの功罪の一つは、見たいものしか見なくなったこと。
見たくないものまで見る必要はないが、ほんとは見たいものなのかもしれないのに見る機会を失ってしまっていることは個人にも社会にとっても大きな損失である。
合理性の内側にいれば、人間はつまらないヘタレになり、
合理性の外側に出るという意味での過剰さを支援していくことこそ大人の役割だっていうのも、いかにも宮台真司らしい捉え方だと思う。
合理的な行動ができるのは、その分野において合理性の外側に出たことがある人でしかない。
そして投資こそ、「合理性の外側に出るという意味での過剰さをどれだけ引き受けるかということを通じた地位達成」なんだと思う。