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YOASOBI「アイドル」感想。

YOASOBIの「アイドル」が人気だったので聴いてみました。YOASOBIってこんな感じだったっけ?「夜に駆ける」をリリース当初(受験期真っ只中の2019年冬)から聴いていた古参ファンとしてはその変わり様に驚きを隠しきれません。その異様さは各地で叫ばれているので、言わずもがなですが。

この曲を受けて感じたことがあるのでいくつか記録していこうと思う。

まず、抑えておきたい点としては、この曲の立ち位置というかポジションというかリリースされた背景。まぁお分かりの通り、アニメ「推しの子」の主題歌です。アニメについてざっくりとまとめると、嘘をテーマに芸能界の裏側を描いていく物語。いろんな嘘が描かれるのだけど、代表的なのは「アイドル」の嘘。「好き」と言ってみたり、「彼氏がいない」と言ってみたり。

主に、こうしたアニメの要素を引用している楽曲という理解でいる。

そんなこんなで、「アイドル」聴いているのですが、いろいろ思うことがある。

1個目は「曲」について。主語がでかいので非常に怖いけど、今noteで取り上げたいことがこれしかないので許してほしい。この曲を聴いてて感じたのは、歌う難易度の高さ。

YOASOBIの楽曲は言わずもがなカラオケで人気の楽曲だ。要因はなんなんだろう、結局中毒性の高いメロディと幾田りらのフロウなのかな。まぁでもこの曲もどうせカラオケでめちゃくちゃ歌われるんだろうな〜と半分諦めモード。ここ最近、歌う難易度の高い音楽が増えた気がする。(YOASOBIは代表格、白日、ヒゲダンなど)

でも、大衆向けに音楽を作る上でわざわざ歌う難易度を高くする必要があるのだろうか、と疑問だったんだけど、TikTokやYouTubeでの「歌ってみた」コンテンツを意識しているのかも?と一つ答えが出た。作者が意識しているかはわからないけど。でもバズりの法則の一つに「歌ってみた」コンテンツ化されることは入っているはず。

TikTokやIGのリールを見てみると、「歌ってみた」と同様に、「踊ってみた」もあった。なるほど、「踊ってみた」を意識することもバズる方法の一つなのか、と勉強になった。

この曲の特徴として「ラップ」があると思うんだけど、(この「ラップ」の完成度・定義については賛否両論ある、下記記事参照)これを「アイドルソング」として捉えるとするならば、面白いと思いました。「アイドルソング」とするか否かについてはさらに下の方で説明してます。

なぜ面白いと思うか、世界を席巻しているK-POPアイドルの楽曲では、「ラップ」を楽曲に取り入れる動きが一般化しつつあるのだけど、なぜか日本のアイドルは素通りしているからである。そんな事態を受けて、なぜか非アイドルアーティスト(かつ日本のトップクラスアーティスト)がアイドルソングでラップを取り入れている事実がすごく面白い。

ヒップホップが今すごくきている、というよりなぜ日本のアイドルにラップが取り入れられにくい(ラップはおろか、ビートさえほとんど使われていない。)のかを考えた方が面白いのでちょっと感じていることを、、、。

ヒップホップの中でもラップバトルというコンテンツにフォーカスを当てすぎたメディアのおかげで、日本のオーディエンスがヒップホップを遠ざけていると感じますね。当たり前だけど。「ラップバトル」というと、輩たちのくだらないお遊び、物騒、「韻」命!なんかのイメージを持たれがちだけど、そんな''ステレオタイプ''なイメージを払拭してくれている(と自分は感じる)、「楽曲」に注目する非ヘッズ(ヒップホップオタクじゃない人)は少ないですよね。だからもう少し「楽曲」としてのヒップホップを取り上げても良いのでは?と思います。

ラップを取り入れるメリットはいろいろあって(特にビート)、それがK-POPが世界でブイブイ言わしている一つの理由だと思う。「踊ってしまう音楽」の影響力が単に強い。言語を超える。そのほかの理由でいうと、強いビートで強い女性像を演出しており、世界のギャルズに刺さっているのも要因なのでは?(勉強不足。)

その点、日本のメジャーどころのアイドルはほとんど取り入れていない、取り入れた方が「変化」に敏感なオーディエンスに受け入れられなくなってしまうリスクがあるから、もしくは単純に崇高・清楚といったイメージを崩壊させたくないというブランディング観点からなのか、その理由はわからないけど。(単一言語の文化圏だから今の音楽業界が成り立っているんだぞ!!!とサマソニのケンドリックラマーに言われそう。サマソニで、もしケンドリックがsumikaやマカロニえんぴつを見るとするなら、どんなリアクションされてしまうんだろう、怖い。)

