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大学時代、苦手な接客バイトを強要されて絶望した話 1

「接客のバイトをする事。」

大学の研究や就職活動で多忙を極める中で受けた、担当教員のからの就職指導における命令である。
私にとっては大学時代で最も、そして今までの人生でも上位に入るほどの絶望した瞬間であった。

長くなるが、当時の状況と経緯から述べる。

時は2010年の11月、私は大学3年生。工学部の電気・電子・機械系の学科に在籍していた。
通常は4年生になってから学科内の各研究室やゼミに配属されて卒業研究が始まるのが一般的だろうが、少なくとも私の大学では3年後期(秋学期)から仮配属のような形で研究室に入り、卒研に近い実習を行うことになっていた。4年の卒研でそれとは別の研究室を選択することも可能ではあるが、そのまま同じ研究室を希望する学生が大半だった。
就職活動も始まっており、それに関する指導も各自の研究室の教員から受けることになっていた。

この際に私が自ら希望して入ったのが件の研究室である。以下、この研究室をR研究室(R研)、指導教員をR先生と仮称する。

このR研究室は、自他共に認める体育会系の雰囲気の研究室であった。
普段は和気藹々としつつも、上(先生、先輩)の指示は絶対という典型的な縦社会の組織だった。良くも悪くも体育会系である。
忙しさや拘束時間も、同学科の他の研究室と比べても段違いに厳しかった(一般的に理系学科の研究室というのはある程度忙しいものだと思うが、他大学とは一概に比較ができないのでその程度については詳しく述べない)。
そんな研究室でもバイトをしているメンバーはいたが、一体どこからその時間と体力を捻出しているのか謎なほどだった。


しかし体育会系とは対極の性格で、むしろそういうのを嫌ってさえいる私が何故そんな研究室に入ったのか……であるが、一番の理由はやはり、研究内容としては学科内で最も自分のやりたい分野に近い研究室だったかったからである。

R研究室の分野を簡単に述べると、ロボットとそれに関する様々なシステムの研究だ。
元々ものづくりや機械に興味があった身としては、ロボット製作を通じてそうした勉強・研究ができるのは魅力である。それに、当時他に同様のことを行なっている研究室が学科内に少なかったから(あるにはあったが、魅力としてはR研の方があった)という理由もある。

更に私は1年生の頃から、R先生が顧問を務め、R研の多くのメンバーも所属するロボット製作サークルに入部していた。
このサークルは実質的にR研の下部組織のような位置付けで、一部の活動は研究と一体的に行われていた。下級生の部員も時には研究の手伝いをしたりなど、R研の研究に近いことをしていた。実際、R研にとっても教育コストを削減できるというメリットもあったのだろう。
そんな事情もあり、下級生の部員(かつ同学科の在籍者)も殆どがR研に入るのを希望していた。私もなんとなくそのつもりだった。

無論、そんな厳しいR研でうまくやっていけるのかという心配はあった。
それでもサークル時代から長く続けてきたことであるし、R先生や先輩らの厳しさも裏を返せば、研究や就活に関してしっかり指導が受けられる安心感でもある。卒業まで1年半、R研で覚悟を決めて頑張るつもりでいた。

この「バイトをせよ」の話が出るほんの数日前まで、R研への仮配属後、初のピークがあった。それが、先述のロボット製作サークルで参加したロボット競技大会だ。

1年生の頃から参加している大会ではあったが、負担は前年までの比ではなかった。
私も上級生になってやるべき仕事や責任が増え、サークル自体も過去の大会で実績ができてきたことから、より上を目指さねばならない雰囲気になっている。無論こちらにもR先生が付いているので気は抜けないし、何より本来の研究も同時並行で進めなくてはならない。
研究の合間を縫って数週間前から連日深夜まで調整を行い、前年までは日帰り参加だった大会自体も今回から二泊三日のフル参加になったりとかなりハードなものだった。

実を言うと、私はこの時点でかなり精神的に参っていた。
家に帰れば、この厳しい状況に耐えかねて思わず大泣きしたり、家族に八つ当たりしてしまうこともあった。そして我に返っては、そんな自分が嫌になって更に落ち込む、その状態を繰り返していた。正直、自ら死ぬ考えさえも頭を過った。それほど追い詰められていた。

そんな大会も終わり、やっと一息つけると思っていたのだが……

この「バイトをせよ」命令のきっかけとなったのは、研究室内での定例ミーティングの際の他愛ない世間話だった。週に数回あるこのミーティングでは研究や就活の状況について各人が報告を行うのだが、例のロボット大会終了直後の12月上旬頃のある回のことだった。
ある一人のメンバーがやっているバイトの話題になり、そこから話が発展し「そういえばこの中で接客バイト経験がない者はいるか」→「ではやったことのない者はやりなさい」と、R先生のまさに鶴の一声で決まった。

理由としては、就職を踏まえた上での社会勉強のため、特にコミュニケーション能力を鍛えるためだ。故に人と直接的に関わる接客業限定とされたのだ。他にも、物事に臨機応変に対応する力やストレス耐性などを鍛える狙いもあったのだろう。

更に2010年当時といえば、その2年前に起きたリーマンショックの影響がまだ全く収束しない超就職難の時期である。私の大学は決して偏差値が高いとも言えないものだったので、就職状況は特に厳しかった。
そんな状況下で我々が内定を得るには、並の経験(今は「ガクチカ」とでも言うのだろうか)では他大学には敵わないから、せめてそういう経験は積みなさい……という考えも、R先生にはあったのだろう。

