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「悲しむ」は「愛しむ」大切な人の永遠の不在

大切な人が亡くなると、
それまで楽しかった時間や、一緒にいた空間が、
突然、悲しみ色に覆いつくされてしまったような気持になります。

どんなことをしても、その事実を変えることができないことに心を痛め、涙を流します。
悲しい事実を受け止めるには、長い時間がかかります。

コロナ禍になって、死に目にもあえず、悲しい別れをした人がたくさんいると思います。

私の義兄が、今年2月に亡くなりました。
60代でした。
いわゆる突然死といわれる死に方でした。

特に持病があるわけでもないのに、仕事場で突然倒れ、救急車で病院に運ばれましたが、助かりませんでした。

2人きりの兄妹なので、妻の悲しみはとても大きいようです。

ずいぶん昔の話ですが、義兄は、妹が私と結婚することが、かなり不満だったようで、結婚当初は言葉の端々にその感情が表れていました。
私も若くて、負けん気が強い男だったので、一緒に飲むと、よく口論になりました。

年齢を重ねるごとに、そんな棘もなくなり、お互いの家族を心配しあうようになりました。

実の兄妹と、義理の兄弟では、その悲しみにも大きな相違があります。
相手を思う気持ちの強さが、悲しみの深さに比例することがわかります。

古語辞典によれば「悲しむ」の意味は、
「いとしいと思う」「愛する」
だそうです。

日本人は、昔から「悲しみ」を、単に忌み嫌う感情ではなく、切ないくらい大切な感情だととらえていたようです。

「愛する」「悲しい」につながる日本人の言葉と心に、感動を覚えます。

妻のうつの状態がとても悪かった頃、義兄が私に、
「たつゆき君、すまんな」
と謝ったことがあります。

それは、自分の妹が迷惑をかけてすまない、なのか、
何も助けてやれない自分をすまなく思ったのか、わかりません。
もしかしたら、その両方の気持ちだったのかもしれません。

「とんでもない。俺がふがいないからですよ」
とこたえたときから、もう何年も過ぎました。

大切な人と一緒の時間は、月日がたてば思い出に変りますが、
大切な人の不在は、悲しみであることから免れることはありません。

そうであれば、相手に感謝しながら悲しみたいと思います。

気持ちの行き違いで言い争ったこと
楽しい出来事に一緒に笑いあったこと
励ましあったことや、慰めあったこと
勇気や元気をもらったこと
一緒に涙を流したこと

共に過ごした思い出を大切にして、悲しみ、いや愛しみたいと思います。


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