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遅く起きた朝のオルゾーラテ

今までの生活と大きく変わった点は、やはり三日月さんとほとんど毎日会うことだろう。
自分から見ると、彼にとって三日月さんは、兄であり、父であり、そして、依存しているものであり、許されたいと思う相手。とにかく、他のどんな存在も三日月さんには敵わない。それは三日月さんにとっての彼もそうなのだろう。他の誰ともすげ替えることができない相手。
今まで三日月さんの存在を意識しなかったわけではないが、どこか常に自分のしていること、判断が三日月さんの意に沿っているかが気になり出した。
「そういうのは大丈夫」
三日月さんが言った。
「野々隅くんが青藍にやってあげたいと思うことをやればいいよ。青藍も嫌だったらイヤと言うし。あれでて、あいつは頑固なんだ」
それは少しわかるような気がした。
「でも…」
「じゃあ、そんなに気になるんだったら、ひとつ協力してもらおうか?」
「はい」
反射的に返事をしたら、三日月さんがニヤリと笑った。彼とほとんど同じ顔をしているが、この表情は彼にはない。
「まぁ、そこに座って」
言われるがままソファに腰を下ろす。
L字に配置されているソファ。普段は何故かソファとテーブルの間にクッションを置いて自分は座る。長いことソファのない生活だったからソファに慣れていないのかもしれない。こんなに座り心地のいいものなのに。
「近日中に槻木沢氏と青藍を会わせようと思っている」
「え?」
少し前、彼も槻木沢氏に連絡できないか?とは言っていたが、会うというのとは違うと思っていた。
「青藍としては例のテキストの続きを見たいだけで、槻木沢氏に会いたいというわけではないのだが」
三日月さんはきちんとわかっている。
「一応、うちの弁護士が身元引受人ということになってね。僕でも良かったけれど槻木沢氏をこっちにずっと置くわけにもいかないから、東京で身柄を預かる形にしたんだ。祖父の指示でもあるけどね」
なるほど、と頷く。
「槻木沢氏の真意を知るためにも今一度青藍に会うべきだと思うんだ。何故、彼が青藍に固執したのか?それを槻木沢氏から語ってもらう。そして、青藍が襲われた時、何故あそこにいたのか?」
それは自分も知りたかった。それでもやはり彼を槻木沢氏に会わせるというのは気が進まない。
「そこで頼みというのは、キミの会社の方で、その会う機会をセッティングしてほしい。あくまでも今回のイベント中止の後始末として」
「え?」
「田嶋社長には外崎君から依頼を入れるようにするから、そこにキミもいてくれないか?」三日月さんが言う。
「俺の代わり、というので納得してもらえるかな?その場に俺がいる方が不自然だからね。青藍には逃げ場が必要だし。親しくしている者がいない中に今の青藍をひとり置くのは酷な話だ」
確かにそうだ。
「近くにはいるようにする。何かあった時のために」
「何か?」
「槻木沢氏が青藍に敵意を持っていた場合」
「まさか、自分たちがいるところで何かするなんてこと」
「そうだな」
三日月さんはソファに寄り掛かり、腕を組んだ。
「槻木沢氏が冷静であることを祈ろう」

三日月さんとそういう話をしたのは昨日の夜だった。
昨夜は話が終わった頃、タイミングよく彼が風呂から出てきて、最近お気に入りの甘い麦茶を飲んでいた。風呂上がりだというのに麦茶は温かい。
自分は冷たい麦茶でも砂糖入れを試してみたことがある。冷たくても美味しく飲めた。
甘い麦茶を飲んだ彼は「歯を磨いてくる」と言って部屋を出ようとする。
「じゃあ、自分も今夜はこれで帰るよ」
「え?帰るの?」
彼が寂しそうに三日月さんに言う。
「悪いな。明日明後日と東京なんだ」
「そうなんだ」
