第二回遼遠小説大賞結果発表&講評
2024年6月1日~7月31日に「遠く」=「小説の可能性」を裏テーマとしてほぼサイトを問わず開催された第二回遼遠小説大賞には、計30作の参加がありました。参加いただいた皆様ありがとうございます。
結果発表と講評を行います。まずは結果発表から。
大賞
毛盗『川のある土地』
優秀賞
倉井さとり『剥がして食べなきゃいけないんだよ』
杜松の実『ドキュメンタリー』
立談百景『ヤバき者』
辰井圭斗個人賞
フカ『メロンパン日和』
ポテトマト個人賞
壱単位『交差点の』
南沼個人賞
壱単位『交差点の』
Pz個人賞
藤田桜『ハルピュイア』
黒石廉個人賞
筆開紙閉『ハイパー・ハイブリッド・ニギリ』
毛盗さんの受賞コメント
毛盗さん、大賞受賞おめでとうございます!
以下、各作品の講評です。
講評
1.辰井圭斗『彼岸』
辰井:自作につき講評なし。
ポテトマト:積み重ねが非常に丁寧だなと感じました。
「若返り」が確立した技術になった世界における、人々の様々な思いの描写も。主人公が彼岸へと飛ぶことになる、動機の積み重ねも。
数々の描写が積み重なり、特殊な設定なのにすぐに飲み込めてしまうし、主人公が『彼岸』に行ってしまう場面の説得力が強くなっています。
何より『彼岸』の情景の美しさ。
ゲシュタルトが崩壊したかのように、今まで積み重ねてきた諸々の描写が一旦バラバラになり、混沌とした形となって次々と到来します。まるで緻密に計算されたジェットコースターのように、詩的な世界へと一時的に離陸し、最後はしっかりと現実に着地させてくれる作品だなと思いました。
果たして、この作品が参加者にとってのハードルとなるのか、それとも道標になるのか……。
いずれにせよ、評議員が出す第一作としては相応しいものだと感じました。
南沼:「冒険は、禁じられていてもしてしまうものだからだ」
彼岸に触れることを禁忌としながらも惹かれざるを得ないというのは、人間がいつから持つようになった欲求なのか、ということを考えてしまいました。
彼岸とは何なのか。『本当の世界』なのだととある登場人物は言います。主人公はまた、死んだ人間の魂が渡る場所であるかのように感じています。真実のほどは分かりませんが、両者に共通している認識は『一度彼岸に渡ってしまえば此岸に戻ることはできない』でしょう。
その不可逆なステップをいともたやすく乗り越えようとする動機も、様々描かれています。自らの仮説を証明するため。死んだ肉親に会うため、或いは純粋な冒険心。
人間が原初から持っている、ある抗いがたい気質について描こうとする挑戦であると、私はこの作品を読み取りました。
彼岸と此岸を隔てる距離、そして(幸運にも)帰り着いた後に生じる変化。それらを抒情的に描く手腕は見事と思います。
ベスタ―を彷彿とさせる、言葉の切り貼りによる二次元的表現、これも読み辛くならない程度の丁度よい味付け。
Pz: 『彼岸』と云うタイトル通り、この「小説」で越えようとしたのは「生死」或いは「次元」でしょうか。それは小説と云う形式から途中「前衛詩(今では「前衛」と云う言葉自体が前衛性を失ったが)」と云う形で表現された「カオス/死」の部分に読み取れますー実際、そこだけ章のノンブルが異なるー。
文字を図として扱い、所謂「臨死体験」を「模様」として表そうとしたのは面白いです。
ただ、この方式ですと、ウェブ上で発表した場合、読んでいる媒体に依ってそれが「正しく」出ているのか読者が混乱してしまうかも知れないので、もし可能ならnoteで画像データとしてその部分だけ上げる等すると後世にも親切かも知れません。
個人的には途中で出てきた「カオス」に惹かれる男が如何なったのか、その「心象風景」も書き、それが主人公のそれと何処が同じで、何処が異なるか、が見られると、「生」が多様である様に、「次元(或いは「死」)」の多様性・多元性が見られて面白かったかもな、とは思います。「生」が実際世界に於いて複雑系なら、「死」もまた(「生」と等価(と見るかは各々の宗教観に依りますが)である故に)複雑系であろうから、その豊穣さを見てみたい気もしました。
黒石:往きて帰りし物語、あるいは冥界譚、話型としてはポピュラーなものでしょう。
現世に戻るときの導きが「うんこ」であっても、それは変わりません。
だからこそ、当然、それで終わらないわけです。
最初に気になったのが執念めいてもみえることばの重ね方です。
これは大変魅力的であり、「カオス(彼岸)」の遠さと近さが同居する、手が届きそうで届かない遠さ、はかなさめいたものを突きつけてきます。
はかなさ、もろさ、はがゆさ、そういったものが常に手が届くところにあり、触れられるのに触れると消えるようなもろさ。
それは途中で文章が崩れていく中で最高潮に達する。
この部分のことばの選び方1つ1つが本当に素敵です。
昔話の絵本がばらばらにされて、ことばの断片がちらばってくるところとか、本当にかっこいい。
余韻をもたせたハッピーエンドであっても、常に触れられるのに触れると消える異界はすぐそばにある。
たとえば、最終話では、「塔也はこう呟いた」と一瞬だけ視点がぶれます。
「俺」は誰なのか、一瞬、現世と彼岸、秩序と混沌が重なってくるような感覚にさせられます。
この感覚がとてもぞわぞわとしてくるのです。
さて、この物語で、会話文を持つ登場人物は8名いるのですが、第1話の救急隊員を除く7名がわずか1万字の中で輪郭をもって描かれているのがすごいです。
「男」、「老夫婦」といった世界観を説明するためだけに出てきた装置としても許されそうなところまで、描き込まれているのです。
特に「男」の語る魂の話につながる「老夫婦」の物語はとても素敵でした。
すべてが描きこまれているからこそ、読者である私の眼前にカオスがあらわれてくるのかもしれません。
これもまた遠くて近いといえるのかもしれません。
私は前衛的な小説を好む方だと思うのですが、前衛的になればなるほど、難解になっていきます。
実のところ、わかりやすさと前衛性はトレードオフになると私は単純に割り切っていました。
ただ、この小説はわかりやすく面白くもあるのです。だいたい、第1話のマウスの実験とか面白すぎて、一気に引き込まれるのですから。
遠くにありながら近くもある。
「遠さ」を主催者として求めながらも、それだけではないところまで辿り着こうとする。そこに主催者の「遠く」への意思を感じました。
2.サトウ・レン『空音』
辰井:サトウさんの『空音』は、「堅実な作りが好印象である一方、足場としているテーマ設定が『小説と嘘』という“安全”なものであり、殻を破り切れていない作品」というのが第一印象だった。
その上でもう一度読んでみた。
さすがに上手い。堅実に堅実に積み重ねてきて、書き慣れた人の小説だと感じる。
「信頼できない語り手」(それはリムアでもあり「僕」でもある)の嘘が合理的には解釈不能な地点まで積み重なっていく。
そのため、終盤の展開は結局どういうことだったのか合理的な思考では整合しない。だからこそ、『小説と嘘』というテーマの中で、落ち着きどころのない宙ぶらりんの状態になれる。
やるべき仕事をしっかりとやっているという気がする。
しかしながら、やはり、私はあまり乗り切れなかった。
「足場としているテーマ設定が『小説と嘘』という“安全”なもの」だからというのは、ある。
つまり、小説が現実にはなかったことという意味での嘘を含むこと自体はあまり議論の余地がなく、「小説のホントウ性」や「小説は嘘であるにもかかわらず何故必要か」といった隣接するよりスリリングなテーマは視界に入っているだろうけれども、焦点が合っていないため、小説の立脚点がフレッシュでないように見えるという問題は。
もっとも、これは遼遠小説大賞の、私の評価だとそうだという話に過ぎない。
他の賞に出したら別の評価が返って来る作品かもしれないなとも思うウェルメイドな作品だった。
ポテトマト:構成の妙を強く感じた作品でした。
物語内で起こった事に関していくつもの解釈の余地がありながら、しかし一方で、どの解釈にも否定の余地があるかのような。どの証言が本当で、どの証言が嘘なのかが最後まで分からない構成は、この作品のテーマである「小説というものは、ただの嘘なのではないか」という疑問を投げかけるのに相応しい物だと感じます。
また、複雑なプロットを最後まで読ませる技術も凄い。
読者がついて行ける範囲で謎を開示するバランス感覚はお見事ですし、2ページ目の村の因習描写の生々しさも、思わず目を背けたくなってしまう程のリアリティを帯びていました。俯瞰してみた時の構成そのものは曖昧でありながらも、文体そのもののはコンパクトかつ明快であり、主人公の述懐が何の滞りもなく伝わってきます。文章そのものが分かりやすいからこそ、今回のような複雑な設計でもスラリと読めるのだと私は感じました。
積み重なってゆく謎が段々と解決していくかと思えば、最後になって実は全部解決してない事に気付かされ、いつの間にか凄く遠い地点に置いてかれていた事に気がつくような。そんな、凄く楽しい読書体験をさせていただきました。
しかし、一方で本作においては文体が読みやすいという点が、逆に平坦すぎるという欠点にも繋がった印象を受けました。そしてその平坦さが冒頭と最後に載せられた詩のような独白のリズムとミスマッチを起こし、悪い意味でノイズとなってしまっています。
不条理を取り扱う作品は、一般的な物語から外れ、ストーリーというものを読者が掴めないが故に、そこまでしてなぜ不条理を追い求めるのか、どんな文章の迫力や文字の並びの美しさを追い求めていたのか、それを問われてしまう……。あくまでこれは持論であり、作者様の追い求める小説像と異なるのであれば無視していただいて構いません。構成の妙を強く感じたという評価に違いはないことを、改めてお伝えいたします。素敵な作品をありがとうございました。
南沼:構成が非常に綺麗な作品という印象を受けました。
冒頭と最後のパラグラフもそうですが、各話のタイトル、展開の配置、それぞれの長さ、すべてが整然と整えられた箱庭を思わせます。
サスペンス仕掛けの展開から一転、だけでは終わらずさらにもう一転し、虚空に溶けるように終わりゆく様は美しい。
そういった儚さを伴う美しさ、地に足の着いた現世からの乖離は遼遠のテーマに相応しいと感じます。
冒頭から主人公がどこか浮世離れしてしているところ(これは作品の軸となる伏線ですが)もまた『虚』を演出するフックになっている。
ある種の整合性を放棄しその結果現れる美しさを追求した作品、と読みましたが、しかしながらそうであればこそ言葉選びのひとつひとつをもう少し研ぎ澄ませてほしかったと思います。
Pz: 私もかつて、似た様な構造の「物語」を書いた事が有ります。だから、作者が何をしたかったのは解るつもりですし、その狙い自体は私も好きです。だから、ここから先に辛辣な言葉があったとしても、それは私自身への言葉だと思って読んで貰えると助かります。
先ず、作者が超えたかったのは「読者/主人公(書き手)」と云う境でしょう。少なくともそれは私が超えたい物でもあります。その上で、1読者(或いは愚かな大衆の1人)としてこれを読んだ場合、そこを「超える」には作者の「解説」が必要となる事が痛感させられました。いや、心ある読者ならばこの構造は看破するでしょう。しかし、どうしても作者ならざる読者には、今自分が読んだそれが本当に作者の狙い通りなのか、それを確信する言葉(解説)が無いと落ち着かない事が解りました。
