20221226
新しい文学
新しい文学というか、物語をもっと楽しむ、というか、表現方法というか、なんというか。
へいたさんの作品を読んでいると、本ももっと自由であってもいいと思うんです。
メディアミックスとだいぶ前から言われていますが、ひとつの作品がいろんなメディアでいろんな形で展開されていることを指しているけど、へいたさんの作品こそがメディアミックスではないか?と思うんです。
文字(本)といっても文章もあれば絵本もある。音楽もあれば音声表現もある。おそらく時間があれば動画も登場するかもしれないと思わせる校正に、ストーリーのみならず、どんな表現展開が待ち受けているか?と期待せずにいられなくなる。
本当に楽しい。
12月、クリスマスまでの間、本当に楽しませてもらいました。
心から感謝致します。
そして、次の作品も楽しみにしています。
ありがとうございました。
(0:13)
「鎌倉殿の13人」と「Lemon」
鎌倉殿の13人(以降、鎌倉殿)の最終回を見終わった時からずっと米津玄師さんのLemonがかかっている。
自分はLemonの最後の歌詞「切り分けた果実の片方のように今でもあなたは私の光」の部分がずっと気になっていた。それが鎌倉殿を見終えて「そういうことか」と自分なりの着地点を見つけたような気がした。
光は導くものであり、自分を照らすものでもある。
光があるから自分は輝き、光を受けるから自分の影に気づく。
光を失えば自分の輝きも失い、世界は闇に包まれる。
光があってもなくても、自分が光ではないことを知らしめる。
光は大切で愛しいけれど、それ故にとても苦々しさを感じさせずにいられない存在でもある。
義時を始め、あそこにいた人たちにはそれぞれに光があり、そしてその光を失う。でも強い光を受けていた人たちだから皆輝いていたし、またそれを受けていたからこそ濃い影を感じずにはいられなかった。
互いが互いの、誰かの光であった人たちがそれぞれの光をどんどん失い、また新しい光を見つける。
大事なものだけど、死してなお自分に光と影を与えるものたちは、義時が殺していった人々、義時がその死を止めることができなかった人たち。
なんと多い光を彼は受け、そして失ったのかと思うと、執権になってからの彼の闇っぷりが納得できる。
そしてようやく、「切り分けた果実の片方のように」失っても感じずにいられない光というものに合点がいったわけである。
自分にはそんな光はない。
ないと思う。
そういう光を持たないから、自分はなんとも薄らぼんやりとした存在でしかない。
光を知る者を羨ましいとは思わない。
けど、もしも自分がそんな光を感じていたら、どんな人生を歩んだことだろう?と夢想せずにはいられない。
(8:03)
つまるところ
日記を書いて、読み返します?
私は読み返しません。
誰かに読んでもらいたいか?と言われたら…うーん、タグに「読まれないnoteを書こう」なんてつけているくらいですからね。
でも、たまたま誰かが読んでスキを押していただいて、「あれ?その日って何を書いたっけ?」な感じに自分の文章を読み返して、「あぁ、この日ね」なんて思い出すきっかけになっている。
朝の文章をこれを書く前に読んで「ほほぅ」とか思ったり、ずっとぐるぐる考えていたことを文字にすることでぐるぐるぐるぐるから脱出できたり。
まぁ、何はともあれ、日記は自分のために書いている。
でもホント、書きっぱなしになりそうなものを読み返すきっかけを作ってくれるという意味では、今の具合がちょうどいいけれど、noteさんが目指すのはそういうものではないのだろうな、とも思っている。
(21:52)