はたまた、Ayaseさんのツイートにこんなものがあって、このツイート以降リリースされたのが「アイドル」で、絶対に勝負の曲として認識しているはず。(本当かはわからないけど)ただ、これが本当ならYOASOBIとしての「勝負」が「迎合」であるという証明になってしまうかもしれないのでちょっと悲しい。

てか、日本のトップクラスの作曲家を嫉妬させるNewJeans、やばすぎる。
てか、「勝ち」ってなんだし!やりたいことやれよ!「勝ち=売れる」の方程式はもう見飽きてるよ。

「曲」について感じたのはこの辺。

2つ目は「消費のされ方」。リリースから数ヶ月経って、この曲の扱い方・消費のされ方についても気になったので、これもできる限り記載していきたい。

つい最近、鈴木愛理さんがこの「アイドル」を歌唱している動画を見た。なるほど、この曲はやはり「アイドルソング」として定着しているようだ。続いて手越様も。

ただ、この曲がアイドルソングとして消費されるにはなんか違和感がある。合ってるのか?感があるんだよな。(あくまでも自由だけど。)この曲はアイドルじゃない第三者ポジションのYOASOBIがリリースしたことに意味がある、と勝手に感じている。

というか、このアイドルが歌う「アイドル」を違和感や拒否反応なしで楽しめるのが自分的にはありえない。

理由は明確で、この「アイドル」はオタクへの皮肉としか思えないから。

歌詞に注目してみると、ステレオタイプなアイドル像(アイドルは大便しません的な、恋愛しないので愛してください的な)を信じるどうしようもないステレオタイプなオタクに、本当のことをわざわざ説明してあげてる曲なのでは?と思ってしまう。(「推しの子」にもそんなオタク像が投影されてる。)

歌詞だけじゃない、途中に入る男性のコーラスもまさに、彼らのお馴染みの「コール」だ。極め付けは、いくつかのnoteの記事でも言及されている幾田りらの子供っぽい(?)アニメみたいな(?)声だ。他のYOASOBIの楽曲でこんな声出してるの聴いたことないし、違和感が半端じゃない。近い例として挙げるならば、「可愛くてごめん feat. ちゅーたん」だろうか。リスナー、舐められてるっしょ、Suckって感じ。この特徴的なフロウには相手を馬鹿にするときのR指定のラップにも共通項があると思いますね。

(てか最近、こういう「行き過ぎたご自愛ムード」が氾濫していて心配です。)

まぁ、そんなオタクでもいい!と進んで聴ける人ならOKだ(同時に、君は本物のオタクだ)と思うけど、イマドキこんなオタクいるのかね?このオタク像って、さまざまな問題や事件を通じて現代では抹消されつつある気がしているから、もはやフィクションの域だよね。

この曲は、道徳的な間違いを犯したり、法を犯したりしていないのに、オタクの理想からずれただけでたくさん批判を浴びてしまう、そんなアイドル界についても皮肉ってる気すらしてなりません。

ただ最近のアイドルを静観してて思うのは、(NewJeansは例外)「見る見られる」の関係が際立ちすぎているな、ということ。「親しみやすいアイドル」から「まなざされるアイドル」へのシフトがエグい。オーディエンスとアイドルとの距離が遠すぎる気がする。この距離って、概念としては素晴らしいものだと思う、頂点に君臨する誰も辿り着くことのできない完璧なアイドル。ただ、犠牲にするものがデカすぎっしょ。よくないと思う。

「見る見られる」の関係は、それに気づかせない催眠術みたいなもので、ハマったら抜け出すことができない魔力だよね。メディアやステージってのは恐ろしいものだ。これからアイドルやインフルエンサーを目指す人はどれだけそれを理解できているのだろうか、「有名になりたい」の先は実はもっと恐ろしいものなのでは?と感じますし「推しの子」を見ててもそう感じます。

そう考えるとアイドルはどんどん減っていくのかな…?それも在り方として間違っている気がする。なんだろう、変わるべきなのは、アイドル側じゃなくてオーディエンス側なのかもね。

まぁここまで雑にお気持ち表明してきたけど、そこまで深く考えている人なんていないからどうでもいい。けどさなんか、もう少し考えてみるべきなのでは、と思いますね。笑いについて死ぬほど厳しいのに、お笑いより身近に摂取してる(はず、かもしれない)音楽は一考もしないのはちょっと甘えなのでは?と思うけど。自由だけど!!!結局、人の自由なので言いたいことはないけど、面白い聴き方について考えるきっかけになるといいなと思います。

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