その上で、作者としての私なら、その「宙ぶらりん」をこそ楽しんで欲しいと思うでしょう。実際私もそれは好きです。ただ、この「宙ぶらりん」は「宙ぶらりんを楽しんでね」と云う作者からの(かなり)強い後押しが無いと読者の中で機能し難い、とも思いました。
私自身はその反芻を楽しめますが、作中で主人公がもう少し「宙ぶらりんのガイドライン」を出してくれると、もっとそれを楽しめる人は増えるかも知れません。もし作者がそれを楽しめる人を増やしたいのならば、だけれど。
黒石:虚構をめぐる物語。
最初に思ったのは、ヒキが素晴らしくうまいなということでした。
1話目の情報の出し方と焦らし方で、次の話に進みたくなるし、2話目の「物語を憎んだ、あなたへ」というヒキは反則的です。これではここでとめられません。
それ以外も含めて、とても上手い。
1話目の「「彼女が僕のいる世界に戻ってきたのは」という表現や、リンチ参加者の「あちゃー、久し振りにやり過ぎたか」という脳天気にきこえることばはぞくぞくくるところでした。
ただ、このうまさが、ひっかかってしまうところもありました。
この小説は、いわゆる「信頼できない語り手」という装置を用いているのですが、これは情報化した社会では、かなり使い方が難しいものではないかと思うことがあるのです。
私たちは日々、SNSや仕事の場で「信頼できない語り手」たちが紡ぐ物語にさらされています。
この現実を小説で凌駕するためには、もうひとひねり必要な気がするのです。
サトウさんには、それをやってほしいなと思います。
サトウさんの小説に魅せられ、その上手さに惹かれ、引き込まれてしまっている。
だからこそ、さらに遠くに連れていってくれと私はサトウさんに懇願しているのでしょう。
これまで積み上げられてきたものをどこまでも磨いていて進もうとするところに、遠くへ向かう意思を感じました。
3.功琉偉 つばさ『光の園』
辰井:この前に送ってくださったエッセイも、この作品も両方とも読んで、『遼遠小説大賞の趣旨を本当に分かってくれてるのだろうか?』と思った。
私が「小説の可能性」だとか「遠く」だとか言っているのは、恐らく功琉偉さんが想像しているよりも余程苦い気持ちを込めて言っているのだということをいつか分かってもらえたら嬉しい。
限界や行き詰まりや絶望感をひしひしと感じているからこそ、こういう企画をやっているのだと。
では、この作品は良くなかったか。いや。とても良かった。
多分功琉偉さんが意図したかたちではないけれど、私はこの作品は遼遠のテーマに応えてくれていると思った。
色々と、あり得ないことが起こる作品だ。
地下鉄の直ぐ側の大きな公園にいるのに、「ポツポツとかすかに街灯が見えるがほぼあってないようなもの」というのはさすがに地理的にあり得ないと思われるが、そう見えるほど、二人の上に広がる星空は他を圧する輝きを放っていたのだろうし、さっきまで一番星だと言っていたのにもかかわらずいきなり夜明けになる時間感覚もあり得ないが、「実際二人はそう感じた」のだろう。
そういうマジカルな時間がここには(期せずして)描かれている。
このあり得ないことが起こるというのは、そしてもっと言えばそれをこうして(恐らく)無自覚にも書けてしまうのは、人生のごく若い時期にのみ起こる魔法だと思っている。
そういう大人世代がどれほど渇望しようがほとんど手に入らないように思われる輝きがある作品で参加してくれてとても嬉しい。
色々言いたいことはある。
最初にも言ったけれども、趣旨をちゃんと理解してくれてないんじゃないかとか、いくらなんでも会話がスカスカだ、普段の長編ではもっと密度のあるものが書けているのに急いでしまったのかとか、漱石の月の翻訳を話題にした会話はさすがに陳腐で恥ずかしいと思うよとか。
でも、良い所の方がずっと強かった。
ポテトマト:とてもスマートな文体だなと感じました。
特に、地の文のバランスが素晴らしい。文字数こそ少ないけれど、主人公にとっての情景の瑞々しさがしっかりと伝わってきます。「風が吹くたびにザザ〜という木々の葉がこすれる音がする。」といった可愛らしい擬音語がありつつも、「風の音と光の園と化したこの夜空に身を任せながら勇気を出していってみた。」と少し背伸びした感じの言葉選びが入り混じるのも、青春真っ只中の若者の述懐としてはむしろ相応しいのではないかと感じています。
また、尊い時間を過ごしている瞬間特有の、長い筈の時間が一瞬に感じられるような、不思議な時間感覚を端的に表現できているのも凄いところだと思います。側から見ると何気ないなと思えてしまうような会話であっても、当人達にとっては間違いなくかけがえのない言葉なのである……。そんな事を読んでいて感じました。
しかし、この大賞の裏テーマである「小説の可能性」という点から評価すると、小説自体のコンセプトというか、ご自身の小説の得意分野の棚卸しが完全には出来てはいないのかなといった印象を受けざるを得ませんでした。
特にそう感じたのは、会話の部分。漱石の月の下りの箇所です。「令和の世でこんな会話をする男女が存在するというのは、流石に現実的ではなくない?」という感想が出てきてしまい、それがノイズとなって折角の情景美に集中出来なかったなあと感じてしまいました。
より現代の若者っぽい会話にしたり、逆に非現実感を利用してファンタジックな世界観を展開したり……。ご自身が表現したい内容や世界観に対し、今の登場人物、舞台設定が一番噛み合っているのか?そこに対して、もう少し検討の跡が見えても良かったのかなあと思います。
ただ、それを差し引いても現時点において確かな表現力があるのは間違いありません。いつの間にか忘れ去っていた初々しい感情が、微かに胸の内に蘇ってくるかのような、そんな作品でした。
南沼:
若い男女の爽やかな恋愛、二人と星空の他は何もない。シンプルかつ良くマッチングするシチュエーションに、ギミックの加えられた作品。
天文にはあまり明るくないのですが、調べてみると確かに5月頃にはみずがめ座η流星群が観測できるのですね。
そして観測のピークは夜中。
つまり作中ずっと時間は通常よりも早く流れているのかな。(太陽が一気に顔を出すとか、時間当たりの密度が比較的低いはずのみずがめ座η流星群を光のカーテンに例えたりとか)
この超常的なギミックが、どこかこそばゆくなってしまうような青春の一幕にひと味添えられて、美しさと同時にショートムービー的な味わいを併せ持つ一作になっています。
「遠くへ」という気概もまたここに感じます。
ただ難を言うなれば、そこで止まってしまっている。
遼遠の名を冠する小説大賞への参加作としてはもうひと捻り、もう一歩先、あるいはまた別種の小説としての美しさが欲しかった(かつ、句読点や段落冒頭の文字空け等の作法も)というのが正直なところです。
Pz: 先ずは作品のほんわかとした雰囲気が感じられるのは好きです。ただ、レギュレーション⑧にある裏テーマ「遠く」を読み取り難かったです。勿論、星々の物理的な遠さや、「僕」と「君」との心理的距離の変化は「遠く」を捉えているとも読み取れますが、これはちょっと読み手としての私がかなり好意的に解釈しないと、これらを裏テーマ「遠く」とするには説得力は薄いかと思います。或いは私が読み取れていなかったのなら申し訳ない。
下記は蛇足になりますが、一応書いておきます。
先ず、日本語の文章表記の定石は抑えておいた方が良いかと思います。具体的には「」内の会話文の末尾には「。」を付けない。段落の文頭は一文字空ける、等です。
勿論、これらを「敢えて」無視する事は可能ですし、それを無視する方が効果的な場合もあります。例えば英文小説の場合は””の中の会話文にも”.”は付きますので、「英文小説の雰囲気を出したい」と云う場合には、敢えて「禁じ手」を採る事も有効でしょう。
しかし今作は日本を舞台とし、会話の内容も日本の生徒・学生が行なっている様ですので、その場合、これらの「禁則」を行うのは、読者にとってノイズとなり、折角の雰囲気を邪魔する形に作用する様に感じます。
また、冒頭の会話文を出す際、最初は誰の発言なのか明示して貰えると、読者は状況を想像し易く、よりお話に没入し易くなるでしょう。今作の字数は少ないので読み返せば良い事かも知れませんが、一人称視点の場合、地の文と会話文との関係性が直ぐに把握できないのは、矢張り雰囲気を感じて貰うのを阻害しかねませんので、この辺り、特別な意図(例えば裏テーマの「遠く」と関連付けている、等)が無い場合は、徒に読者を混乱させない方が親切かと思われます。
黒石:描写のオンオフに魅せられた作品でした。
冒頭の公園の情景が簡素ながらも、目に見えるように描写されているのに対し、主人公視点を通して見ているはずの「君」については、描写を一切していません。
会話だけなのに、彼女は大変魅力的でそわそわさせられます。
ためしに公園や空の描写を全部読み飛ばしてみたのですが、そうすると彼女の「姿」は浮かび上がってきません。
これはすごいなと思いました。
あらすじに
「情景などを想像して読んでみてくれると嬉しいです」
とありましたが、こちらはそのようなことを意識しなくても情景などを想像させられてしまうのです。
情景のオンオフばかりの話になりました。
もちろん、これは会話部分がいらないということを意味しません。
会話は会話でとても魅力的で、本当に可愛らしいのです。
読みやすく魅力的な会話の中に尖った描写の仕方を混ぜてくるところに、「遠く」へ向かおうという意思を感じました。
4.藤泉都理『あだばな』
辰井:ポメガバースと自分を殺した男に転生するという、途中までは小説を遠くに向かわせる推進力として機能していた設定が、ある距離からブレーキに転じてしまっているような印象を受けた。
最初の方、辞典などから言葉の定義や物の基本情報を引いたり、水の擬音を並べたり、「ぞうお。」「しっと。」と言葉を連ねていくところは、そうして世界の輪郭をゆっくりと手でなぞって確かめていくような感触があって、ワクワクした。
藤泉さんの「空白」の多い、すなわち書くものと書かないものの線引きが潔く、標準的な書き方と比較すると書かない情報が多いが、しかしだからこそ全体として美が完成されているという書き方ととても相性がよかったと思う。
そして、そういう世界の輪郭を確かめる原初的な記述を、迷子にさせずに成り立たせているのは、ポメガバースと転生のやや過積載された設定ではあった。
だから、途中までは奏功していた。
だが、後半に設定の結果として辿り着く、「俺」と「俺」がほとんど混ざり合い彼我の区別が難しくなるような感情の渦が生じるところに至って、それ単体ではもちろん面白かったし、作家性を感じる「美味しい」部分ではあったけれども、この一つの小説の中で前半の試みと後半の試みをつながりのある一連の流れとして、私の中では呑み込みづらいところがあった。
もちろん、設定はつながっているが、設定をもとに進もうとした方向は果たして一致していたのかと思ってしまう。
――或いは、世界の輪郭を確かめる試みすらも、感情の渦に呑まれてしまうから「あだばな」なのか?
それでも、名前を、すなわち俺とお前を、世界を分ける鍵を最後に聞く、そんな夜明けへの強い願いの話なのか?
