(230916g) 許す(赦す?)事について。

「許す」という行為の是非などの、一意見。

「許す(赦す)」事とは、
許される側(?罪人?)が背負っている(精神的?)借金を、
他人が肩代わりする事である。と聞いた事がある。

「正しい・間違っている」はよく判らないが、
この言葉(赦すとは謝金の肩代わりである)という言葉は、
多少の「許し」に関して、方法論を考える機会を与えてくれる。

つまり、

罪(借金)が少ない場合、大抵の人が許す(借金の肩代わり)行為が可能。

罪(借金)が中くらいの時、
許せる人(借金の肩代わり)行為が可能な人が限定され始める。
許せる人(肩代わりが出来る程返済能力がある人)と、
許せない人(肩代わりが出来る程には返済能力が無い人)とに、
分けられ始めてくる。
ついでに、罪人(借金がある人)の本人・当人が、
自ら返済する意志が明確にあるか・その意志があまり無いか、も、
結構重要な要素になって来て、そうなり始める。
何故ならば、当の罪人が悔い改めて、反省して、
(可能な限り)二度と借金を積み上げない様にしてくれるならば、
借金の肩代わりをする側(許す人側)も、
資金を提供しようという気にもなる。
がしかし、当の罪人(借金をしている当人)が、
反省する意志が見られない場合
  (自らの借金を自らの意志で返済しようとする意志)
借金を肩代わりする方(赦す人達)のやる気も、かなりゲンナリすると
思うのです。
その上、
もし、借金を肩代わりしてやって(許してやって)、
当の借金の主(罪人)が、反省せずに、
再び借金を積み上げ始めたら(罪を犯し始める)、
そりゃ、借金を肩代わりする側も、かなり意気消沈するだろう。
だから、色々な問題が出始める。

借金が巨大な場合(罪のレベルがヒドイ場合)、
返済を肩代わりする側は、当然、
借金の主(罪人)に、「今回だけは支払ってやるが、二度とするな!」と
言明するのは、普通の事だろう?
だから、
「許して下さい」(借金を払って、牢獄から出して下さい)は、
まだ、良いが、
たとえ、イエスキリストほどの金持ち
   (というか借金の肩代わりの能力が巨大な人)
でも、聖書において
「許してはやるが、
 (他の許した人達と違って)
 許した事を言い触らしなさい。
 」
等としていないだろうか?
この箇所があったのは、実は、
借金が巨大で(罪が巨大で)、イエスでさえ出し渋りたい気持ちになった。
そうでは無いだろうか?

だから、
許す(赦す)場合でも、
少ない借金ならば、誰でも許してやって、
数回繰り返しても、肩代わりを出し渋る事は無いだろうが、
巨額の借金ならば、誰でも許すという事は、
イエスでさえ、やっていない事だと思う。
イエスは「私のようになれれば、もう十分である」とも
言っていた様な気がする。
だから、たぶん、
宗教二世問題などで、
親(毒親?)から虐待など、
親の借金(親の罪)を背負わされた人達(毒親サバイバー?)は、
イエスキリストの状態(自分の借金の返済能力を超える状態)に、
かなり近づいているのでは、無かろうか?

だから、
自分自身が狂乱状態になる程(自分を押し殺し毒親に尽くした)
  (肩代わりした借金で、首も回らなくなる程)
人を(毒親を?)許した人たちは、
どう見ても、「もういいのではないか?」という状態では無かろうか?
ここまでやっていれば、
もう、イエスキリスト並みの状態に近付いているのでは、無かろうか?

以上の様な根拠と、
考察方法(「許す」とは借金の肩代わりである)を、

皆さまも、考えてみて、現実問題として、どう対処するかの、
参考にして欲しいと思います。

借金の返済の要求が、まず、借金の主(当人)に向けられるのは、
当然あるべき事です。

そして、借金の額が巨大になるにつれて(罪がヒドクなるにつれて)
どう対処するか?は、少しずつ、ケースバイケースになってくると思う。
それらの項目の中で、
  ・罪人(借金の主)の返済能力。
  ・許す人(借金を肩代わりする人)の返済能力。
  ・許す人(肩代わりする人)が、大人数である場合。
     (つまり、罪人一人の借金を集団が肩代わりする事もあり得る)
  ・罪人(借金の主)の自分自身で返済する明確な意志の存在。
などなどが、
ケースごとに違うだろうから、
それは、考慮されるべきだと思います。

とにかく、上記の様に、借金の額が巨大になるにつれて、
処理の方法は、ケースバイケースになると、思う。

ただし、誰でも同じだとは思うが、
基本は、「自分の借金(罪)は、自分で返済する(改心して反省する?)」
のが、当然、あるべき事だと思います。

長々とダラダラと書いてしまいましたが、とりあえず、

以上です。