見出し画像

【哲学】「飲みサー」と「遊び」の関係性について

「飲みサー」は結局何をするサークルなのか、というよくある問いについての答えですが、答えは簡単です。「何もしていない」です。強いて言うのであれば、「遊び」をしているとでも言っておきましょう。

「飲みサー」を題材に取り上げること自体、若干リスキーなので、先に言っておきますが、自分は「飲みサー」に対して肯定も否定も何の感情もありません、その前提でこの話を聞いて貰えればと思います。

そもそも「飲みサー」についてですが、お酒をたくさん飲むサークルのことです。サークルとは、同好会の下位互換的な立ち位置のコミュニティです。

お酒をたくさん飲むサークル、とのことですが、飲酒の方法が独特な気がしています。「ゲーム飲み」と呼ばれる、ゲーム(一般的には山手線ゲームなど)の中で飲酒をする風潮、カルチャーがあります。「ゲーム飲み」をしている最中の「飲みサー」は、いわば世間と隔絶された存在、異質なものであります。

偏見かもしれませんが、私の認識として「飲みサー」の活動は、飲酒を通じて仲良くなろう!コミュニケーションを活性化させよう!というような、「飲みニケーション」目的は形骸化している認識です。ただ飲酒を楽しむ、楽しむ方法として「ゲーム飲み」を採用しているサークルの認識です。

また、「飲みサー」は、排他的でクローズドなコミュニティやな、と感じます。ゲームのルールを共通で知っていて、それを守れるものでなきゃそこにいてはいけない、みたいな空気感をすぐ出してくる。無秩序なようで、案外秩序は保たれているんですよね。

でも、それって、日常生活に必要ある?

答えは「否」。(無理して日常と紐づけようとする方は、人生には「楽しさ」も必要だよ!という訳のわからない言い訳みたいな回答をします。)

ここまで考えたところ、あることに気づいちゃったんですよね。

「これって、オランダの歴史家、ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』の中で言っていた『遊び』の定義にカチッとはまってるじゃん!」

突然ですが、皆さんはヨハン・ホイジンガという歴史家を知っていますか。こんな上から目線で問うていますが、大丈夫です、私も1時間前に知りました。彼は、オランダの歴史家で、「遊び」と「文化」について紐解いた人、みたいな感じの人です。「ホモ・ルーデンス」という書籍が有名でそこに色々書かれているみたいです。

ホイジンガは、「遊び」というものを因数分解して、定義付けしているんですよね。そこで、5つほどの特徴を挙げています。

①それ自体が強制されない「自由」なもの
②「現実」や「日常生活」から切り離されたもの
③外部から切り離された時空間で行われるもの
④「絶対的強制力」のあるルールのもとで行われるもの
⑤コミュニティを形成する傾向にあるもの

②と③の違いが絶妙にわかりにくいため、②をさらに解釈してみます。「遊び」は一般的に「仕事」や「勉強」の対比として語られがちですよね、つまり、利益追求やスキルの習得など、何か目的のある活動とは別の活動を指していると考えられます。つまり「遊び」自体の目的化、ということですかね。

つまり、上記の「遊び」の五箇条を満たす活動(つまり「遊び」。)に「飲みサー」の活動は当てはまるのではないか、ということですよね。検証していきましょう。

この21世紀において、二日酔いをはじめとする後悔がもれなくついてくる「飲酒」を強制する活動なんてタブーに近いはずじゃないですか。つまり、やるかやらないかは「自由」ですよね。

「飲みサー」で繰り広げられている飲酒は、目的なんてあるはずないですよね。つまり、飲酒自体が目的化しています。(利益もクソもありません。)ここで考えられる反論としては、お金がなくなるという点で現実や日常と紐づいてるやん、ということですが、焦点となるのは、お金をなくすための飲酒かどうかということです。違いますよね、結果としてお金がなくなるだけのものです。

③の現実と切り離された時空間で行われていること、ということについては若干議論の余地がありそうです。飲みサーの活動場所が、閉店時間の決まりがある「居酒屋」だとすれば、現実の時空間と一致する活動になりうるかもしれません。ただ、この議論については、④の条件についても絡む部分があると思うので、話を次に進めましょう。

④の「絶対的強制力」のあるルールのもとで行われるものかどうか、ですが、「ゲーム飲み」におけるゲームのルールはかなり強制力を持っている実感があります。噛んだら飲む、指名されたら飲む、など馬鹿馬鹿しいルールだらけなのになぜか皆さん揃って従っている。

ここで考えたいのは、外部圧力についてです。ホイジンガの理論では、「遊び」は「ルールをぶち壊そうとする外部要因を排除する」とありました。サッカーの試合で、ルールに沿って試合を進行している審判の判定に対して、抗議した監督が退場になるケースがそれに当てはまるでしょう。

飲みサーにおける外部要因は何でしょうか、店員でしょうか、何度も注意されている飲みサーを見たことがあります。ただ、店のルールに従えない飲みサーの方が立ち位置的には下なので、店員さんに従うべきだと思いますが、なぜか守らずに継続します。これは、「異なる時空間」で行われている全く別物の活動である、とも言えることが関係しているのではないでしょうか。

閉店時間も店のルールですが、飲みサーでは、基本は従いたくないという反骨精神が垣間見ることができます。つまり、理論上では、何にも制約のない宇宙空間であったとしても、無限に飲酒を続けるということです。(違う)

つまり、③の条件もここでクリアしました。

そして、⑤の条件ですが、「サークル」の時点でクリアです。

つまり、飲みサーは、「遊び」をしていると言えるんですよね。ホイジンガのいう「遊び」には何の目的もないので、飲みサーは、現実世界から見れば何もしていないことと同義になりますよね。ここまで書いて思ったのは、書くだけ無駄な記事になりそうだということです。これも一種の「遊び」ですね。

「遊び」についての哲学があることは、雑誌「広告」の「文化」特集で知りました。ホイジンガ以外に、現代の「遊び」について論じている「プレイ・マターズ」という本の著者であるミゲル・シカールの「遊び」論もなかなか興味深かったです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?