もう少し、あとほんの少しだけ全体を俯瞰した整理が欲しい。
「書くものと書かないものの選択」と「世界の輪郭を確かめる手つき」の組み合わせや、「彼我の境界が混ざり合う感情の渦」などマジカルな作品になる要素は複数あり、可能性は十分ある作品だった。
ポテトマト:緊張感に満ちた文体と、孤独に癒しを渇望し続ける独白が非常に魅力的でした。
特に序盤の「水」に関わる演出の作り方は、とにかく素晴らしいの一言に尽きます。
小説の音としての側面を活かすのが上手いというか、描写のリズム感が全般的に非常に良く、常に次のページを楽しみにしながら読み進めることができました。こうした小説の音声表現の上手さは中盤から始まる主人公の叫びのような独白の力強さにも繋がっており、とても複雑な設定の筈なのに凄く読み味が良かったです。
設定に関しては、自分が掴み切れていない箇所が多数あると思うのですが、それでも自分の中で自分の抱えた憎悪が渦を巻き、救いを求めて彷徨い続けているかのような感触が不思議と心地よかったです。永遠と癒しを求め続ける主人公の欲求は切実で、自分の外側に癒しを求めていたはずなのに、求めれば求めるほどに自分の心の奥底へと沈み込んでしまうアンビバレントな所が非常に自分の好みでした。
ただし、この作品で訴えたい感情を表現する舞台として、「”ポメガバース”というものが一番ふさわしかったのか?」。これに関しては若干の疑問が残ります。確かに「ポメガバース」という世界観の新しい可能性は十全に示せているものの、この作品のテーマの一つである「癒しを与えられる存在」として、”ポメラニアン”という存在が一番ふさわしかったのかについては、未だ考察の余地があったように思えました。
また、「転生」という用語が何の説明もなく出てきたのも、個人的には気になります。「転生」という設定は、「異世界テンプレ」という呼ばれ方が示すとおりに皆が共通の認識を持っているかのように思われがちですが、実際には百人百様で、人や作品によって細かな違いがある筈です。この作品がある意味でアウトサイダー的な作品であるからこそ、前提のすり合わせはより丁寧に行ったほうが余計なノイズがなく伝わりやすいですし、設定を煮詰めた所から新たな表現の余地が生まれるのではないか、というのが自分の意見です。
しかし、これはあくまで一読者の勝手な言葉であり、作者様の中に明確な答えがあるのならば無視していただいても構いません。
総じて、強烈な感情が渦巻く様子が鮮明に感じ取れるような、瑞々しい作品でした。
南沼:ストーリーの核、「お前(俺)が俺を殺す」が物語全体の中盤にあって、そこから前後各話に波紋を広げていく、非常に印象派的な作りの作品と読みました。
お前=俺というところが更に、因果の曖昧さを作り出し物語の構造を複雑化していく。
円環形状を思わせる、まさしくそれは波紋である訳です。
ただ(私の読みが違っていれば申し訳ないのですが)そうした時に、やはり不純物がかなり目立つ作品なのは否めないように思います。
まるまる一話を使った他サイトからの引用や、ポメガバースなる造語はまさしくそれに当たる。
いやポメガバースですよ。
何度も読み返してなお、「これなんやねん」の思いが非常に強い(めちゃくちゃ褒めてます、念の為)。
ワードとしても非常に強いこれを、しかしながら必然性のあるものとして使いこなせていないという印象があります。
作品を通して描き出そうとしたものは美しく、素材の選択もオンリーワンではあることもまた間違いないのですが、お互いちぐはぐになってしまっているように感じます。
Pz: 彼我を「超えた」宿命的《フェイタル》な2人が運命的に交わるが故に最も「遠く」なるお話の構成が面白いです。また、コミカルになる事が多い印象のポメラバースを、ポメラニアンになる仕組みを物語の構造に組み込み、ここまでシリアスで幻想的に仕上げてくるのも意外であり見事。
これ以上述べるとネタバレになってしまうので仔細には言及しませんが、引用と地の文の扱いも面白かったです。
なのでこれは蛇足なのですが、1点だけ気になった点を。
サントリーからのデータに関して「参照」となってはいるものの、漢数字になっていたのが気にかかりました。
慥に漢数字の方が作風に合っており、また「参照」なのですから学術的ディシプリンを墨守する必要もないのですが、個人的には原文ママの方が、作品内のリズムに対して変拍子的に作用したかも知れないな、とも思い、それはそれで見てみたいなとなってしまいました。
黒石:インドラと蟻の行列についての神話を思い出しました。
ひたすら繰り返される世界、俺はお前でお前は俺で。
最終話の「なまえ」は第1話の「あだばな」につながるようにされる。
私は雑な読者なので、初読ではよくつかめず、後に各話の「俺」について、まとめながら再読しました。
ものすごく緻密に曖昧さと繰り返される世界を表現していて、感嘆しました。
気づきやすいところだと、話数的には折り返し地点にあたる第6話「いかり」における「ポメラニアンになった俺を殺した人間」という表現。
あえて修飾被修飾の関係を二通りに読めるようにしておくことで、「俺」自体が曖昧になっていく。
それが、10話、11話でものすごく効いてくるのですね。
様々なことが曖昧なまま、唯一揺るぎない情報として提示されていたと私が思い込んでいた〈殺害する俺に転生した俺〉というものもゆらいでくる。
俺は殺害される俺ではなくて、殺害される俺の血肉をくらって殺害される俺になったことが示唆される。
そして、ゆらぎを抱えたまま、最終話を読み、また第1話へのつながりを示唆される。
うわぁ、すげぇ。
さて、私はBLについては、あまり詳しくはありません。
昔、友人にレクチャーを受けたものの、その後、あまり積極的に読んでいなかったので、オメガバースという言葉もなんとなくどこかで聞いたくらいです。
だから、最初はポメガバースという言葉が出てきたときに、「従来のジャンルの辞書的説明に造語を混ぜながら、テーマを提示する?」などというメモを残しておりました。
そのような私なので、BL的な見方はできていないのですが、そのような者にとっても、第1話、2話の提示の仕方はとてもうまく刺さるものでしたし、惹かれるものでした。
繰り返しを描くというのは、よくあるテーマだと思います。
ただ、そのテーマをただ出すのではなく表現全てで感じ取らせようとするところに「遠く」へ向かう意思を感じました。
5.南沼『雨上がりに匂いたつ』
辰井:以前、南沼さんの別の作品を評して、「ある日紙の本で出会ったとしても誰かの大切な作品になるような小説」といった表現をした覚えがあるが、本作でもそう感じた。
なんだ、他人事みたいに。「私がそう」なのだ。
私も、ある日短編集か何かを読んでいてこの作品に出会ったとしたら、長い間この作品のことを覚えていて考えてしまうだろうと思った。
「Web小説としては」といった無粋な枕詞が不要な傑作だと思う。
冒頭から非常に丁寧な、生活の一つ一つを実感を込めて見ているような描写が続く。
その彼女を視点とした描写から、彼女が世間から乖離して、「一人前」ではないながらも、細かやかな、ある種の豊かさがある生活をしていることが十分すぎるほどに分かる。
だからこそ、前半からの謎の男や永田の訪れが、終盤の性描写を待たなくとも、そのまま「女」に「男」が入って来る印象を持たせて、些かの期待と予感と生理的嫌悪を感じさせる。
これがもうまず見事だった。
終盤の性描写が目を惹くけれども、もうじっとりとした「女」と「男」がそれまでの段階で十分に描かれている。
しかし、本作で主人公が本当に楽しみにするようになるのは、永田との性交渉の後に訪れる兄の世界であって、そこが一種カラッとした感じ、重くなりきらない感じ、見通しの良さを持っていた。
雨の中に終わる話ではなく、雨上がりに終わる話。
一見、永田に従属させられているような性交渉でありながら、決して従属―被従属では終わらない。
そして永田はそのことに気付きすらしない。
さりとて、そうでありながら、兄の世界を訪れるためには永田との行為が必要であるところに、理詰めで組み立てたのではない、生の猥雑さも感じる。
別に一人っきりで兄の世界に思いを馳せる話も理論上は書けるけれども、そうではないのだろう。
彼女は生々しい実感とともに人の生を生きているのだから。
それが、ここまで生きて来た作家だからこそ書けるものという気がした。
一つだけ思ったところを。
最終盤、彼女が訪れる兄の世界が思ったよりも遠くないのが、気になったというより、少し胸に残った。
もちろん、兄の世界は彼女が見たこともないもので構成されている遠い世界なのだが、彼女がこれまで彼女の生活や出来事を描写してきたのと同じ呼吸でその世界を描くので、(恐らくは不要な)重みを伴った地続き感があるように思った。
情報としては遠いのだけど、読者の実感として遠くない感じがする。
彼女が同じ呼吸で描写することによって、間違いなく安定感はあるし、この作品の落ち着いた印象を形作ってもいる。
だから今の形は正解ではあるのだが、南沼さんが狙っていたところはもっと遠くだったのではないかとも思う。
見えていれば書ける作家に違いないと思うので、強いて微かなところまで自分の感覚を探って言った。
大好きな作品だ。
追記:作品の欠点ではないけれど、何度か印象的に登場する下ぶくれの男性の物語的な位置づけがまだ腑に落ちない。彼がいないと、「男」と「女」というよりは永田という特殊例の話になってしまうのは分かるが、それだけの役割にしては印象が強いように思う。多分、まだ読めていない部分があるのだろう。
ポテトマト:やりたいテーマに対して、人物描写や文体など、小説を構成する技術がしっかりと伴っており、非常に読み心地の良い作品だなと感じました。
劣等感に塗れた主人公の内面描写は生々しく、無力感に支配されながらも、とても繊細な眼差しで世界を見つめていることが分かります。彼女は外の世界へと出ることは殆どなく、家の中という狭い世界の中でしか生きられませんが、その感性に映る情景は非常に豊かです。
季節の移ろいを事細かに感じ取り、無気力ながらも鮮やかな日々を過ごす主人公の語りは内に閉じこもっていて、それが終盤の幻想描写の美しさに繋がっているのだと、自分は感じ取りました。
幻想の描写は、まさに主人公の人生を象徴しており、外界から取り残され、退廃的な日々を過ごす主人公の時間感覚を端的に表すことが出来ています。
総じて、二万字以内という短い制限の中で、主人公の厭世的な人生観を、生き生きとした質感でもって表現できている作品だと思いました。
南沼:
自作です。
地に足を着けた生活描写と「向こう側の世界」の落差を描こうというのが初期コンセプトの作品でしたが存外主人公の生活感や人物像を描き出すのが楽しく、作品そのものがそちらに引っ張られるような出来上がりになったのは少々誤算ではあります(なので辰井さんの評が耳に痛いんじゃ)。
しかしながらとても良い感じに素朴で駄目なおばちゃんを描けたのは嬉しい誤算といったところ。
ちなみに集金人は「生活への闖入者」として永田だけでは弱いと感じたのと、かつ主人公が永田を生活圏に引き留めようとする動機づくりのための舞台装置といった位置づけです。
Pz:今回は裏テーマの「小説はどこまで遠くに行けるか」に関し、彼此の次元を超えようとの挑戦が多く、今作はそれをタントラ的手段によって為そうとしているのが印象的です。
「兄」の訃報とその伝え手、遺灰のある中での結合等、タントラ的な道具立ての揃え方やミステリ的な物語の回し方も良かったです(個人的にはタントラがアートマンとの合一を為すとは考えておりませんが、お話の道具としては良かったです)。
ただ、個人的な引っ掛かりとして、このお話なら現代でもできてしまい、その時代の生活描写の細やかさは凄く良かったにも拘らず、昭和40年代である必要性が薄い様に感じました。
昭和40年代はベトナム戦争や特にその時期の中東となると、ちょうど第3・4次中東戦争の時期に当たり、本邦でもオイルショックの影響が強かったですが、その時期に中東を旅する「(日本人の)兄」はかなり異質な筈で、「兄」の見た風景がそう言った「彼岸」に触れた事による物だとしたら、その辺りを明言して貰えると、主人公の「私」が「兄」と同じ風景に触れてしまう「時空の超越」と「昭和40年代である意味」がもっと読者に強く残ったかと思います(それを狙ってのことであれば、ですが)。