「明後日、日曜の午後には戻るよ。おまえの好きなチョコレートを買ってくるから」
三日月さんがそう言うと彼は少し頬を膨らませた。
「そうやって、いつも子ども扱いして」
「いいんだよ。青藍は俺にとってはいつも大事な青藍なのだから」
彼は俯いたまま「気をつけていってらっしゃい」と言った。
今回の三日月さんの東京行きは、自分の会社も少し絡んでいる。
アートディレクター・タジマチカラ名前はすでに全国区だが、社長は会社の拠点をこの町から移すつもりは毛頭ないらしい。だが、こうして中央の仕事をする場合は東京にも拠点が必要になる。
その拠点を三日月グループの所有する物件の提供を申し出されたのである。
「今回の件の迷惑料だと思ってください」
三日月玄円氏の秘書からの申し出に田嶋社長もどう対応したらいいものか、当初は悩んだようだった。
「申し訳ないが、蒼月氏に確認を取ってもらえないだろうか?」
三日月グループの長としての三日月さんと話すことは今までなかった。今回の件に三日月グループが絡んでいることを彼は知らないので、自分で三日月さんに確認するしかなかった。
「これからもよろしく、ってことじゃないのかな?」
緊張して訊いた自分に対してあっさりと三日月さんは行った。
「あそこは結構いい建物だよ。居住スペースもあるから出張で行ってもホテルを取る必要もない」
「はぁ」
「祖父の顔を立てといてやってくれないかな」
三日月さんは少しすまなそうに言った。
期せずして、田嶋さんと三日月さんは顔を合わせることになった。その際には自分も立ち会ったが、緊張していたのは自分だけだった。
その席で田嶋さんは改めて宵月への「プログラミングコンテスト」への協力を三日月さんに頼んだ。
「よろしいのですか?」
あまりにもすんなりと承諾されて、田嶋さんは驚いた。
「窓口が自分で良ければ構いませんよ」
加えて三日月さんは、プログラミングコンテストに対し、三日月グループのシステム開発会社の全面協力を申し出た。
「心強いです。ありがとうございます」
「こちらこそ、こういうイベントには以前から興味があったのですが、なかなか自分たちから始めるというのもどうかと思っていたんです」
ひょっとしてこのプログラミングコンテストの開催をなんらかの形で働きかけていたのではないか?と自分は思った。
そういうわけで、東京の事務所となる物件の引き渡しも、三日月さんの東京行きの要件のひとつだった。
そしておそらく、三日月さんは槻木沢氏に会いに行くのだろう。

土曜日の朝。
いつも通りの6時の目覚ましで目が覚ます。
以前は彼も同じ頃に起きて来たが、例の件以来休みの日の朝はゆっくり起きてくる。
もともと眠りが浅い傾向だったが、彼は夜はうまく寝れていないのか、日中もうたた寝することが増えた。だから、何も予定のない日は朝は無理に起こさない。だからといって、昼まで眠り続けるということもなかった。
最近運動不足が気になっているので、朝のラジオ体操を動画サイトの音楽に合わせてひと通り行う。真剣にやると案外といい運動になる。1日のうちにどこかでやるようにしているが、なんとなく朝にやるのがしっくりくる。
ラジオたいそうを終え、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐ。最後の一杯だった。
ごくごくと喉を鳴らして飲み干す。
慌てて朝食の支度をする必要もないから、クラッカーをつまみながら、麦茶を煮出していた。
カフェインを取り過ぎるのも良くないので、この頃は家にいる時はコーヒーは少し控えめにしている。それは彼に限ったことではない。自分自身も仕事の打ち合わせにはコーヒーがつきものだ。
煮出した麦茶を保温ポットと、冷蔵庫とに分けて置く。やはり自分は風呂上がりなどは冷たい方がいい。
