感想:〈怪奇的で不思議なもの〉の人類学の第1部:妖怪学の今までとこれからが展望できる良書

本記事は「〈怪奇的で不思議なもの〉の人類学」の第1部を読んだ私の要約と感想です。
私の理解不足から著者様の意図とは異なる解釈をしている可能性が高いので、本記事を読んで誤った先入観を抱くのを避ける為に、なるべく書籍を読んでから本記事を読むようにしてください。

本書の構成

本書は3部構成になっており、妖怪について論じたのは第1部です。第2部は民間伝承の幾つかを取り上げて分析し、第3部はネット怪談について論じています。

第1部は3章構成になっており、1章は明治から1970年代までの妖怪論を解説し、2章は柳田國男と小松和彦の妖怪論を解説し、3章では著者の妖怪論が解説されます。

第1章の感想

現代の私達は当然のように妖怪を超自然的な存在だと思っています。
民間伝承や信仰対象としての妖怪を研究している人は別として、少なくとも妖怪を興味本位で楽しんでいる私にとって、妖怪は超自然的な存在です。

ですが著書は妖怪が超自然的な存在だとみなされるのは19世紀以降のことであると論じます。

超自然的とはどういうことか?

そもそも超自然的とはどういう概念なのでしょうか?
著者は、超自然について4種類の解釈、

  1. 霊的超自然

  2. 超越的超自然

  3. 普遍的超自然

  4. 非日常的超自然

を紹介します。

霊的超自然とは人間ではないもの、身体を持たない存在のことです。

ちなみに、妖怪を超自然的なものと思っている私でも、妖怪を霊的超自然とは思えません。
本書でも、霊的解釈は、河童のミイラや天狗の手形と言われる実在の痕跡があることから、妖怪には当てはまらないと論じられています。

19世紀以前だけではなく、現代においても、妖怪を神仏や幽霊のような霊的な存在に限定されると思っている人は少ないでしょう。
(妖怪の中には霊的で実体を持たないものがいても、全ての妖怪が霊的であると考える人は少ないという意味です)

超越的超自然とは、自然法則から外れた存在のことです。
それなら、霊的も自然ではありえないから、霊的も超越的も同じではないかと思われる方もいるかもしれません。
(後述する普遍的超自然はこの立場を取ります。)

ですが、そもそも自然科学の体系的知識がなくては、秩序ある法則性を持つ自然という意識がなく、その自然の秩序から外れた存在という概念も生まれません。

よって科学知識のない社会では、幽霊は秩序から外れた存在ではないので、霊的であっても超越的ではないという概念も成立しえます。
よって霊的と超越的は区別する必要があるというふうに考えます。

普遍的超自然とは、人間の脳に普遍的に備わった認知能力が反直観的とみなす存在のことです。
特定の時代や地方の文化風習、思想、迷信などには依存せずに妖怪を普遍的に定義できるのが強みです。

先ほどは、霊的と超越的な存在を区別しましたが、普遍的超越概念では、霊的存在も超越的存在も反直観的なので区別する必要はないと考えます。

非日常的超自然とは日常的に見かけない存在ということです。
他の分類のように難しい定義をぐちゃぐちゃ考えず、人間が毎日の生活で出会う存在ではないのならば超自然的存在とみなすシンプルな分類です。

なお、ここで言う日常は、自分以外の他人の日常も含みます。例えば私達は日常的にアザラシに会いませんが、エスキモーの人達は日常的にアザラシと遭遇するので、アザラシは日常的な存在です。
情報化社会になり、自分とは異なる日常も知る事ができるようになった現代において、非日常的超自然の領域はどんどん狭くなっています。

この立場では、他の解釈とは異なり、自然現象で説明できたり、人間が認識できる直観的な存在でも、日常的に出会う存在でなければ超自然的とみなせます。

本書では、19世紀以前まで、人々にとって妖怪はこの4つのどれにも当てはまらない存在であることが指摘されます。
(本書のネタバレになるので、ここではその理由についてまでは紹介しません。是非とも本書P21以降を読んでご確認ください)

19世紀以降の近代合理主義による妖怪の超自然化

19世紀に西洋の自然科学の概念が日本にもたらされると、その自然法則から外れた非合理な妖怪の扱いが意識されるようになりました

平田篤胤(あつたね)は妖怪を異界である幽冥(かくりょ)の存在と定義しました。
幽冥とは私たちと同じ世界に重なっている地続きの場所であり、こちらからは観測できず、向こうからはこちらを観測できる異界のことです。

(私たちの世界とは全く別に存在し、相互干渉のない世界である「異世界」の概念と「異界」の概念は区別されます)

