山口県の小野小町の全貌

 小野小町の伝承地としては山口県は有名ではありませんが、この地の小野小町伝承とは最初と最後の小野小町の事だと特定出来ていますので、ご紹介しようと思います。

 ほとんどの方は山口県の小野小町伝承も、岡山県同様に「どうせ嘘だろぉ~」と思われている事と存じます(笑)、今日はそんな山口県の小野小町について目から鱗が落ちる思いを体験してもらいたいと思います。

 山口県にある小野小町の伝承地は5ヶ所

  ①山口県光市周防旭地区小野橋西側

   ○小野小町の墓

   ○小野橋の碑

  ②山口県美祢市美東町絵堂1532

   ○伝小野小町歌碑

  ③山口県下関市豊浦町大字川棚

   ○小野小町の墓

   ○小野小町の銅鏡

  ④山口県下関市小野

   ○小野小町の墓

   ○終焉地

   ○小野小町の墓誌

  ⑤山口県下関市阿内小野

   ○小野小町墓

山口県の小野小町伝承地

 地図中に「楊貴妃の伝承地」を入れているのは、小野小町とも関係していると思われるからです。

 山口県の小野小町伝承を構築した小野小町は二人います。

 その二人のいた時代が極端に離れていた事も知名度が低い要因の一つになっていると思います。(奈良時代と南北朝時代)

 小野小町とは地神大王家であった小野氏に生まれる「特別な女性巫女)」としての存在でもあった為、多くは後宮へと侍り天皇近くで「神託を伝えていた」特別な女性であったと思われます。

 例外なのは2代目の小野石子(いわこ)だけでしょう、小野石子は小野氏の政治的な目的から後宮へと入り母親の後宮での仮称、「小野小町」を名乗り、高賀茂諸雄へと嫁いでいます。

 小野石子は結婚した後に氏女(うじめ)として後宮へと入った為だろうと思われ(平城天皇妃に小野虫売(むしめ)がいて、初代小野小町がいて後宮を牛耳っていた後を受けたのが小野石子だからです。小野虫売は最後(14代目)の小野小町の先祖で福井県の小野氏の祖になると思います。)、その後に小野小町が10人以上も続くなどと想像もしていないでしょうから、ただ単にかわいい名前だとして同じ名を名乗っただけかと思います。(小野石子は後宮の女帝として名をはせていきます。)

 この小野石子の母親(実の母ではない可能性があります)で、小野石根の妻が「初代の小野小町」であり山口県の小野小町の一人にあたります。

 小野石根(不明~778年)は奈良時代の人物で小野老(おゆ)の息子になります、小野妹子の直系で「小野氏の氏長者」だった、もしくはその内定者だったのではないかと思われる人物になります。

 小野氏の氏長者という事は地神大王家の「大王」という意味を持ちますので、普通の氏族の氏長者とは別格の存在だったと思われます、その小野石根の前代に起こった大事件が「楊貴妃の亡命」だったのです。

 私の研究からも古代の日本人はインドや中国と非公式に多くの交流をしていた事が分かっています、何故なら中国の皇帝は「日本人の血筋」であり、天皇は「祭祀王」として皇帝たちの上に立っていたと考えられるからです。(皇帝とは行政上の王)

 釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の入滅後に日本に来ているシャカ族や龍王達の足跡も明らかになりつつありますが、日本からインドへと情報を発信(仏教は日本から輸出していた)していて、仏教の発展に関わっていたとしか思えない情報が出てきています。(仏教は日本へと帰って来ていた龍王達が主導していた可能性も高いと思います。)

 そのような環境の中で祭祀王だった徐市(じょふつ、除福とも)の一族(中国に住んでいた太陽王家)や龍王族(インドに住んでいた月王家の分家)が紀元前219~210年に日本へと戻り、起こった王朝がイサナギ・イサナミ(イサナはサンスクリット語で支配者、キ=男、ミ=女、イサナギ・イサナミというのは支配者の男女という称号)の後をうけた王朝、「天つ神王朝」だった訳です。

 天つ神王朝は「紀元0年」頃に生まれた「アマテル(男)」と同時にスタートしていますので、キリスト教のイエス・キリストと同じような事が日本でも起こっていたと史実は伝えています。

 中国の三皇五帝(4000年以上前)の時代から日本人は中国にあって、天皇という祭祀王の立場や、時には王となって直接的に民を指導してきた民族だった事が分かって来ました。

 もちろん、中国の王達へは様々な形で干渉していたのだと思われますが、「楊貴妃」も中国にいた日本人による「玄宗皇帝」へ干渉する為の人物だったことが、熱田神宮の周辺に伝わっていた伝承や、小野氏が白居易を唐の都のエージェントとして頻繁に連絡を取り合っていた様子から分かることになります。