また、これは個人的な印象なのですが、主人公の「私」の生活や性格を鑑みるに、タントラへの必要性はあるにしても、結合行為と結びつけ難く、事前に兄の手記の中にそう言った話があった方が自然だったかな、と思います。
黒石:息の長い文章を書くのは、1つの才能だと思います。
私たちは、つい、だらだらと1文を長く続けがちなのですが、それは息の長い文章と似て非なるものです。
ただキレの悪い金魚のフンのようなものでしかない。
南沼さんの文章はまったくちがうわけです。
四段落目の長文、これが本当に素晴らしい。素敵です。
南沼さんは、息の長い文章を書ける人で、私はとてもうらやましく思います。
私は作者のことを想像しながら読むのが好きなタイプです。
プロの作家に比べると、アマチュアの小説家は、取材などに制限があるゆえに、その人が見えやすく、そこも楽しみです。
そんな私を南沼さんは本当に混乱させてくれて、これが楽しい。
初めて読んだ南沼さんの小説はたしか『翡翠の腕輪』で、このときは東南アジアで長年暮らした経験をもつ女性なのかと思っていました。
ちなみに今回は作者が中年の女性のようにみえてしまい、これはそれだけ引き出しが多いということで、ただただ驚嘆するほかありません。
先にも似たようなことを述べましたが、昭和四〇年代の一人暮らしの中年女性の生活がとても丁寧に描かれています。
もちろん、私は(いえ、私だけでなく、おそらく南沼さんもまた)昭和四〇年代を暮らしていないので、それがどこまで本当なのかはわからないのですが、それでもリアリティがものすごくあります。
二層式の洗濯機に自転車、食事、敷地に植えられた草木、そして、湿度までどれもこれもが私の脳裏に浮かび上がってきます。
題名のごとく「匂いたつ」のです。
だからこそ、兄の「日記」の世界との対比が際立ちます。
忘我の境地で異界に旅立つというのは、シャマニズムの1つのあり方です。
この宗教的な部分をセックスとし、濃密な性描写を入れていくところも素敵です。
快楽の果てに、たどり着く異界、背後にいて一番密着しているはずの男の姿が消え、どこか近親相姦的な閉鎖的な関係が前景化してくる。
肉親的なつながりが前半でどこか薄いものであるかのように描かれているからこそ、密で閉鎖的な関係がさらに際立つ。
「愚にもつかない嘘っぱちだと永田が切り捨てたのは、彼がただ狭い世界をしか生きることが出来ていないからに過ぎない。兄は違う、そして今や、私も違う。兄は彼に許されためいっぱいの時をそこで過ごしたし、私もまた、そこを訪れることができる」
この主人公の独白にたどり着くまでのすべての仕掛けが本当にすばらしい。
この小説が志向した「遠さ」について、自分なりに考えようとしたのですが、この小説にはそのようなことばは蛇足でしょう。
何もかもが素晴らしいものです。
6.七兎参ゆき『陽だまりのにゃんこ ~勘違いも甚だしぃ~』
辰井:私の考えが間違っていたら大変申し訳ないけれど、この作品は本当にこの遼遠小説大賞のために書き下ろしてくれたものなのかなと思った。
どうも違うんじゃないかという気がしている。
簡単に講評を書く。人物の視点が次々に入れ替わっていく構成の作品だが、それぞれの人物の言葉遣いは変えていても、書いている時の呼吸がどちらも同じなので結局文字面を細かく追うことでしか人物の区別がつかず、余計なエネルギーが必要になっている。
別の人物なのに、脳内にパッケージされている語彙の箱が同じという印象。こういう構成の作品にするなら、呼吸から書き分けないと読みづらい。
「近くて遠い」ということで、それは過不足なく書けていると思うが、ちゃんと募集要項を読んでくださったのだろうか。
「遠い」に何かしらかすっていたらいいというものではない。
ポテトマト:飼い猫とその飼い主の間の小さなすれ違いを描き出しており、その様子が微笑ましい作品だなあと感じました。
特に、口語調の猫の内面描写では、勝ち気だけれど、少しだけ臆病な猫の視点を表現できており、巷では複雑だとよく言われる猫の心の内を表現しようとしている姿勢が良いと感じました。飼い主のテンションの高さも愉快で、ハートフルな気持ちで読み終えることができました。
ただ、この作品が「遼遠」という裏テーマに合致しているのかと言われると、どうしても疑問が浮かびます。
端的に言うと、この作品で表現したいテーマに対して、「この表現の仕方が本当に一番良かったのか?」という疑問が浮かんでしまうのです。
例えば、今回のレギュレーションでは、小説を乗せる媒体を制限しておりません。ブログサイト等に挿絵を載せたうえで、そこに文章を並べる形式でも全く問題は無かったわけです。飼い主と飼い猫の視点が交互に入れ替わる今回の作風を見ると、ビジュアルの補助線があった方が、視点の変化が鮮やかになり、より読みやすい作品に仕上がったのではないかと、思わず感じてしまうのです。
また、猫と主人のすれ違いという今回のテーマに関しても、漫画など他の表現媒体でも十分に表現できるのではないか、小説にする意味とは何か?という疑問も中々頭から消えません。
どの表現媒体が相応しいのかをより深く考察をしていけば、作者様が伝えたいキャラクターの魅力がもっと伝わりやすくなるのではないか。そう感じた次第であります。
とはいえ。それでも、この作品を楽しく読ませていただいたという事実に変わりはありません。
とても楽しい作品を、ありがとうございました。
南沼: 猫の気まぐれ具合や愛らしさをたっぷりと描いた、大変に可愛らしい作品。
猫の思考が余りに人間のそれであり、つまるところ「他者の思考を想像する事が致命的に苦手な主人公が猫のアテレコをしている」ような、恐らく筆者も意図していないと思われる読み味があります。
その一点でちょっと面白いとは思うものの、しかしその線の読み方も無理があるのは否めません。
個人的に最もいただけないなと感じたのは各話の最後にある「いかがでしたでしょう?」みたいな後書き(?)でした。
そこで媚びの目線を出すのは、余りに気概に欠けるように思えてなりません。
Pz:可愛らしい作品でした。ただ、出す場所が悪かったかも知れません。
私個人としては、この資本主義の世にあって、「超行動」等で自身の資本である才覚を売って廻るコマーシャリズムはアリだとは思います(芸術運動でも、例えばラファエロ前派やロイヤルアカデミーにもコマーシャリズム的側面は有りました)。ただ、残念ながらここの主催はそう云う物を忌避し、嫌っております。その意味では、もし貴方が表現活動に於いて商業的・経済的成功を目指すならば、もう少し「マーケティング」と、それに基づく「ターゲティング」を勉強した方が良いかも知れません。
如何に優れた作品でも、時を逸し機を失っては世間に在って経済的には成就しません。そして時と機とは「我を知り彼を知る」内に見えてくる物です。
その意味でも、先ずは自分が何を表現し、何処に出すのか、少なくともこの2点は精査した方が経済面では有利でしょう(もし貴方がここ迄読んでいれば、ですが)。
黒石:シリーズものの一作という位置づけですね。
可愛らしい猫の視点と飼い主さんの視点でのすれ違いがコミカルかつ大変かわいらしく描かれています。
私自身は犬派で猫を飼ったことがありません。
それでも、ここで描かれる愛玩動物気まぐれなところや、意思疎通ができているようでできていないあたりは、とても共感できるものでほんわかとした気分になりました。
猫も犬も似ているのかもしれませんね。あるいは、うちの犬が猫のような性格なのかもしれません。
近くて遠いペットと飼い主の関係、その(ディス)コミュニケーションというところで、遠さを志向したものなのでしょう。
しかしながら、この(ディス)コミュニケーションは、遠いものというより、むしろ、とても身近なものであるのかもしれません。
そもそも、人間同士だってお互いのことがわかりあえないなんてのは、ざらです。
ならば二人以上の登場人物(猫物、犬物等含む)が出てきた時点で、どのような小説でも、近くて遠いとなってしまいます。
となると、別のところに裏テーマをみるべきでしょう。
Web小説では自作への導線や評価のために、既存作品で紹介をするという手法があるというのは、ウェブで小説を書いた人は大抵ご存知のことでしょう。この作品においても、作者が力を入れているであろう連載中の長編の紹介がされています。
遼遠小説大賞自体は、単体で作品を評価するものと理解しているので、私はここで用いられた作者の別の長編小説を読まずにこれを書いています。
すると、どうなるでしょう。ひとつの小説の中に、徹底的な異物として、〈導線〉が浮かび上がってきます。
この不協和音的な異物に気がつくと思いを馳せてしまっているわけで、むしろ、この後ろの宣伝文こそが小説の本体ではないかというようなことまで考え始めている私がいるのです。
こうして、考えを巡らせてしまうのが、むしろ遠さに私を巻き込む仕掛けなのかもしれないなどと思いました。
7.黒石廉『胡蝶』
辰井:向こうの論理の小説をこちら側の論理で解釈すると独善的になるからあまり解釈はしたくないと言いながら、割と迷っている人が多いので解釈してみる。
「はじめに」の最初で聞き取りをされているのはブルホの導師的存在ダーダの(恐らく)生まれ変わり、次は誰かによる講義。帰ってきた物語世界の主人公が話しているのか。
次は、帰らなかった主人公の交際相手か。
「あとがき他」、最初は「遺稿」のまえがき、次はダーダ、次は帰ってきた(またはそもそも行かなかった?)物語世界の主人公、次は恐らく帰らなかった主人公の交際相手。
このように、はじめとさいごに、さまざまな人、世界の物語が入り乱れている。
この作品は親切設計なので、交際相手への手紙で多元宇宙の話が出て来るが、私ははじめにの講義で出て来るイニシエーションでの物語の織りなし方のほうにフレッシュさを感じたので、どちらかといえばそちらを取りたい。
「無限に枝分かれしていく物語の中で、あるべき地へと向かうために、呪術師と新規の加入者は手をとりあってハンドルを握る」。
「物語を生成していく」とは、普段(我々が)なんとなく考えているように0から人工的に積み上げていくものではなく、潜在的にはすでにある物語の中から物語を選択していき一つの道筋をつけていくものなのだ、と私は読んだ。
『胡蝶』。
莊子の「胡蝶の夢」のように、私の夢と胡蝶の夢、私の物語と胡蝶の物語はどちらが本体か分からない。
選択された、私たちが見る物語も、そうでない物語も、理論上は等価に、或いは価値判断などできない状態で浮遊している。
だから、「どの物語も正しく、どの物語も偽物」なのだと。
この小説自体も、「はじめに」でいくつもの分岐を感じさせながら、やがてハンドルを取って南米の密林にいる主人公の物語を語っていく。
主人公の物語。
そのほとんど「私小説」的な距離感でなされた語りはとても良かった。
「私小説」といって、それが黒石さんの現実をどれだけ反映しているかは問題ではない。
作者と主人公の心的な距離感が私小説的だと言っている。
それは、この作品の要請に応えていると思った。
もっと突き放して書いていたら、こういう読み心地にはなっていない。
近いからこそ、残酷にも書ける。
主人公の立ち位置も周到で、読者がこの異界の論理で組まれた小説を読んでいる目の前で、主人公が異界の調査をしているというのは読みやすく、没入感があった。
異界。以前黒石さんに伝えたことの繰り返しにはなるが、私が「死」の世界の小説を書こうとして当然のことながら常に敗北を続けているのに対して、黒石さんは「異界」の小説を書こうとしており、異界なら生きた人間でもワンチャン行って帰ってこられるので、余程可能性があると思う。
私はあまり異界には惹かれないから、そのありようが少し羨ましい。
好きかどうかで言えば、今のところほとんど一番好きな作品だ。凄い作品だった。
ポテトマト:作中冒頭の「——無限に枝分かれしていく物語の中で、あるべき地へと向かうために、呪術師と新規の加入者は手をとりあってハンドルを握るのです。」というフレーズが、この作品を象徴しているのかなと思いました。
まず、文章が非常に読みやすい。
テーマそのものは複雑であるにもかかわらず、人類学者である主人公の手記は大変に読みやすいです。諸々の情報を加味すると、主人公のご友人が再現した手記なのでしょうか。「呪術師(=物語の作者)と新規の加入者(=読者)が手を取り合ってハンドルを握る」という作中のフレーズを有言実行している点に、自分は大変感銘を受けています。