ちなみに西洋では合理的な知識人でも神や天使のような不合理な存在を信じていることが多いです。
より正確には、神の実在を疑うことが許されない世間の中で暮らしています。

そんな世間に適応した知識人は、神の実在と自然科学的合理主義を矛盾なく同居させる必要があり、神の住まう天国という異界概念を信じました。
自然科学の法則に反する不合理も、異界で起きるならば許されます。

著者によれば、平田篤胤(あつたね)はキリスト教の神学書を通して異界の概念を知り、妖怪が存在する場所として、異界・幽冥(かくりょ)を考えた可能性が高いようです。

20世紀にはこの概念は浸透し、夏目漱石は異界に存在する妖怪は迷信と主張し、泉鏡花は異界に存在する妖怪の神秘的な力を信じました。
信じる、信じないのどちらの側も、妖怪を超自然的存在とみなしている点では共通しています

妖怪は「今・ここ」にあるものから、存在するかしないかを論ずる超自然的な対象になりました。

自然科学を前提として、そこから外れた存在という枠組みが妖怪に与えられたわけです

民俗学における妖怪

こうして19世紀から20世紀にかけて、妖怪は合理主義の視点から超自然的存在とみなされるようになりました。
その一方で妖怪を非存在論的に論ずる民俗学の研究も進みました。

非存在論的という言葉の意味は、妖怪を科学的な説明の対象とはみなさず、実在するか否かは論じないということだと私は解釈しています。
民俗学は、民間伝承などを通して人々の信仰の中で妖怪がどのように扱われているかを研究します。

つまり、妖怪を超自然的かどうかではなく、神と信仰の問題として扱いました。
神と信仰の話においては、人々が妖怪をどのように思っていたかが主題なので、妖怪が存在するかどうかは議論の対象にはなりません

民俗学の大家である柳田國男の定義によれば、妖怪とは零落した神です。
昔は神として崇められていたのが、時代とともに集めていた信仰を失い、妖怪という珍奇な動物扱いされるまでに落ちぶれたものとされます。

オカルトブームにおける妖怪

1960年代から1970年代にかけて水木しげる氏や多くの怪奇作家によるオカルトブームが到来しました

怪奇作家は雑誌で様々な妖怪の目撃談を紹介(創作)し、妖怪を幽霊やおばけ、モンスターと同じように扱いました。
子供を怖がらせるエンタメ性が最優先されたわけです

水木しげる氏は妖怪を幽霊とは区別し、民俗学的な解説を行いましたが、ガシャドクロのように最近の雑誌記事や写真をヒントに新しい妖怪も次々に創作しました。
全ての妖怪は創作されたものといえますが、もし研究者が自分で創作した妖怪を本に書いたら捏造と批判されるでしょう。
当然の話ですが、水木氏は研究者ではなくマンガ家なので、エンタメ性を優先しました

現代でも妖怪趣味の人は、異界に存在する超自然的な妖怪が好きな人と民俗学的な妖怪伝承が好きな人の2タイプがありますが(もちろんこの両方が好きな人も沢山います)、その潮流はこの時期に確定したのだと思いました

第2章の感想

2章では柳田國男と小松和彦の妖怪論を比較して、民俗学と人類学の妖怪研究の違いを論じています

本書において、著者は柳田國男のことを実在的民俗学と評します。
実在的とは自分が属する社会が妖怪や異界の実在を信じているという意味です。
柳田も幻覚のような神秘体験を通して異界や妖怪の存在を信じていた可能性があり、少なくとも身近には感じていたようです。

一方、著者は小松和彦のことを構造的人類学と評します。
構造的とはどういうことかというと、妖怪を信じている社会や人々の信仰心を客観的な分析の対象とすることです。
周縁化、つまり他人事として「妖怪を信じている人々」について論じているわけです。

要するに、民俗学は自己理解が目的で、人類学は他者理解が目的と言うわけです。
社会全体が妖怪を信じなくなる中で「自分達が信じている妖怪」を研究する民俗学的な妖怪研究は衰退し、「他者が信じているであろう妖怪」を研究する人類学的な妖怪研究が盛んになりました。

また著者は民俗学を歴史的、人類学を超歴史的(歴史には依存しないという意味)と評します

柳田の民俗学は、近代的な日本人である自分達が過去と比べてどのように変わろうとしているかを、妖怪を通して理解したいという動機があったと著者は推測しています。
私達は何者で、どこへ行こうとしているのかという、自己の変化を理解するための研究です。