久留美さんからお薦めの麦茶の購入先を訊いた。
前回貰った分はまだある。でも、定番品として家にあった方がいいものだと思った。
「定期便で送ってもらっているから、多めに送ってもらうわね」
「特注品とかではないですよね?宵月が久留美さんお薦めの砂糖を入れて飲むのにすっかりハマってしまって」
「まぁ!」
久留美さんは手を叩いて喜んでいた。
もうすっかり久留美さんにとって彼はアイドルだった。
個人的に麦茶は煮出す派だった。
煮出した方が苦味もあるけど甘味もある。
「そんなのんちゃんに薬罐もあげちゃう」と久留美さんは少し変わった形の薬罐を出してきた。取手に値段タグがついたままのそれは、円柱形に近く、あまり深さはない。
「蓋も大きいから洗うのも楽なんだよね」
4年前に出張先にあった古道具屋で見つけて、ある分(3個だそうだ)買ってきたのだという。値段タグには鉛筆で「500えん」と書かれていた。
沸騰したら少し蓋をずらして弱火でしばらくグツグツ言わせる。これは父方の祖母仕込みだった。
早い時刻なのにダイニングテーブルの上に放って置いたスマホが鳴った。
こんな時間の電話はいい予感がしない。
慌てて画面を見ると会社の企画営業の竹谷くんだった。
「すみません。こんな時間に。しかもお休みの日に」
「いや。構わないけど。どうした?」
竹谷くんのスケジュールを思い出す。確か昨日から火曜日まで出張だったはずだ。
「実は宿泊先のホテルが火事で」
「え?大丈夫?」
「あ、ボヤで済んだのですが、建物が停電してしまって…」
電話をしながらタブレットで火事のニュースを確かめる。
竹谷くんはトラブルに巻き込まれることが多い。以前は海外出張先で航空機トラブルにもあった。
キャンセル料なしで今日以降のキャンセルも可能。新たな宿泊先の手配もホテル側でするとのことで、そこは問題ないようだ。
「月曜日に経理部には俺から連絡先に入れておくから、帰ってきたら改めて経理部に報告書あげといて」
「はい」
「じゃあ、気をつけて」
電話を切って、LINEのメッセージで、経理部の今野くんと田嶋社長に火事の件を送る。
田嶋さんからはすぐに返信があった。田嶋さんも東京に行くので今朝は早いようだ。
「やれやれ」
ダイニングの椅子に腰をかけた。
唐突に麦茶を煮出していたことを思い出した。キッチンは湯気が半端ない。加えて芳ばしい麦茶の香りが充満している。
「ヤバい!」
慌てて火を止める。蓋を戻そうとしたが蒸気が当たっていたせいかかなり熱くて触ることができない。
「やっちまった」
多分、濃くなってしまったんだろうなと、カップを用意する。ミトンをつけて薬罐の把手を掴む。ミトンは彼のものだ。少し自分には窮屈だった。
カップに少し注いで、息を吹きかけ一口飲む。
濃い。少し苦味が強いかもしれない。
「これは塩入りはダメかも」
もともと塩を入れると少し苦味を感じる。自分はともかく、彼は苦味の強いものは好まない。
カップを濯いで、再び薬罐から麦茶を注ぐ。
今度は少し砂糖を入れる。彼が麦茶に入れる時好んで入れるきび砂糖を入れた。
「自分だったらokだけど」
コクがあっていいんじゃないかな?などと呑気に思った。

「ごめん。寝坊した」
8時過ぎに彼が起きてきた。
「全然。今日は休みだし。それとも何か予定があった?」
そう訊ねると、彼は「あれ?」というように部屋をキョロキョロ見渡し、こちらが部屋着でいるのを確認すると「あぁ、焦った」と言ってそのままダイニングチェアに座り込んだ。
「麦茶の匂いがすごくするんだけど」彼は言った。
「新しく入れたんだけど、少し煮出しすぎちゃってさ」
正直に白状する。
「少し飲む?」
彼はコクリと頷いた。
彼のマグにポットに入れた麦茶を注ぐ。
「甘くする?」
「そのままでいいよ」
