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今日のありがとう16(墨子)

中国の戦国時代を生きた墨子(ぼくし)よ、今にも通用する考えを提唱してくれてありがとう。

今日は、孔子に比べるとマイナーではあるものの、素晴らしい考え方を唱えた墨子について見ていこうと思う。

墨子は謎に包まれている人物で、詳しいことはわかっていない。

そんな墨子について、次の2つの点を取り上げたい。

①孔子の「仁」と墨子の「兼愛」の違い
②墨子の考えと今の世の中

まず、①について。

孔子の「仁」については、「今日のありがとう15」で扱った通り、家族に対する愛情のことを指し、この思いを外へと、他者へと広げていくことが大切だという考えであった。

一方で、墨子は「兼愛」(けんあい)、すなわち「ひろく愛せよ」と唱えた。要するに、自分を愛するように他者を愛するべしと考えたのだ。

孔子も墨子も一見すると同じことを主張しているように見えるが、少し異なる。

仁は家族への愛が最優先であり、そこから外へ外へと広げていくイメージのため、拡大するのと同時に愛の程度に差がつく、差別的な愛なのである。

それに対して兼愛は、愛するものに対して優先順位や差をつけるべきでないとし、自分への愛と同じように他者を愛することが大切だと考えた。そうすることで、愛情の差による争いの発生を防げると思ったのだ。

同じ他者への愛というテーマを扱っていても、孔子と墨子で捉え方が違い、とても興味深くておもしろい。

次に②について。

墨子は節喪(せっそう)という考えを持っていた。
この考えは、お葬式にお金をかけることは、無駄であるというものだ。

墨子といえば、非攻を主張したことで有名なことからもわかる通り、侵略戦争を否定し、争いを避けて守りに徹する思考が強い。

お葬式1つとっても、貴族と一般庶民でお金のかけ方に差が出てしまうと、それが争いの原因となり得ると捉えたため、それならばお金をかけることに意味はないと考えた。

この部分は今の世の中でも言えることではないか。

争いを避けるためではないが、今や葬儀屋はあちこちに増えており、葬儀屋の言う通りにフンフン首を縦に振っていると、葬儀にとてつもない金額がかかってしまう。

葬儀屋も商売なので、ある程度は仕方ないものの、限度はあるだろう。

大事なことは、お金をかけて供養することではなく、もっと本質的な部分にあることは間違いないだろう。

葬儀にお金をかけることが無駄とまでは言えないにしても、紀元前の時代を生きた墨子の考えが、少し意味を変えて今でも通用するように感じられる。

墨子よ、争いを回避するための方法から派生していろんなことを私に考えさせてくれ、本当にありがとう。

諸子百家について学ぶことがこんなに楽しいとは。



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