楊貴妃

 玄宗皇帝の元には阿倍仲麻呂が仕えていましたので、阿倍仲麻呂経由で日本へと亡命の打診があり、小野氏と連携していた新羅王朝・新羅商船が楊貴妃を向津具半島へと運び、吉備真備の母方の氏族である八木氏が最初は匿い「死んだと噂を流し」、その後に熱田神宮へと匿った事は、もはや伝説とはいえず、史実として考えた方が良い状況を呈しています。

 そんな時代に小野氏長者となった小野石根には重要な役割が回ってくるのです、それは日本で亡くなった「楊貴妃の死を中国皇帝へと伝える」という役目でした、楊貴妃の亡命は裏の天皇家である「小野氏」が責任をとる形で遂行されたようですので、楊貴妃の死を伝える役目を小野石根が担ったのは名誉な事だったとも言えると思います。(楊貴妃の死を伝えた証拠は、唐の皇帝から二尊の仏像が日本へと送られています。天皇宛ではなく。)

向津具半島にある、楊貴妃の墓

 小野石根が遣唐副使として唐へと赴いた最も重要な要件が「楊貴妃の死を伝える事」だった可能性が、遣唐大使も不在なのに強行された「遣唐使」であった事も、表には出せない事情があった事を匂わせています。

 この小野石根が従五位下(貴族)になったので自分の領地を得るために、「下関市小野」に荘園を開いた推測してます。(763年の長門守になった時。)

 下関市豊浦町川棚には小野小町の墓がありますが、これは正確には「小野小町の鏡塚」と伝承されていて、遣唐使として赴く小野石根を室津湊まで一緒にやって来て見送った、初代の小野小町が向津具半島にあった八木氏へ「楊貴妃の死」を伝えると共に、小野石根が唐から戻るまで、石根の荘園である「下関市小野」で待っていようと思っていたものが、川棚の小野氏へと身を寄せていて楽しかったので、そのまま小野石根の帰りを豊浦町川棚で待っていたようです。

小野小町の鏡塚

 そして小野石根が帰りの船で嵐に遭い亡くなった事を聞いて、「女としての小野小町」は死にました、もはや好きな人の為に化粧をする事はないとおもい、お世話にななった川棚の小野氏の元へお礼として[銅鏡」を置いて下関市小野へと隠棲したのだ思います。

 小野小町の和歌、

「思ひつつ寝ればや​人の見えつらむ

  夢と知りせば覚めざらましを」

(意訳:あの人のことを想い続けて寝たから、あの人の夢を見たのだろうか。夢だとわかっていたなら、目覚めずにいたのに。)

 これは初代の小野小町が小野石根の事を想って詠んだ和歌だと私は思っています、初代小町の背景と行動とがこの和歌を詠んだ人物との一致を見せているように思います。

 下関市小野639には廃校となった小学校跡がありますが、かつてはここに小野小町が住み死んで五輪塔や石碑が建っていた所になります。

小野小町の墓があった所なので、小野小町の住んでいた所

 今は石碑や五輪塔は「老僧岩」へと移されていますが、小野小町の墓と書かれた木碑は朽ち果て、小野小町の墓が老僧岩にある事は忘れられているようです。

老僧岩にある小野小町の墓(右の五輪塔)

 この初代の小野小町と楊貴妃には面識があったのか? 私はあると思っています。

 私は楊貴妃も日本人の血筋だと思っていますが、言語は中国語で意思の疎通は「漢文」だったと思います、当時の日本人女性は「漢字を真名(まな)」と呼び、女性が漢文を読み書き出来る事は逆に「恥ずかしい事」とされていたようです。

 しかし小野氏の女性、特に小野小町は特別な女性であったので「漢文の読み書きが出来た」と私は思っています。(なぜなら外交官の側面もあったと推測しています。だから容姿端麗・頭脳明晰と同じ人物像が伝えられているとも考えます。)

 ですので、楊貴妃にはお付きの女官もいた事が伝わっていますが、日本の権力者でもあり、同じ女性として楊貴妃と初代の小野小町には面識もあったと思いますし、漢文にて手紙のやり取りもあったと思うのです。(楊貴妃は世間には極秘の存在でもあったので、他の女性では荷が重すぎると思います。)

 という訳で、下関市豊浦町川棚と下関市小野の小野小町伝承は「初代の小野小町の伝承」という事になりました。

 次は残りの伝承地についてご紹介致します。

 小野小町の伝承の中に一つだけ新しい時代の小野小町伝承が存在していました。

 京都の綴喜郡井手町の中坊家には「小野小町は室町時代の人」と伝えていますし、京丹後の小町公園には小野小町のものだとする「銅鏡」が展示されています、銅鏡の様式から時代が「鎌倉末期から室町時代」だと分かりました。

 小野小町とは平安時代初期の人物とされていますので、これらの情報は研究者にとって「謎?」の情報だったと思われ、この事に言及するものを見たことはありません。(アンタッチャブルな情報。)

 この謎は岡山県倉敷市にあった五代目の小野小町の家を知らないと解けない謎でもありました。(私以外には気付けないだろうとなりますね。(⁠◠⁠‿⁠・⁠)⁠—⁠☆)