また、主人公がトリップしてしまうシーンもまた見事。ここまで積み重ねてきた詳細な記述が崩れ、自分の独白に対して語りかけるような描写を見ていると、深くお酒に酔ってしまった時のような、気持ちが悪いのにどこか居心地の良い、そんな感覚を覚えました。
しっかりと地に足についた描写から放たれる幻想の情景はとても鮮やかで、しかも読後に良い意味で心に残る困惑もある。大変素敵な作品に仕上がっていたのかなと思います。
南沼:地に足の着いたフィールドワークから、噎せ返るほどに土と血の薫る呪術の世界へ地続きに誘われる終盤は圧巻。
このカタルシスは殆ど作品序盤から予言されていたような帰結ではあるんですが、そこに至るまでの凄味を特筆すべきでしょう。
どこまでいってもよそ者である主人公の目を通して呪術集団であるところのブルホたちの生活を対等な目線で観察し自他が対等な人間であると肌実感する、読者にそう納得させるだけの堅実な積み重ねがあればこそだからです。
そうあればこそ、終盤の呪術シーンが「薫る」。
またもう一点、この作品の魅力として挙げたいのが、作品世界の「閉じてなさ」です。
ひとつの世界があり、それを内包するまた別の世界と、時間の流れすら異にする並行(?)世界の存在が示唆され、閉じたはずの主人公の世界のその続きを(恐らく)「彼女」が歩み、些か不穏な次なる物語が垣間見える。
とても遠くまで連れて行ってくれた上にまだ先があるよと伝えてくれる、作中世界の広がりを伝えるとともに物語世界の最遠点を区切ってしまうことで生まれる名残惜しさにも似た感慨、これがまた良かった。
Pz:リアリティと多元世界の表現が素晴らしい作品でした。特にタイトルにもある「胡蝶」の多元世界的表現は良かったです。視覚情報が制限される小説と云う媒体にあって、こう来たか、と思いました。そして「こう来たか」を納得させるそれまでのリアリティの積み重ねも良かったです。
今回は裏テーマ「小説はどこまで行けるか」もあってか、次元を越えようとする作品が見受けられる中で、なるほど、こうやって表現するか、と思わせられたのは良かったです。
ただ、個人的には精霊と合一した世界線の主人公も見たかったなぁ、と贅沢な事は思いました。
黒石:ひゃっはー。
8.壱単位『交差点の』
辰井:舞の名手が、催し物にふらりとやって来て「ああ、なるほど」と言って扇子を取り上げて一くだり軽く踊って見せたら、その一くだりすらあまりにも巧いので周りが唖然としてしまう、みたいな作品。
巧すぎるので愕然としてしまう。しかし、最初から読んでいこう。
キャッチコピー、あら大変、ケチャップ忘れちゃった。
このキャッチコピーの解釈は自信がない。或いはこれが承前、ひいては本編につながるのだろうか。
その下のあらすじ部分はとても好き。
本編でも印象的に書かれるゴム製の車輪のことだと読んでいる。
「接触」することによって小鳥のように鳴く。
承前:カンチェンジュンガによる擦過傷。標高世界第3位の山による擦過傷。
ちゃんと分からないけれども、なんだか良いと思う。
そういう大スケールの「擦過」による「傷」が、この作品にはとても合っている気がするのだ。
さて、本編。移動、交差点、移動の3パートに分かれている。
3パートしかないと言った方が正しい。
だから、本当に一くだりの舞のようなのだと。
移動。移動しながら周囲の情景を描写していく。ほとんど全く視点人物の内面を感じさせないまま。
まず、その異様さに惹き付けられる。そして、舌を巻く。
視点人物の内面を感じさせないということは、文章の読み味を操作する大きなツールが使えないということだ。
下手な書き手がやったら、ぶつぎりになったり単調になったりしておかしくない。
しかし、全くそういうことになっていない。
これだけ情報が詰まっていながら一切つっかえることなく読んでいける。
手直しの跡すら見えない。恐ろしい。
そして、交差点の、あり得べくもない鮮烈な情景が描かれる。違う世界が刹那交わったようなそんな情景。
そこまでの移動も、読み直してみればそれなりに「色」が登場していたのに、交差点の情景を前にしては色褪せて見えるほどだ。
「あなた」が出て来る。そして「あたし」が出て来る。
どうしてそういうことが起こるのか分からないが、宿縁があるのだと分かる。
この束の間の邂逅がまるで、「擦過傷」みたいだと思う。
そして、また移動へ帰って行く。
しかし、今度は「あたし」がいる。首には指の跡もついている。
壱単位さんは変わらぬ繰り返しを描きたかったのかもしれないけど、私はむしろ、交差点の出来事を経た不可逆な変化を感じた。
同じような道行きに帰って行くようでいて、決定的に違う。
傷は、できているのだと。
鮮烈な作品だった。
純粋な巧さということでは、全作品の中でもトップクラスなのは間違いない。
瑕疵もない。
しかし、(この作品しか読んでいないにもかかわらず)「壱単位さんはもっと凄い作品が書ける人ですよね」とも思った。
ポテトマト:文体が、とにかく素晴らしい。この一言に尽きます。
主人公が見た物を感情を交えず、次々と並べていくという、この作品のアプローチは実に的確だったと思います。こうすることで、情景を映像のように感じ取れるだけではなく、生きる事にどこか虚しさを感じているような、目に映る光景を何か遠くのことのように感じ取っているような主人公の内面までもが追体験できるのだと受け取りました。
このコンセプトを成立させるには、とにかく地の文の読みやすさというか、美しさが重要になるかと思いますが、この作品はその点も抜かりないです。例えば電車の中に沢山の人が入り込んでくる事を"たくさんの色を負ったひとたちが乗り込んでくる"と表現したり、電車が線路を走った際に生じる風を"ゴムのような匂い"など色覚や嗅覚など、様々な感覚に訴えかける描写で固められており、情景を直感的に感じ取ることが出来ます。描写の一つ一つが繊細で、なおかつ感覚の働きの流れ方が適切であるが故に、何の違和感もなくスルスルと読めました。
途中に挟まる"あなた"との描写も鮮やかでした。少しくすんだ色合いの現実とは違って、そこで描写される情景はビビットで鮮やかで、主人公にとってこれが重要なイメージなのだということが伝わってきます。
句読点で閉じる終わり方も秀逸で、まるで主人公の長い人生の一場面を切り取ってきたかのような印象を受けます。例え、物語が終わったとしても、舞台の外で主人公の人生は続いていく……。そういった事を考えました。
総じて、一人の人間の一場面を切り取るのが非常に上手い作品だと感じました。
南沼:
執拗に敷き詰めた文章で描き出す鈍色の冬の街に突然現れる色彩豊かな幻覚、そしてまた冬の街に戻り、途切れるように終わる。
小説の可能性を追及するというテーマに対して正面から取り組まれた作品と見受けました。一点突破型の作品。
この鮮やかなコントラストを実現するためにストーリー性をばっさり切り捨てているんですが、不純物を極限までそぎ落とした結果残った、バックボーン説明は欠如しながらも何かを仄めかすような断片的な要素――突然現れた「あなた」しかり「指の跡」しかり――がとても美しい。
ノイズにギリギリ埋没しないように散りばめられた色彩みたいな。
いや、この作品を語ろうとするとどうしても絵画を語るそれのようになってしまうな。
作品自体の評価とは関係ない部分で難点を挙げるとすれば、キャプションとあらすじはミスマッチ、ナンセンスに過ぎるかと思います。
あくまで個人的な好みの話に過ぎませんが。
Pz:映画でいうワンショット的な作品でした。途中の転換点も含めると「1917」の様でもあり、そこも良かったです。
細かい描写の積み重ねによる進行も、どちらかと云えば映像的であり、元々の意味でのハードボイルド的なクールさもあります。
さて、内容に関してなのですが、これを象徴主義的に観るのか表現主義的に観るのかで少々変わってきます。両者の差は小さいとは言え、前者で観た場合には読み解くべき寓意が在るのに対し、後者ではそれらは飽く迄作者の個人的発露であり、それを受けた読者個人の内部での「再生」に作品の豊かさが掛かってきます(或いは、両方を掛け合わせるのも面白い見方ですが、それは読者側の「才能」に依存するでしょう)。
個人的にはどちらで観ても良いとは思うのですが、ロングショットによる緊張感はどうしても読者に読者自身の内部を見つめる(或いは緊張から逃げる)事を強いてしまいます。その緊張感を如何に活かしたいのか、その乖離が裏テーマに絡み、そこまで計算されているならば凄いな、とは思います。
黒石:文字による描写というのは、必要のないところを省くことが容易にできるものです。
朝起きてから歯を磨くところまでの行動、洗面所までの視覚情報をすべて書き記すなんてことはしないし、それがあるからこそ、書き込んだ描写が鮮烈に浮かび上がってくるものだというのは、言わずもがなのことでしょう。
これに対し、作者はあえて(と言い切ってしまっても良いでしょう)執拗なまでの描写をおこないます。省くであろう描写を徹底的にし続けます。
この途切れることのない執拗な描写の結果、交差点の描写、先程までとは打って変わったかのような簡潔な様々なものを省いた描写が鮮烈なものとして、私の眼前に浮かび上がってきます。
どこかくすんだ色調で描かれた交差点までの道のりと、鮮やかな交差点の対比もまたとても鮮烈です。
交差点のところではじめて、人称代名詞があらわれ、ホームから交差点までの描写を交差点からホームまでの描写として繰り返すのですが、この描写が執拗に先の描写と同じようにされているようでありながら、そうでもありません。
ところどころ現れる数字や左右といった言葉につられて、まったく対称的なものとして描いているようにみえるのですが、実はそうでもないのです。
まるで、だまし絵のようで、これができる作者の筆力には舌を巻くしかありません。
また、この小説には何かしらのストーリー的なものがありません。これもおそらく意図的なものなのでしょう。
ストーリー的なものは一切ない(少なくとも私は読み取れていません)、最後は句点で終わってすらいない、それなのに、どこまでも読めてしまうのです。
私が小説として思い描いているものを徹底的にずらしていく、徹底的にずらされているにもかかわらず、私はこれを小説として認識してしまっている。
私は何もつかめないのに、作者にがっちりとつかまれてしまっている。
遠かったですとしか言いようがありません。
9.楠木次郎『周回遅れのタイムトラベラー』
辰井:幼馴染の女性との日々をやり直し、自分に好意を持ってもらうために短いタイムトラベルを繰り返す男の話。
主人公の人物造形とストーリーの一致ぶりが見事で、まさしく彼だからこその話になっていた。
過去を遡って彼の問題やある種の臆病さ、自己愛が明らかになるが、そもそも「過去に遡ってやり直せば幼馴染ともっと上手くいくのでは?」という発想が爽やかでなく、彼が27にして(絶妙な年齢だ)“周回遅れ”になっていることに説得力があった。
壊れて遅れている腕時計など小道具の設定も丁寧で、よく練られた短編を読んだという思いがする。
白眉は最後の彼の演奏シーンだろう。
零れていく音にもかかわらず、弾き続けるしかない、そして今彼はやっと弾き続けられているという臨場感が見事だった。
彼は確かに周回遅れではあるけれども、彼なりのスピードで前を見据えて走り出した話なのだと解釈している。
そのビターな着地は腑に落ちるもので、いつの間にか彼を心から応援したくなっていた。
一つ、長めの雑談を。
この作品を読んでいて気になったのは、終盤の大人の味わいのあるドラマに比して、タイムトラベルのきっかけ(美少女の姿をした時の神さま)があまりにWeb小説的で軽いということだった。
この作品はこれでいいのだ。Web小説であり、タイムトラベルのきっかけ自体はそこまで重要でなく、軽く済ませないと2万字で収まらなかっただろうから。
だから、直す必要は全くない。
しかし、今後の方向性はもしかしたら考えた方がよいかもしれないとは思った。
あくまで、Webで書き続けていくことを重視するならこのままでよいが、そうでないなら作品に余計な色がついているような印象だ。
楠木さんの資質は恐らく終盤のドラマの方にこそあるから、それを発揮する方法がWeb小説のお手軽なギミックでよいのかは考えてみてもよいかもしれない。
かなり荊の道だからあまり無責任なことは言えないが。
もっとも、本作の主人公なら、最終的にはどんなギミックを使ってでも書き上げることを選びそうなので、この講評の後半は全く不要なのかもしれない。
繰り返しになるが、この作品はこれでいいのだと思う。
