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歌は世につれ、世は歌につれない…

歌は世につれ、世は歌につれ…

昔の歌番組での口上で良く使われた言葉。

「歌は世につれ、世は歌につれ」

歌は時勢の影響を受けて変化し、世のさまも歌の流行によって影響される。と言う意味らしい。

歌謡曲が流行歌と言われていた時代から言われていたのだろう。世間と流行歌が密接な関係だと言うことを表現していたと思われる。
確か、昔、歌番組で、NHKのアナウンサーだった「宮田輝」さんが使われていた記憶があります。紅白だったろうか?
ことわざや格言みたい。
なかなか上手く表現されているなぁと思っていましたが…
さて…

そもそも、歌と世の中が密接だったのは戦後…終戦を迎えた時だったのかも知れません。
さすがに筆者も生まれる前の事。経験としては語れませんが。
終戦を迎え、人々が「希望」に渇き、必要としていた時。
そんな時に、「リンゴの唄」「東京ブギウギ」等、明るい歌がヒットした。
時代背景を経験していればもっと説得力のある説明を出来るのだけれど。
生きる為にどれだけの苦難、苦悩、苦労があった事は想像を絶するものだったことだろう。
歌が癒やしや希望になっていた事は想像は出来る…が…いかんせん、頭の中の想像でしか語れない…
しかも、レコードも作る事さえ困難だったに違いない。だとすれば、どの様にヒットしたのか?
多分、のど自慢…そうやって、口から耳に…また口から耳に…
ヒット曲は聴いていた人が作るもの。
これは今でも同じだ。

歌の力

ベトナム戦争時、反戦歌と言う沢山のプロテストソングが作られた。
ボブディランの「風に吹かれて(Blowin' in the Wind)」が有名だ。
「どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか」
「為政者たちは、いつになったら人々に自由を与えるのか」
「人は何度顔を背け、見ていないふりなどできるのか」
「一人一人にいくつの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのだろうか」
「人はどれだけの死人を見れば、これは死に過ぎだと気づくのか」

「男はどれだけの道を歩けば、一人前と認められるのか」
「山が海に流されてなくなってしまうのに、どのくらいの時間がかかるのか」
と続く…そして…

「答えは風に吹かれている」で締めくくられる。
この曖昧さが逆に受け入れられ、人々の耳に届いた。

「この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。ヒップな奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。俺はまだ21歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。あんたら21歳以上の大人は、だいたい年 長者だし、もっと頭がいいはずだろう。」と当時、ボブディランは語った。

もうひとつ有名な楽曲がある。

ジョン・レノンの「IMAGINE」
言い尽くされている感があるので、曲に関しての解説は控えます。
ただ、湾岸戦争、9.11、ことある度に、再評価される。最近では、オリンピックでの歌唱も話題に。

しかしながら、発表されてから50年以上経つのに、未だに戦争は無くならない。平和にもならない。
いざこざも日常茶飯。何もかも変わらない。
声高に歌おうとも、無くなりはしなかった。
歌自体に力が無くなってしまったのか?

大滝詠一 の言う意味合い

大瀧詠一:歌は世につれ世は歌につれ、と言うけれど

萩原健太:世は歌につれるほど・・・・?

大瀧:甘くはない!これ、私の得意のセリフね。
先に動いてるのは世のほうなんだ。
よく”未来を予見していた音楽”とか言うけど。
要するに”世の動きを早く察知して音楽に取り込む能力のある人がいた”ってことなんじゃないかな。
歌は世につれ、というのは、ヒットは聞く人が作る、という意味なんだよ。ここを作る側がよく間違えるけど。過去、一度たりとて音楽を制作する側がヒットを作ったことなんてないんだ。作る側はあくまで”作品”を作ったのであって”ヒット曲”は聞く人が作った。
で、何かヒットが一発出ると制作側はすぐに類似作を作る。
その繰り返しがひとつのジャンルを形成する。
もちろん、聞く側が同じものを要求する、つまりハヤっているものをもてはやすという側面は確かにあるわけで、世が歌につれると言えないこともないけどね。
しかし、それが供給過剰になると聞き手はすぐにソッポを向く、それがどの程度長続きするかがそのジャンルの栄枯盛衰の歴史となるわけだ。

なるほど…そんなのばっかりじゃん!

