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これは「挑戦の物語」―『ジョジョの奇妙な冒険』第七部STEEL BALL RUNの解釈―


図1 『SBR』第1巻表紙

はじめに

 本文は、筆者による論文『ジョジョの奇妙な冒険』における神話性の解体──哲学者ニーチェから観る『ジョジョの奇妙な冒険』第六部結末の解釈──のエピローグに値するものだ。とはいえ、本文を読んでいないことは筆者の研究への理解に何ら影響することはなく、極論読み飛ばしてもらって構わない。本文は「もっと多くを語りたい」という筆者の熱意に端を発したものであり、上記の論文の方向性を決定づけるようなものではないからだ。言うなればただの自己満足である。とはいえ、その点を理解したうえでなおお付き合いいただけるのであれば、これほど嬉しいことはない。それでは以下に本文の具体的な内容と目的について記す。
 第六部結末においてジョースター家の血統が絶たれ、血の神話性に綻びが生じたことについては先の論文で言及したが、続く第七部以降で『ジョジョ』がどういった軌跡を辿るのかについての説明は意図的に省いている。というのも、該当論文はあくまで第六部結末の肯定的解釈に焦点を当てたかったこともあり、その後の物語について過度な言及を控えていたためだ。しかしだからと言って、筆者最愛の第七部に一切触れないまま幕切れを迎えるのは、『ジョジョへの愛』と『愛国心』が許さない。そこで、第七部『STEEL BALL RUN』について語る機会を勝手ながら設けさせていただいた。そんな本文のテーマは次である。「ジョースター家の神話性が瓦解した後、『ジョジョ』はどのように物語をすすめたのか」そして、この表題に基づいて分析と解説を行うことを目的とする。

第七部のあらすじと前作からの変更点

 本文まで熱心に閲覧している可能的読者の大半は恐らく第七部『STEEL BALL RUN』を読了済みであると思われるので、ストーリーの紹介に関しては手短に留めたい。第七部のあらすじは以下の通りである。
 元天才騎手のジョニィ・ジョースター(以下ジョニィ)と、ネアポリス王国の死刑執行人の末裔ジャイロ・ツェペリ(以下ジャイロ)は、それぞれの目的のためアメリカ大陸横断レース(SBR)に身を投じる。レースの真の目的が「聖なる遺体」の回収にあることを突き止めた2人は師弟関係と共闘関係を交わし、遺体を集め、レースで優勝するため、アメリカを舞台に数多の敵と死闘を繰り広げる。
 以上が第七部のあらすじだ。世界線が変わったとはいえ、物語における設定上の変更点はあまり見受けられない。『ジョジョ』でお馴染みのスタンド能力も登場し、巨悪の打倒という目的もこれまでの部と何ら変わりはない。ただ、一つだけ注目すべき変更点が存在する。それは、「スタンド」以外の攻撃方法が追加されたという点だ。ジャイロの用いる「鉄球」である。そして筆者はこの鉄球にこそ、第六部結末から続く「人間讃歌への回帰」というテーマが込められているように感じるのだ。

「鉄球」に込められた意味

 なぜ鉄球に「人間讃歌への回帰」という大仰なテーマが内包されているかについて語る前に、まずは鉄球とスタンドの違いについて解説しよう。前提として、鉄球はスタンドのような特殊能力ではない。鉄球は「技術」なのである。ここが非常に重要な点だ。そもそもスタンドとは、「精神的なエネルギー」のことであるが、誰もが有するものではない。スタンド能力の発現方法は大きく以下の3つである。

①生まれつき備わっている
②遺伝によって発現
③矢に射られて発現

 ①・②については言うまでもなく当人の生まれに依存しており、③に関しても能力が発現するかどうかは矢で射られた対象の素養次第である。つまり、スタンド能力とは、『ジョジョ』の持つ選民的・血統主義的側面に大きく拍車をかけている設定なのだ。しかし一方で、先にも述べたように鉄球とは「技術」である。「技術」は生まれながらの資質ではなく後天的努力によって獲得できる能力のため、どんな人間にも習得可能な余地があるのだ。このことを著者である荒木飛呂彦(以下荒木)が自身の言葉で端的に指示したものが図2である。

図2鉄球に関する説明

ここにおいて、第一部での「波紋」や第七部における「鉄球」は、才能に打ち勝つための「技術」であると明言されている。さらに、この記述を裏付けるかのように、物語終盤にて技術の極みに達したジャイロの放った鉄球はスタンドのような形態(図3)へと変化し、無敵とも思われた敵のスタンド能力を打ち破る寸前にまで到達した。第七部における「鉄球」は、原点へ立ち戻ろうとするダイナミクスであると同時に、人間の可能性が詰まった希望の塊なのである。