この作品がこのかたちで書き上げられたことには大きな意味があるとも思う。
そして、だからこそ、この先にある作品をこそ見たい気はした。
いずれの道を進むにせよ。
ポテトマト:タイムトラベルで本当に世界線が変わってしまったのか。それともタイムトラベルなんてものは本当は存在しなくて、実際は主人公の単なる妄想だったのか。どちらとも言い切れない、本作の現実との絶妙な距離感が、自分にとっては非常に好ましく感じました。
"壊れて3分だけズレた時計"といったアイテムや、"譜面通りにしか弾かないストリートピアニスト"といった挿話の使い方も見事で、主人公の人物像を多層的に描き出すことに成功しています。自尊心がぷっくりと膨らんでしまい、自己に犠牲を払うだけの価値があると思い込んでしまっている、自己の表現の仕方が不器用な人……。自分はそう受け取りました。
また、ピアノを弾く時の内面描写も精緻で、とても見応えがありました。
技量が追いつかなくなった瞬間の手先の触感、その後に襲い来る心情描写は迫真の一言で、主人公の内側を巡る後悔、その中で芽生えた小さな決意が明確に伝わってきます。
「周回遅れのタイムトラベラー」というテーマに相応しい材料に、それを調理する技量が合わさり、完成度の高い作品に仕上がっているかと思います。
素敵な作品をありがとうございました。
南沼:スポコンもののような清々しい読後感でした。
停滞した人生と倦んだ思考から始まり、やり直しといういわば「ズル」を経てなお痛々しく空回りし、自分が停滞していたという事実をあるがまま受け入れ、そして人生というのはいつだってただやっていくしかないのだと、そこに気付くまでの過程が丁寧に描かれているからだと思います。
やり直しを経るたびに少しずつ変化していく現実世界の中、段々と下手になっていく見ず知らずのピアニストをくさしながら最後には自分がその立場に成り代わって音楽と自分の人生に向き合うという流れも巧み。
周回というのがタイムスリップを重ねる回数でなく、人生の過程と人間的成長を指すものだったというミスリードに気付きその上手さに膝を叩くのも痛快な体験でした。
思わずタイトルに騙されちゃったもんな。
物語の組み立て方と舞台装置の使い方がとても上手で、またそういったそつのなさだけでなく終盤クライマックスの熱も目を惹きます。
良い作品でした。
Pz:先に謝っておきますと、私は最初の段階で主人公に苛立ってしまったので、もしかするとここの内容は公正ではないかも知れません。もし主人に対し苛立ちを覚えさせる事が目的の1つであったとしたら、その目論見は少なくとも私には成功しております。
私が苛立った故を記しておきますと、最初が最もチャンスに満ちていたにも拘らず、主人公は最初から卑屈で卑怯で臆病であり、同時に「時の神」の忠言にも拘らず、不遜で下らない羞恥心に拘泥し、自他を失い、自身の望みすら毀損する愚かさに最後まで気付きもしない増上慢の故です。
実に見事に傲慢の愚かさを表現されており、その意味では分断と断絶を以て「遠く」を佳く表しております。
個人的感想は差し擱いて、全体の構造に言及しますと、『夏への扉』の様なタイムトラベル物と言うよりは『ルックバック』の様な抒情詩的作品と観ました。
そして詩として看た場合、折角「ゴルトベルク変奏曲」を出したのでしたら、バッハがそうした様に、文章全体の構造も主題やモチーフを「変奏」して繰り返してみても良かったかも知れません。具体的には、過去の同じ場面を何度か出す、等です。一見其々の場面は「二者択一」に見えますが、それは主人公の思い込みであり、同じ場面を繰り返す事で主人公に自身を観る場面を与える、等です。バッハは12音階でしたが、現実には無限に分岐が生じ得るのですから。
黒石:大変読みやすい文体で、それゆえに没入感があります。
ただ、せっかくの没入感を阻害され、止まってしまうことが数度ありました。
たとえば、第4章。「六十歳を越えてそんな芸当ができる」という書き方から、先生は70手前であることがわかります。数行前に、「腰は一段と曲がり」と書かれていますが、現在の60代というのは、驚くくらいに元気ではないでしょうか。当たり前ですが、27歳のヒロインのことを中年増や年増とは表現しません。40過ぎると、本来は初老ですが、40過ぎの男性を初老と表現する方は現在かなりの少数派でしょう。年齢の描写がスマートフォンを用いる時代のそれになっていないような気がするのです。また同じ章の「登喜江先生は老獪な目で圭吾を見つめた」という表現で「老獪」というネガティヴイメージをもつ単語を用いているので、先生は何かを企んでいるのか、いや、そんな人である描写はここまでなかったはずだと混乱してしまいます。このような描写が続くと、不思議なもので、気になることが次々と出てしまうものです。「目覚めると、駅構内にはまったく人気がなかった。プラットフォームに吹く風の音が、遠くから聞こえてくる」とありましたが、平日の発着する列車が一つもない時間帯であったとしても、正午に新幹線のとまる駅、それもストリートピアノまで置かれるような駅で10分の間にすべての人が消え去るというのは、いかがなものでしょう。主人公の心象風景ならば別の書き方があったはずで、どうしても違和感が残ります。細かいところですが、せっかくの力作ゆえに大変もったいないと感じました。
さて、この話はタイムトラベルを扱っています。しかし、作者によるジャンル表記から考えると、SFよりも現代ドラマとして読めということなのでしょう。
この作品の大変興味深いところは、独りの男性の成長物語になるかと思いきや、主人公がほとんど成長していないというところにあります。どうも、この読み方は多数派ではなさそうですが、それでも私には主人公が成長しているようには見えないのです。
「彼の全精神は、遠回りの末に、ようやく、人生の真理の一端に触れた。寧音と乙無は、今ゴールテープを切る。二人には、これから祝福が待っている。が、圭吾は、ゴールラインを越えても、まだ走らなければならない」
この最終章のことばが、主人公が成長できていないことを端的に示すものでしょう。
寧音と乙無はゴールテープを切るでしょうし、祝福を受けるでしょう。しかし、それからも2人の人生は続いていくし、走り続けねばなりません。そのことに主人公が気がつかずに対比的にとらえていることは、主人公が幼いままであるというメッセージを送ってきていると解釈できてしまうのです。
タイムトラベルを通し、「自分を見つめ直」してなお、成長できず、闇雲に走るという責め苦の物語と私は読みました。爽やかでどこかに希望があるようなラストの装いをまといながらも、絶望的なまでの地獄であり、悪夢であるあたりは本当に素晴らしいところです。
どこまでももがき続け、変わることも出来ずにあてどなく走り続けるという行為には、恐ろしいほどまでの「遠さ」を感じさせるものであります。
違和感を抱かせ続けるこの読書感覚については、激しく揺さぶられるものがありました。
10.筆開紙閉『ハイパー・ハイブリッド・ニギリ』
辰井:これから色々うるさいことを言うので、まず前提を言っておかないといけないが、私はこの作品が大好きだ。
だから、色々言うけれども、気持ちとしてはオールOKなのだということをどうか分かっていて欲しい。
色々言う。
どう考えても話のスケールが2万字の文字数に合っていないということは、作者も重々承知だろうからこれ以上言わない。
気になるのは整理し切れてないところだ。
冒頭の母とラスプーチンのバトルから整理されていないので読みにくさがある。
第一ショットの面白さ、勢い、最大火力を優先するのには好感を持つけれども、状況が把握しづらいから結局面白がるのに時間を要している。
三周読んだら丁度良い気がしてきたが、三周読んだからだ。
トンデモ寿司バトルにしても、前提を共有していない読者への配慮がもう少し欲しい。
前述の通り今の状態だと面白がるのに時間を要するので、多少配慮したところで読者が感じる面白さは減らないし、むしろ増えるんじゃないかという気がする。
全体的に調整が必要ではないだろうか。
ただ、じゃあ無闇に「完成度」を上げたのが読みたいかと言われると首を振ってしまうところがある。
私の脳内にはリライトされた『ハイパー・ハイブリッド・ニギリ』があるが、それよりなんだかこっちの方が魅力的にも思えてしまうのだ。
思うに作者読みなのだと思う。
私は作者がこの作品をどう書いているかも含めて読んだから、この作品に関しては、過剰なネタが詰まった(←重要)小説の原液を飲ませられているような今の状態が魅力を感じやすかった。
ちょっと投げやりにも思えるようなそこはかとなくダルそうな感じで書いているのもよかった。
ダルくて当然だと思う。
「この作品良いでしょう? 上手いでしょう?」という目配せが一切ないところにも清潔さを感じている。
しかし、これは多分に書き手目線の感想だし、少数派の意見だろうから、あまり参考にしないでほしい。
講評で書くことじゃないが。
あと、私もこの状態の作品を2、3作読むと意見を変えると思う。
筆開紙閉さんの作品をこの1作だけ読んでいるから、こういう感想になるのだろう。
この作品の私の読みに限れば、過剰さがとてもよかったと思う。
ポテトマト:混沌が混沌のまま目の前にやって来て、凄まじいエネルギーで暴れ回っている……。
これが、自分の正直な感想です。
普段慣れ親しんでいる筈の、"寿司"という単語であったり、"エジソン "などの様々な歴史的偉人達が、全く知らない文脈へと配置されて、何の説明もなく次から次へと雪崩れ込んでくる……。不条理で、ナンセンスとすら言えるこの読書体験が、自分にとっては快感で、作品のスタイル自体は非常に好みでした。
ただ、読み続けていて「結局、これはどこに向かっているの?」となってしまい、途中で上手く楽しめなくなってしまったのが、正直な感想です。
ナンセンスで不条理な作品こそ、その不条理で何を表現したいか、そのセンスが問われる……。
矛盾しているようですが、自分がナンセンス物を作ろうとする時にまず初めに心がけている事です。(できていない時も、往々にしてありますが……)
せっかく良い材料をお持ちなのに、それをどの方向性で積み重ねていくのか、検討が不足しているのかなあという印象を持ってしまいました。
ただ、改めて言わせて頂きますが、作品のスタイル自体は大好きです。
素敵な作品をありがとうございました。
南沼:未来を舞台にしたナンセンス寄りの異能系アクション。
エンタメに思い切り寄せるタイプの作品は本大賞には珍しいように思います。
ルビの振り方やキャラクター造形はいかにもラノベだし、処々に散りばめられたパロディはインターネットのノリが強い。
寿司ニウムや一級寿司師などの造語が飛び交うさまは、中々楽しいものです。
このタイプの作品は「次はどんなものが出てくるんだろう」とガジェットの発想力、新鮮さを味わうのが一つの楽しみで、裏を返せば一発ネタで終わらないように作中でどんどん新しい刺激を提供する必要があるのですが、その点はとても上手い。
最終話での唐突な物語の終焉と添えられたサブタイトル「束の間の終幕」、それに最後の一文が合わさったところ、強烈な味わいがあり、ここは強く推したい。
ただそこに至るまでの筆運びのテンションがストーリーの展開とは裏腹にダウナーに過ぎるような印象を受けました。
これは一種の「照れ」なのかな。
いち読者の立場として、これをされるとあまりノれないのでそこは残念な部分でした。
Pz:ニギリです。何故ロンドンなのか、何故微妙に年代設定が古いのか、そもそもこの世界は何なのか、そんな物は全てニギリで吹き飛ばす作品です。
読み味としては80-90年代ハリウッドアクション映画の勢いのまま自主制作されたVHS作品のデジタルリマスター倍速再生Re:Mixと言った感じでしょうか。
疾走感に溢れる、と云うより読者も疾走して全てを喰らい尽くす勢いがないと頭が爆発する作品でもありますので、その意味では実に「遠く」にある作品でもあります。
その上で講評に入りますと、新しくはあるのですが、しかし「革新」はしていない感じです。
細かく見ていきますと、これは字数制限のせいでもありますが、先ず「何処かで聞いたことのある単語」を脱臼・換骨奪胎しまくって疾走感をブーストしている為、逆に云うと「お約束」に捕らわれてしまう事にもなります。そして、その「お約束」はつまり既知・既存の物であり、その怒濤による超展開の連続も既に『ケモ夫人』が成しており、またこう言った力技で読者を納得させるのは『ニンジャ・スレイヤー』が実際代表です。