山下達郎の言う「歌は世につれ、世は歌につ

達郎さんは。自分が3年早く、もしくは3年遅く生まれてたら、決してミュージシャンにはならなかったと言う。
達郎さんが高校生時代、ベトナム戦争や安保…日本赤軍…
新宿西広場で反戦フォーク集会も行われてたし…
世界が変わろうとしていた真っ只中。
多感な時を過ごしていた達郎さんは、この様なプロパガンダでは何も変わらない事を経験。
それで、今後、如何なる団体、主義にも加担しないという心に決めた。

音楽で世の中を変えられると思ったことは一度もありません。
歌は世につれ、世は歌につれ。といった言葉があるが、歌は世につれても、世は絶対に歌にはつれない、といった考え方であります。
しかし私も文化に関わっている人間の端くれなんで。こうした文化メディアはそうした世の中の流れに否応なしに左右されるメディアですので、しからば音楽にとって何が出来るのか…
と考えると騒乱とか争いとか、心の痛み、悲しみ、そういうものを慰め、癒したり、励ますことは音楽でもできるのではないかとずっと考えて生きてきました。

山下達郎談

音楽には「寄り添う」と言うことがあるのだ。

世につれないは他にも…​

他にも現実に世につれない事はあります。
アナログレコードからCDに変わった時、聴く側は聴き方を変えました。
「スキップ」です。アナログ盤の場合は針を落としたら、そのまま最後まで聴きます。しかし、CDの場合は好きな曲にだけ、ポチッとするだけで聴く事が出来ます。
その為に、ベスト盤がもてはやされました。ここにはもはや、「隠れた名曲」は存在しません。新録でさえ、シングルでも売れそうな「キャッチー」な曲を並べるようになりました。
また、「カラオケ」も影響がありました。
カラオケで歌えるような曲が増えてきました。
世に合わせての楽曲制作が必要になってきたのです。
最近では、動画配信サイトでの再生数を増やそうと、「サビ頭(1番頭に残るサビを曲の頭に置くこと)」や楽器のソロ演奏などを無くし、比較的的短めの曲にして、最後まで聴かせて再生数を増やそうとしています。
また、楽曲の配信が多くなり、パッケージ(CD)の衰退で、コンセプトアルバムも見られなくなっています。
特にポップス系の音楽での楽曲制作が似たりよったりの物になってきたのは否めません。音楽制作と言えども、ビジネスだからです。

本当に希望は無いのか?  

記憶が定かではないのですが、こんな話があります。
先が短いと思える老人が主人公の物語です。
老人ははげ山を前にして、1本、1本と樹木を植樹しています。
そこへ若者が老人に訊ねます。
「何をしているのか?」と。
老人は「このはげ山を緑でいっぱいにしたいのだ!子供達の未来の為に!」
若者は訊ねます。「あなたがそれを見る事は難しいのでは?」
「それは大きな問題ではない。私が見られなくても、私は世界を変えているのだ!」と。
それはこう受け取れます。


ひとりひとりは力もなく、世界を変える事は出来ないが、
ひとりひとりの心に1本、1本植樹する事で、
いつか、自分が見られなくても誰かの心を変えることになる。
それは、世界の一部を変えた事になるのだ。


「IMAGINE」も同じ事かも知れません。
歌いつがれることで、ひとりの心に種を植え付ける。
そしてまた、誰かのために心に、種を植え付ける。
そうやって、世界の一部を変えているのかも知れません。
一見無駄な事に見えますが、そうではなく、
時間はかかるかも知れませんが、決して無駄ではないと…
そんな未来を望みます!

最後までお読みいただきありがとうございました!

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