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やりたいことを1ミリもやらずに生きている

22歳で消防局に就職し、32年間勤務した。 その間、何度も脱サラを考え、夢見た。
20代も、30代も40代も、何度か脱サラ願望をいだき、ようやく決行したのは50代になってからだった。

消防士という職業を、低く見ていたというわけではない。 しかし、業務の重要性と自分の生きがいとは、必ずしも一致するわけではない。

俺は生きているのか?

30代だった頃のある日、真夏の暑い昼下がりの勤務日、救助訓練を行った。 恒例行事で、とくに変化があったわけでもない変哲のない一日。

救助側だけではなく、交代で要救助者役もやるので、その日も何度か私がやった。 意識をなくしている役なので、地面に横たわって救助を待った。 日差しにあぶられたヘルメットの中から汗が流れ落ちた。

薄く目をあけると、視界のすべては深い青い空だった。 毎日のように見上げていた空なのに、突然なつかしさで胸がいっぱいになった。

その空の色が、少年の頃に友達と遊びながら見上げた空を思い出させたからだった。

抜けるような真夏の青空。 あの頃、夏休みがいつまでも続いていくように思っていた。 人生に終わりはなく、自分のやりたいことが、何でも思いっきりやれるように感じていた。


同じ空を見上げている今の自分は、1ミリも自分のやりたことをやっていない。

大切な人と結婚して、大事な子どもたちを養うために、こうやってレンジャー服を汗びっしょりにしながら働いているではないか。
突然生じた違和感を封印するように、そう自分に言い聞かせた。

そんなことを同僚に話せば、
「何をガキみたいなことを言ってんだよ」
と鼻で笑われるだろう。

誰もがそうやっていろんなことを諦め、気持ちを整理しながら生きているんだ。
それが生きていくということなんだ。
何度もそう心の中でくりかえし言い聞かせてきた。

潔く諦めて生きていけるのか!


たくさんの人を救急車で搬送してきた。 おそらく千人とか。
亡くなった人も、死ぬ間際の人もたくさん搬送した。

瞳孔反応を確認するためにまぶたを開き、ペンライトをあてて覗き込む。 例外なく誰もが、いずれこんなふうに対光反射もなくし、角膜も濁っていくのだと思った。

病院収容後、揺れる救急車の中で、運んだ人の眼のことを考えていた。 諦めのつかないことがたくさんあったのだろう。 眉間に深いしわを残し、眼球は無念の色に染まっていたように見えた。


俺は潔く諦めた眼の色をして死んでいけるだろうか? それとも、諦めのつくことが何ひとつなかったと、無念の表情で絶命して行くのだろうか?
今の自分はどんな眼をしているのだろう。 すでに濁って反応の鈍い眼になっているのではないか。

帰署して白衣を脱ぎ、報告書を入力していると、少年の日に目に焼き付いた濃い空の青がよみがえった。

どうしてこんなに不安なのだろう?

今の仕事以外のことをやることを考えると、なぜ否定的なことしか浮かばないのだろう?

自分のやりたいことをやることが、家族を苦しめることになると、どうして決めつけてしまうのだろう?

やりたいことがあるのに、何か食えそうな資格を取得するとか、とりあえず食いつなぐために副業をとか、ついつい考えている。
本当にやりたいことに正面から向かう勇気がなかった。

やりたいことを1ミリもやらずに生きていることは、子供たちのためと言いながら、彼らのためになっていないのではないか。
そんな思いが胸の中でくすぶりつづけ、何をやっても心の底から楽しめなくなってしまった。

どんな不本意な日常でも、人は現在の環境から飛び出すには相当高いハードルがそびえているものだ。
一度も転職経験のない自分にとってはなおさらだった。

眠る子供に話しかけた

あどけなく眠る子供たちの顔を見ながら、脱サラのことを考えた。
「お父さんは、自分のやりたいことを1ミリもやらずに生きてるよ」
そうつぶやいた。

おそらく、昼間遊びまくっている2人は、抜けるような青空を見ながら、人生は永遠につづくと思っていることだろう。

父親はすごい存在で、まさか仕事のことで悩んでいるなんて想像もできないだろう。

「お父さんはきっといつかやりたいことを目いっぱいやって悔いのない人生を送るぞ」
息子たちが父親を誇りに思ってくれるように、生きがいを感じながら仕事をしている姿を見せたいと思った。

それから何年も、諦めかけては青い大空が頭の中に広がった。
自分にとっては高いハードルを飛び越えるには、まだ時間が必要だった。

もしサポートしていただけたら、さらなる精進のためのエネルギーとさせていただきたいと思います!!