上記の点から、エンタメとしての爽快感は素晴らしいのですが、クラシックになるか、と云うと既存の「トンチキ」枠内に収まってしまうのではないかな、と思います(これは作品の構造上仕方ないのですが)。
黒石:寿司、どうして、寿司なんだろう。
しかし、寿司以外にはありえない。
寿司師はいうなれば魔術師みたいなもので、寿司ニウムは魔力的なもので、魔力的なそれは枯渇したら死に至るし、個々人の最大許容量を越えたら、破裂し、やはり死に至る。
これだけのものであって、面白い設定ではあるけれど、たとえば、これを魔術師や魔力といったことばで表現しようものなら、その瞬間に陳腐なものに成り下がってしまうことでしょう。
それが寿司になった瞬間に、どうして、ここまで私の心を捉えて離さないのか。
私は異化という概念がとても好きで、異化を使いこなせる作家が大好きです。
たとえば、「父さんは残酷だ。最低だ。金子光晴[原文では人名Bold]だ。タバコは止めましょう。おしまい」(高橋源一郎 『虹の彼方に』)とか。
だから、真似がしたくてたまらないのですが、これが簡単そうに見えて、たいそうな難しいもので、私には到底できない。
私が筆開紙閉さんと似た設定で作品を書いても、寿司ということばは選べないし、私が選ぶであろうことばはすべて陳腐なものにしかならないでしょう。
というわけで、私は嫉妬しています。うらやましいよ、その言語能力くれよ、そのセンスくれよ、頭かち割って脳みそすすって、言語能力とセンス奪い取りたいぞ、この野郎。
小説としての構成等については、詳しくは述べません。字数と話があっていないでしょうし、それにもかかわらず冗長なところもあるでしょう。
でも、そんなの関係ありません。
素晴らしいです。
11.倉井さとり『剥がして食べなきゃいけないんだよ』
辰井:見破られたという心地がした。
「お前が惹かれている“遠く”というのは、行ったら帰って来られない所だろう」というのを突き付けられた気がした。
そして、私が書くのは不可能だと諦めていた、「行ったら帰って来られない所」――彼岸の景色をこの小説は書けていた。
要するに、一人の書き手として、「これが“遠くだ”」と思いながら書けないでいたものを見事に書かれてしまった。
もう少し具体的なところから始めよう。
この作品は、何も分からなくなる作品だ。記憶も、世界も、幼馴染も、自分も、何も信じられなくなる。
身に覚えのない記憶をあると言われ、幼馴染の反応は不穏で、なんだか世界は壊れていて、自分の感情や反応すら確かではない。
それは、最初に出てくる水遊びの記憶があまりにも不確かなことからも先んじて示されている。
この作品を解釈しようとして、通常の論理で解釈できそうな部分も残されてはいるが、それでも、分からないという不安感が先に立つ。
そして、この作品が、読み進める力を失わせないのは、「何かある」と、「分からないが、この先には絶対に何かある」と思わせるからだ。
つまり、段々、「世界は本当はこうなんじゃないか」という気分になってくる。
「剥がして食べなきゃいけないんだよ」。印象的に出てくる謎の飴玉。
「僕をいちばん惹きつけるのはこの味だということ、そしてそれは、本当は口にしてはいけなかったんじゃないか、ということだけだった。」と思わせる飴玉。
妄想解釈をするなら、「剥がして食べなきゃいけない」のは、世界であり、記憶であり、幼馴染であり、自分であり、要するにこの世全てのもので、それらは普段は我々が解釈しやすいように、分かりやすいように、正気で生きていけるように包み紙をまとっている。
その本当の姿を味わうというのは、ある種の人間にとっては最も魅力的に思えるが、本当は口にしてはいけない――認識してしまったら元の生活には戻れないのだと。
だから、包み紙を見る論理で読もうとしても、この作品は分からない。
生きている人間の認識や論理ってやつの枠組み、それこそ「遠く」とか言っている間も付き纏うあまりにも堅固かつ狭い檻に対してこの作品はちゃんと向き合って、抜け出してくれたのではないか。
多くの場合は無意識のうちに囚われているその檻の外の景色を描いたという点でとても「遠く」まで行った作品だと思う。
ポテトマト:理屈の上では繋がらない不条理なシーンの継ぎ接ぎの筈なのに、何故だか頭の中では不思議と繋がってしまう……。
そんな感覚が凄く好ましいです。
読んでいて、地の文の巧さを強く感じました。
どのシーンも良い意味で文体にクセがなく、情景や感情が過不足なく伝わるが故、それが例え不条理な情景であったとしても、あっさりと読み進める事ができたのだと思います。
掌に描かれた文字が目に浮かぶグラフィカルなシーンや、ヒロインの語りで構成された聴覚に訴えるようなシーンなど……。
小説の様々な側面を生かしたシーン構成は秀逸で、常に緊張感を持って読み進める事が出来ました。
一体この話のどこまでが嘘で、どこまでが本当なのか……。
不可解な記述が呼び水となり、不条理な情景へと運び込まれてしまう様はとても気持ちがよく、読後の視界に奇妙な青い色を感じられた事が非常に好ましかったです。目は覚めている筈なのに、悪夢から最後まで抜け出せなかったような。確かな技巧の上で作品のテーマを十全に表現し切っている、不条理を扱った小説のお手本のような完成度だと自分は感じています。素敵な作品を、ありがとうございました。
南沼:話し相手が信じられなくなり、自分が信じられなくなり、やがて世界が信じられなくなる。
どこまでが夢でどこからが嘘なのか、帰ってきたそこは果たして現実なのか。
平易な文章の連なりにすいすいと読み進められるのですが、しかし肝心の核が何も分からない。何ひとつ信用できない、それがとても怖い。そういう不安を招く胡乱さがとても好きな作品です。
そんなひどく不安定な世界の中に差し込まれる湿度の高い嫉妬心もまた、目を惹きますね。
ひとつだけついた嘘って、子猿なのかなと思っています。
だったら嫌だなあというセンで。
Pz:夢と現とを行き来して、実にヒリヒリとする佳い文章でした。
真夏の白昼夢に最適です。
序盤で「嘘をつく権利」を賭ける場面を入れる事で、何処からが嘘で何処からが夢で何処からが現実なのか、或いは全てが嘘や夢、或いは全て「現実」であるか、その全ての可能性が同時に表れており、しかもそれが実感を伴う形になっているのが良かったです。
さて、問題は、これ以上書くのはこの作品にとって有効でない事です。
言及しようと思えばできるのですが、そこに触れた事で折角の白昼夢感を損なってしまうでしょうから、ここで止めておきます。
黒石:さて、困りました。
この作品、比較的早くに応募されていて、私もすぐに読んだのですが、それでも講評を書いたのは、一番最後でした。
それくらいにわからなかった。
わからないからダメというわけではありません。読んでいる最中は終始惹き込まれっぱなしだったし、読み終わった後の余韻も素晴らしいものでした。
しかし、いざ、講評を書こうと思うと書けない。あたりさわりのないはじまりで一行書いたきり、一向に先に進まないのです。
結局、当たり障りのなさそうな講評の一行目を消して、メモを頼りに――私は講評を書くために全部の作品でメモをとっています――読み直そうとするのですが、そもそもとったメモが驚くくらいに頼りにならないのです。
物語は何かしらのストーリーラインをとらえようとしたところで常に歪んでいきます。
常にどこかからか不協和音が響いてくるようで、読者である私は何かしら覚悟を決めようと先を予想するのですが、それがことごとくずらされていきます。
このずらし方は、何かを予想させて、どんでん返し的にひっくり返すというものではなく、常にどこかずらしてくる、本当にとらえようのないものです。
どこか終わらない悪夢を見ているようで、本当に楽しい体験でした。
12.繕光橋 加『エイブクレイムス・スレイブズエイク』
辰井:美しい。文章も美しいが、内容も美しい。
それは陽性の美しさではなく、暗さと、そして少々のアクの強さのある美しさであるけれども、だからこそ、力強く刺さる部分があると思う。
そうでありながら読者に文章を「鑑賞」させるままでおかない、文体の変化も見事だった。
私はこの話を全く「イイ話」だとは思わない。
作中の彼(リンカーン)が言っているように、「それは、五十万人の黒人に深く共感し、慈悲を与えようとしたからではない」し、実際、彼の恐怖の根源となっている女が「見るからに黒人」であったなら、こうはならなかったという話だ。
だから、今日的な問題意識とは乖離がある。「身勝手な」彼の行動。
だからこそ、この小説で、莫大な虚無の縁で恐怖に貫かれたものとして人間が、国が、世界が浮かび上がってくる。
それが美しく、到底3,000字台とは思わせないスケールを持っていた。
少し気になったところも。
途中の奴隷市の情景は逆回しで再生されているが、あまり上手くいっていないのではないかと思った。
少なくとも私は読解に苦労した。
人間の回想は大まかに逆回しであっても細部は順回しで回るから、逆回しで全部書いてしまう必然性が、私にはよく分からない。
また、肝心の最後の最後でやや白けてしまったところがある。
彼の名前をフルネームで呼ぶところ。「分かってほしい」という目配せのように感じた。
私は繕光橋さんのことを「分かられようが分かられまいが善いものを書く作家」だと思っているので、その目配せがあまり似つかわしくないように感じた。
「分からなくても構わないと前を向く」か「分からせる」かの2択しかないと、私は普段思っている。
色々言ったけれども、暗い美しさが力強いとても良い作品だった。
ポテトマト:私がこの作品のテーマに関する見識を十分に持ち合わせていないが故に、この作品の純粋な読み味に絞った講評とさせて頂くこと、ご了承ください。
英詩を日本語として美しい形に直したかのような、劇場の舞台の上で叫んで、こちらに訴えかけるような美しい文体が魅力的だと感じました。逆回しのようなシーンの使い方も回想録として見ると理にかなっており、文体だけで主人公の半ば錯乱した様子が伺い知れます。読んでいるだけで、叫んだ時に飛び散った唾が見えるかのような、そんな迫力を感じます。
ただ、肝心の恐怖の対象たる"眼"への描写が薄く感じるのが、個人的には気になります。
確かに、主人公が"眼"を怖がっている様子は非常によく伝わってくるのですが、その恐怖が舞台の外にいる私にはあまりピンと来ませんでした。解決案として適当かは定かではないですが、恐怖の対象たる少女の眼や表情を、主人公に端的に述べさせるだけではなく、もっと具体的に、恐怖を覚えた瞬間の事を語ってもらっても良かったのかなと。とはいえ、言葉としての美しさや、こちらに強く訴えかけるような迫力を兼ね備えているという評価に変わりはありません。素晴らしい作品をありがとうございました。
南沼:わずか3500字ながら、視点が飛び時間が飛ぶ――あまつさえ一部逆再生される――せいでものすごい読み応えとなっている作品。
味わいとしては強烈な部類ですが、これはもう単に『読み辛い』の域に入っているんじゃないかなと率直に思います。
というのも、逆再生しかり、あえて読み辛くすることにあまり必然性が見いだせないので。
しかし冒頭の陰惨で乾いた死の描写、そこから転じて極めて利己的な理由で事を成したのだと独白するくだりはとても美しい。
感情が転げるさまも、紡がれる文章も。
ここだけで、とても遠くに連れて行ってくれる作品でした。
Pz:歴史物ではありますが、詩的でもあり、フォトジェニックな雰囲気もありました。
米国大統領選のある今年(2024年)の米国の分断具合等も合わせ、南北戦争に主題を取るのも、歴史的な意味合いは感じます。
米国文学で云うと、ヘミングウェイの短編(それも各話の間に入る超短編)やポーの雰囲気も感じました。
また、映像的には「風と共に去りぬ」のアトランタの様な空気も感じました。
個人的には凄く好きですし、個人の内情と歴史的流れのリンクが噛み合わずも乗ってしまう感じ等もいいのですが、同時にその詳細さがリンカーンと云うアイコンを一兵卒位の視点に迄「引き下げる」、或いは「矮小化」してしまう危惧も感じました。
後、個人的には、タイトルは英語で書いた方が、より良かったかな、とも思います。
黒石:しっかりと整えられた音で、文章として大変美しいです。
音読したくなります(というか音読しました)。
Abe Claims Slaves' Ache.
