(230822b+) 「それが愛であるかどうか」は、受け手が感じるかどうか。

「これは愛だよ」と言って、何かを渡す事が多々ある。
しかし、結構、エゴにすぎなかったりする。

「愛」等という言葉を、今どき、好きな人間はほとんどアヤシイ奴だ。
まず、偽善者だと思っていい。
習字などで、半紙に「愛」という字を書く類いの奴等は、まず偽善者だ。

もらって嬉しいのが「愛」であって、
単なるエゴの押し売りを「愛」の名の下(もと)に、
する奴がどれほど多いか。
ヒドイ物になると、「虐め」を「愛」の名の下にやっている人も居る。

だから、
近年では、「愛」という「言葉」を嫌う人が多い。
だが、そういう人たちこそ、本当の愛に飢えている人たちだと思う。

「愛かどうかは、受ける人が決める事」という言葉も悪くないが、
何かをもらった時、それが愛であるならば、
受け手が嬉しい・感謝の念が湧くという事が起こる筈だから、

「愛かどうかは、受け手が感じるかどうか」としたら、どうだろうか?

うまく言えないが、
「受け手が嬉しいと感じるかどうか」ってのは、いかがだろうか?

以上です。

追加です。(2023/08/22 - 6:25 頃)

愛の名の下に偽善を為す者の場合、
抗議など反発すると、大抵の場合、
【ヒステリーを起こし】て「愛してやったのに」と【怒り出す】。
まあ、彼らも自分が偽善で悪をした事を、心の底では判っている。
だから、ヒステリーを起こす。
もし、本当に愛情で与えたならば、
「要らないならば、止めておきます」と物静かに答えるだろう。
このパターンだったら、本物の愛の可能性が高い。
最低でも、当人は相手の為の目的であり、
相手が不要だと言うならばサッサと引っ込めるだろうから。

以上です。