図3ジャイロの到達した技術の極致

第七部における「神話性の解体」

 ここまで第七部にて実行された「人間讃歌への回帰」の手順について論じてきたが、本作では筆者論文のテーマであった「神話性の解体」も並行して行われている。そして、それを象徴するものが「聖なる遺体」である。「聖なる遺体」とは奇跡を起こしてきた聖人の遺体であり、遺体を集めた者はこの先千年の栄光と繁栄が約束されることから、レースにおける最重要アイテムとなっている。そして、遺体のモデルは明言こそされていないものの、恐らく「イエス・キリスト」だ。つまり、ここにきて『ジョジョ』は新たに「神」という概念を物語へ組み込むことで、神的性質をジョースター家とは異なる他に付与したのである。これはジョースターの血筋から神聖さを取り除き、あくまで人間であることを強調する画期的な試みといえる。
 ジョースターの血筋に付き纏う絶対性を取り除かんとする荒木の奮闘は、「聖なる遺体」だけでなく他の部分にも見受けられる。それが、第七部におけるキーフレーズ「ネットにはじかれたテニスボールはどっち側に落ちるのか誰にもわからない」だ。このフレーズはジャイロをはじめとしたツェペリ家の人間によって繰り返されている文言であるが、読み方によってはややネガティブな表現とも受け取れる。「物事はどう転ぶかわからない」といった偶然性の強調は、白熱した勝負の決着に水を差すようにも感じられるためだ。そして、その捉え方は間違いではない。むしろ、読者にそのような感情を抱かせることが荒木の狙いであったと筆者は考える。そもそもジョースター家に神的性質が付与された要因は、知恵と勇気でもって圧倒的強者に打ち勝ってきた闘いの軌跡にある。そして、作中にて描写された数々の勇姿は、我々読者に彼らがまるで神に選ばれた存在であるかのような錯覚を植え付けるのだ。皮肉なことにジョースター家が活躍するにつれて、『ジョジョ』は自らが標榜する「人間讃歌」から遠ざかっていたのである。しかし、随所にこのフレーズが差し込まれることでそうした印象は中和される。勝敗の決め手が必ずしも血筋に依拠しないからだ。つまり、「勝負は時の運」というこの一文は、勝利によって高まるジョースターの血筋への信仰を薄める意味合いを持つのである。

図4ジャイロの発言

これは「挑戦の物語」

 では、運が勝敗を分かつ第七部において、登場人物は自身の運命を神に委ねて戦っているのだろうか。神頼みをする人間など『ジョジョ』のキャラらしくないと思われるかもしれないが、意外にもこの疑問を真っ向から否定することは難しい。現に、ジャイロは「結果は神に委ねる」といった旨を語っており、一定のラインを超えると自らは無力であることを自認しているようにも見える。(図4) 。だが、このことを額面通りに受け取るのは些か浅慮である。この発言は、「神」という絶対的存在の意向でない限り納得できないというジャイロの揺るがぬ決意を逆説的に表しているのだ。「納得」を至上とするジャイロは、自らを納得に導くために結果がどうあれ死力を尽くすことを信条としている。だが、全力を尽くしても不条理な現実に打ちのめされることは往々にしてあるだろう。だからこそ鞍を空けておくのだ。だが、彼は最後に鞍へルーシーを乗せた。つまり、ジャイロは自分の信条を破ってでも、神を捨てて自らの手で道を切り開くことを選択したのである。そこには先のことなどわからない、全能ではない人間ならではの「気高さ」が垣間見える。第七部という作品は、主人公ジョニィの「再生の物語」であると同時に、人間臭いジャイロが技術でもってスタンド能力に立ち向かう「挑戦の物語」でもあるのだ。

おわりに

 以上が筆者による『ジョジョ』第七部(神話性崩壊後「再生の物語」)の解釈である。『ジョジョ』という作品は、「ジョースター」が意味を持たなくなってなお、登りゆく朝日よりも明るい輝きを放っている。それはきっと、『ジョジョ』の本質が血筋や遺伝にはないからだろう。そしてそんなことは初めからわかりきっていたことだ。だが、その当たり前を続けるためには長く険しい回り道をする必要があったのである。―遠回りこそが最短の道―『ジョジョ』が『ジョジョ』たる所以は、常に挑戦を欠かさないそんな姿勢にこそあるのかもしれない。


図版一覧

図1 荒木飛呂彦『STEEL BALL RUN』第 1巻、集英社、2004年、表紙
図2 荒木飛呂彦『STEEL BALL RUN』第10巻、集英社、2006年、p.180-181図3 荒木飛呂彦『STEEL BALL RUN』第21巻、集英社、2010年、p.139
図4 荒木飛呂彦『STEEL BALL RUN』第21巻、集英社、2010年、p.181


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