 我が家の先祖でもある岡山県の小町小野家には鎌倉時代末期に氏長者であった「小野浄智房と二人の息子、七條の辨房、小周防の大弐房」がいました。

(『太平記』より)

太平記の中の一文

 後醍醐天皇の「建武の新政」では足利尊氏の反乱に遭いますが、九州から攻め上がる足利尊氏の軍勢を止める命令を小野浄智房は受けていただろう事が分かりました。

 小野氏は単独では最強・最大の氏族ではあったのでしょうが、足利尊氏の軍勢は20万とも30万ともいわれる勢力で、到底止めようがないものでした。

 それでも大分県と岡山県に小野一族の手勢を集めて迎え撃とうとしましたが、最終的に小野浄智房のとった選択は「小野一族を存続させる為戦わず、小町小野家の成人男性と朝廷方の武将の氏長者の者達だけ30人ほど」で20万の軍勢に戦いを挑み戦死する事を選びました。(これが太平記の載る内容の正しい解釈だと思います。)

 その時に岡山県にあった「仁明天皇・小野小町の末裔たる家名」は消滅したのです、小町小野家はただの小野家となった為、岡山県の小野小町の伝承が急激に薄れていったのだと思います。(今は私が小町小野家の名乗りを復活させています。800年も約束を守ったのですから十分でしょう。天皇家も戦争で負けていますしね。)

 山口県の光市周防に小野小町伝承があります、この地は「小周防」と呼ばれていた地域です、そして建武の新政は鎌倉末期のお話であります、そして小野浄智房は小野氏の氏長者でありました。

 小野小町が嫁ぐ先の条件が小町小野家には揃っている事が分かります、また岡山県には小野小町による「ヒル封じ」の伝説もあり、光市周防にあったとする「田の畦にあった小野小町の墓」は五代目の小野小町のヒル封じにあやかろうとした「供養塚」だと考えると田の畦にあった事も理解出来ます。(死体を埋めた所の米など食べられないですよね。)

小周防にある小野小町の石碑

 これらを総合して光市周防には「小周防の大弐房と最後(14代目)の小野小町」が住んでいたと考えられるのです。

 そして残りの伝承地と京都の伝承、京丹後の伝承、そして最後の小野小町の生誕地が分かった事で、伝承地の意味も分かる事になったのです。

 小野小町の伝承には大きく3パターンに分かれます。

(1)生誕伝承

(2)大事件など

(3)終焉伝承

 最後の小野小町の伝承は(1)と(3)になりますが間接的に(2)も伝えています、小野浄智房と息子二人が戦死した理由として「小町小野家の廃絶する」意図があったことは間違いないだろうと思います、その上で七條の辨房と小周防の大弐房の子供達は成人年齢に達していないところをみると、最後の小野小町の年齢は30才前後とまだ若かったと推測されます。

 その証拠として京丹後市の五十河村で療養中の小野小町の元へ兵庫県の丹波市芦田から「一条少将良継」が小町の元へ通っている事や、京都からも貴族がやってきて小野小町の墓で亡くなっていて「岡の宮」へ葬られた話が伝わっています。(一条少将良継は地元にて割腹自殺したと伝わっています、表示板で処刑となっていますが、近流(きんる)自体が処罰なので、改めて処刑されたというのはオカシイし、地元で調べた事があった人から直接聞いた話なので割腹自殺が正しいと思いますので、岡の宮の人物は別人だと思います。)

京丹後の小野小町(14代目)の墓

 最後の小野小町は歴代の小野小町に負けず劣らずの美貌や聡明さを持ち合わせていたと思われ、未亡人になったばかりで病気の小町の所に二人もの男性が押しかけるなど、尋常では無い女性だったことが伺われます。

 山口県の阿内小野にいた小野氏は特に小野小町と仲が良かったものと思われます、小町の死後に供養塔が建てられた事が供養塔に刻まれていたおよその年号から分かっていますので、大変な役目を負って、生家へと戻る途中で亡くなった小野小町の菩提を弔わずにはおられなかったのだと思います。

 皆さんいかがだったでしょうか、実は山口県に伝わる小野小町の伝承としては二人の小野小町が関わっており、かつ二人とも伝説となる内容を有していることが分かると思います。

 小野小町とは「普通」とはとても言えない環境にあった女性達の総称であり、だからこそ「普通では無い事件」に巻き込まれていたのだと言えると思います。

 下関市小野にある小野小町の墓は知る人もおらず廃墟となった老僧岩の奥の院にひっそりと佇むばかりになっています。

 ぜひとも私の研究成果を含め小野小町の事を後世に伝えるよな処置を講じて欲しいと思います。(山口県の歴史を守る意思のある人達に立ち上がって欲しいと切に願います。そして小野小町を愛する全ての人に真実を知ってもらいたいと思います。)

 龍海


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