自己の変化とは、すなわち自己の属する集団の民族性の変化でもあります。100年前の日本人の民俗と現在の日本人の民俗は異なります。
民俗学はこの民俗性の時間変化を研究する学問です。
柳田は、日本人が近代化していく中で、妖怪は神から零落していっていると考えました。

一方、100年前の日本人も現在の日本人も同じ人類です。
人類学は人類が持つ普遍的な性質を研究する学問です。人類学の観点では、同じ条件が与えられれば、100年前の日本人も現在の日本人も同じことをするはずです。
適切な条件さえ揃えば、いつでも妖怪は神になり、神は妖怪にもなります。妖怪は一方的に神から零落する存在ではなくなります。

柳田國男は妖怪を零落した神と定義しましたが、小松和彦は妖怪を人間にとって有害、もしくは何の役にも立たない存在と定義しました。
一方で、人間に有益な存在を神と定義もします。
そして、妖怪は柳田の言うように神から零落するだけではなく、何かの役立つようになれば神に戻ることもあると主張しました。

その具体例として小松は夜刀神が祀られて神になった事例を挙げました。

著者は「神の探求」という言葉を用いて、現代においては妖怪から神になる事例はなく、神に関わる妖怪が不在であると分析します。

ただ、この話には少し違和感を持ちました。
最近ではアマビエがコロナ禍の中で疫病退散のシンボルとしてありがたがれて、妖怪から脱却して、神のような扱いをされるようになりつつあります。
神社ではアマビエの像が立ち、護符などにアマビエが印刷されたりしています。
これは現在でも妖怪が神になる事例なのではないかと思いました。

もっとも、これは一過性のブームに過ぎないかもしれず、誰も本気でアマビエを神として奉ることはしていないので、妖怪が神になる事例とは断言できないとも思えます。

本章の最後では、著者から新しい妖怪の定義が提唱されます。
妖怪を神との関わりで論ずること自体が間違っているかもしれないと著者は言います。

妖怪は神や信仰とは無関係に存在するもので、零落した神でもなければ、神と妖怪を行き来するものでもないというわけです。

そして、妖怪を語る人々の感性を追及することで「自己理解としての民俗学的な妖怪研究」が再び可能になるのではないかと提案します。

この視点から先ほどに私が言及したアマビエブームを見れば、アマビエは神になる妖怪ではなく、人々に面白おかしく語られる妖怪と解釈すべきなのかもしれません。

著者のこの新しい妖怪論については第3章で更に詳しく語られます。

第3章の感想

今までので民俗学や人類学の妖怪論は、人々の信仰や信念が妖怪という概念を生み出したものと解釈していました。
よって近代化により信仰が薄れた現代においては、妖怪は民俗学や人類学の研究対象にはなりにくいとされてきました。

ですが著者は、ANTとプラズマという概念を用いて、信仰や信念に依らない妖怪論を提示します。

ANTとは、アクターネットワーク理論の略称で、あらゆる行為者は他の行為者との関係により構築されるという理論です。
関係が世界を作ると考えて、自立して存在している行為者はいないとみなします。

プラズマとは、社会体制や芸術の様式が激変する現象のことです。
ANT的に解釈すると、プラズマとは既存のネットワークが、今までとは全く無関係なネットワークと唐突につながる現象とみなせます。

私は最初、これはパラダイムシフトと同じ概念ではないかと思ってしまったのですが、わざわざ違う言葉を使うので異なる概念なのでしょう。

本書ではプラズマについて、社会化されておらず、主体化されていないものと説明されており、パラダイムシフトが既に社会化、主体化されたものであるのと異なります。

いわばプラズマはパラダイムシフト前夜といったものなのでしょう。
これから主体化されるかもしれないし、そのまま雲散霧消するかもしれない新しい何かというわけです。

そして妖怪とは、まだ既存のネットワークと関係づけられていないプラズマと解釈できます。

妖怪話の中には、ベタベタという足音だけ、くねくねと踊るだけ、ひらひらと紙が舞うだけという、神や意味あるものと関係づけられない不可解なものがあります。
これらは、私達のネットワークとの繋がりを持たない「プラズマ」としての妖怪というわけです。

人々とは無関係なもの。
人々が無関心なもの。
説明や解釈が不可能で、そもそも説明や解釈する必要性がないと思われているもの。
奇妙ではあるが、わざわざ記録に残すほどでもない些細な出来事

日本人はそういうものを妖怪というカテゴリーに分類してきたのではないか、と著者は考察します。
それならば、信仰なき現代においても、「奇妙な出来事」はネットや人々との雑談の中で多いに語られており、今でも民俗学が妖怪について研究する余地があります。
記録に残すほどでもない些細な出来事を収集するのは、民俗学が得意とするところだからです。