確かにこれは一理ある。就活においてまずコミュニケーション能力が重視されているのは今も昔も変わらないだろう。それを鍛えておいて損はないというのも理解はできる。

アルバイトを通じての実務経験もあるに越したことはないのも分かる。
実際、面接やエントリーシート等でも学業や研究のことよりアルバイト経験について聞かれることは多かった。それほど企業側はバイト経験を重視していたということだろう。
(手前味噌ながら私は大学では成績優秀な方だったのだが、それについては殆ど見られることはなかった。せっかく学生の本分で結果を出したのに……)

それに、本来ならば研究や就活に専念せよとバイトを制限する立場であろう研究室から公認でバイトができるなんて、普通の大学生にとっては喜ばしいことかもしれない。

だが、私はこの時はただ絶望していた。
この忙しい研究と就職活動の中、ただでさえ要領の悪い私がそれらとバイトとを両立するなんて到底無理だ。

当時は未診断で自身でも知らなかったが、私は発達障害持ちである。特にマルチタスクが最も苦手だ。
大学の研究とサークル活動、それに就活、それだけで十分すぎるほどキャパオーバーだったところにまた新たなタスクを積まれて、絶望しないはずがない。

それに多くの発達障害者の例に漏れず、私も他人との会話や心を推し量るのが頗る苦手だ。そんな私に接客業の適性などあるわけがないし、わざわざやりたいとも思わない。
臨機応変に対応する能力の無さなども障害の診断を受けるまでもなく自覚していたし、「マニュアルに囚われない対応を……」なんて求められたら即アウトである。

そして接客業と切り離せないのがクレーム対応だ。よくある理不尽なクレームの話など、自分の経験でなくとも聞くだけで吐きそうになるのに、自分がその立場になったらその場で本気で泣くだろう。
現在ではいわゆるカスハラ対策なんて言われるようにもなってきたが、当時はそんな概念などあるはずもなかった。今でもそうだと言われるかもしれないが、それ以上に接客業者の人権など無いに等しかっただろう。

そしてあくまで私の勝手なイメージだが、採用されたら学校の用事など知ったことかと限界までシフトを入れられ、過度なノルマを課されたりして終いには自爆営業させられたり……と想像していた。
当時の不景気や就職難も相まって、労働者の権利なんて今以上に無かった時代である(と言ったら言い過ぎだろうか)。
当時はブラック企業なんて大して問題にすらなっていなかったし、「働き方改革」なんて叫ばれるようになるのも何年も後の話である。正社員でないアルバイトなら尚更だ。

そこまでの大変な思いをして、貰える時給は当時1000円に満たなかったと記憶する。全く割に合わない。
今回は給料が目的ではないが、何より当時は先述の過酷なロボット大会を終えたばかりで疲れ果てており、正直金を払ってでも休みたいくらいだった。そんな小銭なんか貰っても嬉しくはない。

百歩譲って、もしこのバイト経験によって就職できる確約が得られたり、あるいはその確率が飛躍的に上がる確証があるというのなら、どんなに辛くても納得して頑張れたかもしれない。
だが、そんなものはあるはずもない。先述のようにバイト経験を聞く企業があったように、その経験があるに越したことはないだろうが、それだけで内定が貰えるだなんてあり得ない話だ。当時の就職難を考えれば、多少のバイト経験など焼け石に水だっただろう。

とにかく、大イベントが一つやっと終わり、一息ついて今後は本来の活動(研究や就活)に専念できる……と思っていた矢先に、また新たな課題……しかも当人にとってはかなりハードな課題を課されるという状況、こんなもの誰であっても普通に絶望するシチュエーションだろう。
過酷なロボット大会が終われば今より状況は良くなるはずだと思って頑張ってきたが、清々しいまでに裏切られた格好だ。「どん底からさらに下に突き落とされる」……とはまさにこのことだと思った。

これから卒業まで、ただでさえ忙しない研究や学業の時間以外も、休息は許されず苦手なバイト漬け。しかも、そこまで頑張っても就職できる保証は全くない。
もし首尾よくブラック企業でない会社に就職できたとしても、労働基準法を守っている企業が日本にどれほどあっただろうか。有給休暇すら労働者の権利として取れない……なんて会社は今でもあるくらいだから、当時はそれは当然のことのようだった。余暇どころか、僅かな休息さえも定年まで……いや死ぬまで一切貰えないのだ。
私の人生には今後一切の自由はなく、もうどんなに頑張っても報われることはない。そう思わせる出来事であった。

しかし命令が下ってしまった以上どうにもできない。この忙しく厳しい研究室でも、バイトと両立している同期も先輩も多数いる。私にはそんなことができる器用さも体力もないが、そういう言い分が通らないのは聞くまでもない。
このR研で卒業までなんとか耐えるつもりでいたが、もう完全に心が折れてしまった。

勿論、制度上は4年の卒研で別の研究室を選択し直すことも出来るが、R先生や先輩方から「今まで面倒見てやったのにとんでもない」と止められる可能性もある。他にも、R研以外にも学科全体に影響が出るおそれもあり(詳細は次回述べる)、身勝手なことはできなかった。

先程述べたのロボット大会の際も死を考えるほど追い詰められたと書いたが、あまりにも絶望しすぎて死ぬことさえも忘れてしまうほどだった。
(このように言うと心無い人から「死ねなくなってよかったじゃん」などという言葉が飛んできそうだが、良いはずがない。このとき死んでいたらどれだけ幸せだったろうか……)

次回に続く。

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