自分の分も入れて、ダイニングテーブルに置く。
彼がサッと布のコースターを敷く。
カップを両手で持つと、くんくんと匂いを嗅ぐ。
そしてひと口、そっと飲むと「あ」と小さく声が出た。
「いつもよりも少し苦いというか濃いね」
「やっぱり?」
「でも美味しい」
「砂糖、入れる?」
と、彼に訊ねて、急に閃いた。
「オルゾーラテ」
「え?」
「牛乳入れよう。あと練乳」
「え?」
一度目の「え?」の時と明らかに表情が変わった。
「そうだよ。この間チラッと読んだんだ。オルゾーラテ。大麦の抽出液で作るらしいけど、濃いめの麦茶でも代用できるって。確か砂糖じゃなくてコンデンスミルク、練乳げ甘味をつけるんだよ」
そうだった。雑誌の記事だったが絶対に彼の好みだと思って読んだのをすっかり忘れていた。
「飲んでみる?」
「うん」
もともとミルクティとかカフェオレが好きな彼だ。
「あのね。実は、オルゾーラテは子どもの頃に好きだったんだ」
彼が隣に並んで言う。
「こっちではあんまり見かけないんだよね」
「そうだな。たまにコーヒーショップで期間限定とかで出てるけど」
「ホント?」
「うん。夏になると出てくる」
「そっかぁ」
彼はとても残念そうだった。
今はミルクパンで牛乳を温めている。隣のコンロでは昨夜のスープを温めて、トースターでバゲットを焼く。朝食の支度に自然に切り替わっていた。
彼は冷蔵庫から練乳の入った瓶を取り出す。練乳は一度封を切ると冷蔵保存になる。冷蔵保存をするといささか硬くなり、チューブ入りだと案外と使いにくいことがわかった。少し割高の商品だが、瓶入りのものを使っている。これはスプーンで掬って使うしかないけど、案外とストレスなく使えるところがよかった。
マグカップに半分程度麦茶を注ぎ、温まった牛乳を注ぐ。彼がステア用のスプーンでかき混ぜたところに練乳をひと掬い入れる。気持ち多めに練乳を入れた。再びかき混ぜる。
彼は混ぜ終わったスプーンを取り出し、いつもにように少し匂いを嗅いで息を二、三度吹きかけ、そっとひと口飲んだ。
「あ、いい感じ」
「そう?」
「うん」
彼はそのままコクコクと飲んだ。
珍しい。いつもきちんと座って飲む行儀の良さが彼にはある。
自分も飲んでみると、彼好みの優しい味で、感じていた苦味もいい風味に変わっていた。
「ありだね」
「うん」
嬉しそうに頷いた。
「今度、久留美さんにも教えてみるよ。宵月教授お薦めと言えばきっと張り切って作るよ」
「そんなぁ…」
「いやいや。久留美さん、マジお前のファン。一度会ってほしいよ。なんかもうホント…そうそう、アオのお礼もしたいんだろう?」
「うん」
「久留美さんのアトリエに一緒に行かない?絶対、あそこ気にいるよ。ここみたいに森にはなってないけど、でも、大きな木もあるし、それに久留美さんの作るぬいぐるみを是非見てほしい。アオはまだ猫だとわかるけど、もう、ホントすごいから」
一気に言うと、彼は少し驚いたような顔でこちらを見ていた。
「そんなに言うなら、っていうか、そんなふうに強くお勧めするのって珍しい」
「そうか?」
「うん」
彼は頷くとオルゾーラテを口にした。このままだと朝食前に飲み終えてしまう。
「おいおい、続きは朝食と一緒にしよう」
「え?」
「もう満腹だとか言うなよ」
彼はマグを持ったままダイニングテーブルに向かった。
自分はスープとバゲットを持って行く。
槻木沢氏と彼を会わせる話を思い出した。
久留美さんにも相談した方がいいかもしれない。あの人ならうまく彼をフォローしてくれるかもしれない。
テーブルについた彼がマットを広げている。
とりあえずは休日の朝を堪能しよう。そう思った。

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