タイトルをアルファベットに置き換えると、比較的すぐにリンカーンの話だとはわかります。
しかし、エイブと暗殺に引きずられて、最後の最後までジョンがブース(暗殺者)と思っていて、ハンクス(いとこ)だということには思いもよりませんでした。
また、「一撃でこの世界から葬り去らなければならなかった……」という部分が前後にかかっていて、リンカーンと暗殺者を結びつけるようなものと機能していて、大変印象的でした。
さて、この小説で素晴らしいのは音の美しさや仕掛けだけではありません。
前後してしまいますが、次の表現もまた大変素晴らしいものでした。
「怖いんだ!!怖いんだよ!!
あの眼が、わ、私の前に再びやって来るのがさあ!」
大変センシティヴな問題で私もうまく論評することができないのですが、私たちは今でも作中のことば通り「塞がったた耳のまま談笑」していることが多々あるような気がします。
それに対して、純粋な恐れ、善性の現れとしての恐れというものは、何かしらの糸口につながるものではないかと思うのです。
繕光橋さんがどのように考えて、この作品を書かれたかは、当然私にはわかりえないことです。
それでも、私はこの作品から読み取ったものに救いと未来への光を垣間見た気がするのです。
今このときにこのような作品が書かれたことを嬉しく思い、私も書いてみたいと思うのです。
13.杜松の実『ドキュメンタリー』
辰井:タイトルはドキュメンタリーとあり、恐らく小説とは異質なものとしてのドキュメンタリーなのだと思うが、私は本作は通常のドキュメンタリーからも異質なのだと思う。
しかし、それでいながら壊れてはいない。新しい小説、ドキュメンタリーとして再構成されている。
本作で異様なのは、語りの順番だ。
言ってしまえば明らかに時系列がおかしい。
普通、何らかの出来事を構成して見ている人間の感情を呼び起こす表現物(小説とかドキュメンタリーとか)では、絶対にやらない順序で組んでいる。
そして、そういうことをすると通常表現物は壊れるが、この作品は壊れていない。
その順序でちゃんと成り立つように書かれている。
だから、気を抜いているとすんなり読めてしまうくらいだ。
私は杜松の実さんはもっと壊れたものを送ってきてくださるかなと思ったから、今回全然壊れてないものが来てびっくりした。
通常の構成(というか散文で物を言う・書く上では通らざるを得ない規律・論理)には従わないという強い意思を感じて、そこまでは私と同じだが、途中から見ている方向が違う印象がする。
少し読み過ぎなのかもしれないが、「あなたが行きたい場所って、学校から遠いところなんかじゃないんじゃないの? そんなところに行っても、たぶん何にもならないと思うの。あなたが本当に行きたい場所は遠いところじゃなくて、高いところじゃない?」というのは杜松の実さんの中の到達点で、だからこそこの小説なのかなとは思った。
遼遠とかいって「遠く」と言っているけど、実際答えは遠くにはないんじゃないかという。
多分、「遠く」のままだったらもっと壊れてたと思う。
私は現代日本小説はこっちのルートに来てよかったのか疑っているので、「遠いところじゃなくて、高いところじゃない?」には「否。遠いところです」と答えるが、どちらが正しいというものでもないと思う。
ナオミは名前から思わず谷崎を想起するけれども、どちらかというと既存の小説にはのっとらない豊饒な世界なのだと思う。
だから、ナオミと別れるのはそういう世界に浸りきれない挫折ではあると思うが、語られる順序が違って、「ナオミとテトラの仲間に入れた」のがナオミとのエピソードの最後なので、不思議と希望がある。振り返ればそこにいるよねという。
ほとんど妄想のような講評だが、杜松の実さんのネクストステージを感じる作品だった。
ポテトマト:起こった出来事の記録としてのドキュメンタリー、ひいては小説の在り方に一石を投じる作品だったのかな、と自分は感じました。
一番特徴的なのは、やはり時系列。
通常、起こった順に記述を連ねてゆくのが作法、分かりやすくする為の不文律とされていますが、この作品はそれを破っています。しかし、それでも何故かすんなり読めてしまいました。事実、自分は初読時に時系列が混ぜこぜになっていることに気が付かず、普通に最後まで読み進めてしまいました。この点だけでも、十二分に論評の価値があるかと思います。
そして、この一見あべこべな順序こそが、この作品にとっては正しい順序なのだと、私は解釈しています。
「螺旋階段みたいなイメージでしか、物事は良くはなっていかないと思うの」という最後の段落の言葉こそが、きっと主人公が一番学び取るべきだった言葉だった。そう感じているからです。時系列通りに読もうとすると、このシーンが最初の方に来るのも面白く、答えを知らされていても気づかない主人公の未熟さも窺い知れます。"螺旋階段"という言葉がこの作品の迂回をするような時間の進み方にも繋がるような気がして、自分はこのセリフが大好きです。確かに、一般的な記録映像としてのドキュメンタリーとは大きく外れますが、主人公のドキュメンタリーとしてはピッタリである……。そんな思いを自分は持っています。長々と、自分の解釈を語ってしまいました。作者様の思いから外れていたら大変申し訳ございません。ですが、ここまで語り尽くせるパワーと魅力を持った作品だったという事は間違いないと思われます。非常に興味深い作品を提供いただき、ありがとうございました。
南沼:641532、で時系列あってますかね。
パラグラフを隔てて「あれっ時間飛んだな」とは思ったもののすんなりと読み進められるストーリーテリングの妙は目を見張るものがあります。
ただの曲芸ではなく、この順番だからこの味がある。
さてストーリーそのものに目を向けると、理想を追い求めるも現実の壁にぶつかり挫折しそうになった若者が逃避行じみた旅と失敗を経て己を見つめなおすという一種の成長物語ですが、これちゃんと成長できてるかというとちょっと怪しくないか、と思うんですよね。
というより、主要な登場人物たちの会話、特にそれぞれが自分の思いの芯を老婆心や人生哲学や怒りから発するところ、その『芯』を相手が全く受け止められていないように見える。
一見会話そのものは成立してるのに、そこに恐ろしいほどの断絶があるように見えてしまう。
この遠さが作者の意識したところかどうかは分かりませんが、この空虚さがバラバラの時系列にされながらも一種の美しさを成り立たせている物語の流れに、ある種の胡乱さを持ったもう一味を添えています。
Pz:時系列を逆にしてもスムーズな文章が面白いです。
また、「聞き取りを受けてる人」の語り口もよく再現されており、そこも含め時系列が逆になっても違和感を薄めて読ませるのは巧いと思います。
全体としても「ファイトクラブ」や夢を見ている感じがして個人的には好きでした。
難しいのが、主人公が「成長」してしまうと全体のループ構造が効かなくなりますが、他方、「成長」させる事で「螺旋を描く様に変化する」様も表現でき、どちらをより強く全面に出すか、迷っている様にも感じました。
この「迷い」が味でもありますが、同時に吹っ切れたのも見てみたい気がしました。
黒石:回想をいれる、クライマックスからはじめて戻る、遡っていく、時系列に手をいれるというのはフィクションでの基本的なテクニックです。
私たちは意識的にどころか、無意識的にさえ使っているものでしょう。
ただ、この作品はシャッフルしたのかと思えるくらいに時系列をばらばらにしています。
6つのパートに分かれているのですが、この6つのパートに時系列で番号をつけると6→4→1→5→3→2となります。
第1パート:復路の航空機内(時系列6)
第2パート:バーにて。ナオミとの会話(時系列4)
第3パート:往路の航空機内(時系列1)
第4パート:バーにて2。ナオミとの別れ。(時系列5)
第5パート:ナオミとの出会いとセックス(時系列3)
第6パート:往路の航空機内2(時系列2)
単純な回想としてわかりやすくつなげているところもありますが、そのような仕掛けもほどこされていないところもあります。
そして、それにもかかわらず大変読みやすいのです。注意していないと、時間が飛んだことにさえ気がつかないように書かれている。入念に読者が気がつかないようにとしかけているようなところもある。本当にすごいなと思います。
象徴的暴力などということばがあります。価値観や規範を誰かに押し付けることで、学校教育というのは、象徴的暴力の代表的な例としてあげられることが多いものです。
教員というのは、象徴的暴力をふるい続けることを求められるわけですが、教員とおぼしき主人公はその学校というシステムを嫌悪しているところがあります。
かくあるべしという規範を押し付ける学校というシステムを嫌悪し、それを改善したいと思いながらも自らもその暴力にさらされ続け、ここから遠く離れたところにいきたいと考え、たどり着いたのは歓楽街のいかがわしい店。
出会った女性と行きずりの関係を持ち、その後、拒絶されるわけですが、そのときのことばがとても素敵です。
「勝手にそんな大きな責任こっちに負わせないでよ[中略]わたしを勝手に、大きな物語の都合のいい装置にしてんじゃないよ」
このことばを発したナオミは、学校というシステムと徹底的に相容れない存在です。
後に描写される幻想的なセックスシーンで描かれるナオミの幻視めいた世界は、主人公が望むレベルでのシステムの改善をおそらく凌駕していて、完全にとらえきれない存在なのです。
さて、主人公が出会う二人の女性はどちらも彼を手玉に取り、彼の思いを引き出していきます。
カウンセラーの前に座っているがごとく、自分の思いを吐露させられ、ムチで打たれ、絶頂に達する。
もう一人の女性である老婦人に対しては、主人公は自分の思いを吐露させられながらも、どこかで拒絶しているところがあります。
理解を求めて拒絶され、理解されてそれを拒絶する、この対比的な描き方こそがこの作品の素晴らしさで、単純な解決できないなかでもがき、それでも進んでいく、とらえどころのない私たちの生を描ききっているようなところがあり、そこがとても良い読了感をもたらしてくれました。
14.真狩海斗『三位一体の実験』
辰井:島津久光、オッペンハイマー、“切り裂きジャック”。三つの時代が交差しミックスされるまさしく「三位一体の実験」。
その終盤の「現実と空想を好き放題ファックさせ、世界をグッチョグチョに掻き回しては、新たな神話を創造する」が具現化したシーンは圧巻だった。
一体この三者がどう交わるのだろうかとドキドキしながら読んでいた分、その三位一体の光景に息を呑んだ。
怯むほどの野心と、その野心を叶えるに十分な筆力、壮大な構想で目を瞠る挑戦を見せてくれた。
ところがである。
読み終わって、どうも、一番美味しいところが抜けている気がしたのだ。
それは何か。「解釈」だ。
つまり、“切り裂きジャック”がミックスさせたあの世界で、オッペンハイマーが繰り返し惨殺され、原爆が落ちることについて解釈する人間がこの作品にはどこにもいない。
良くも悪くも、この作品は実験であり、その実験結果に対する考察は含まれていない。壮大な実験を見せて、その解釈は読者に放ってある。
解釈を読者に委ねる作品があってもよいし、私はむしろそういう作品を好むところさえあるが、この作品に関しては、それでは厳しいものがあると思う。
実在の人物が本当とは違うかたちで無残に殺され、原爆(言うまでもなく多くの人が亡くなっている)が落とされた経緯も変わって見えるシーンを展開して、「こちらは何も言わないので感想はご自由に」というのは少し乱暴ではないだろうか。
その「歴史改編」の倫理的な当否をさておくとしても、「“これ”への感想を求めるなら、そっちがまず腹を割らんといかんでしょう」という気持ちにはなる。そして、それは、匿名的な“切り裂きジャック”には無理な要求だ。
アバーライン警部が吐き捨てるがごとく、道ゆく誰もが“切り裂きジャック”になれるし、そんな“切り裂きジャック”が新たな神話を創造できる時代ではある。
その中には傑作もあるだろう。しかし、本当に面白いものは、それでもやはりネームドな個人が書くのではないかということを考える作品だった。
あと、これは脇道だが、例えば広島の原爆投下など、前半部分で明らかに歴史的事実と異なるところがあるのは引っかかる。
広島の原爆投下は午前八時十五分のことで、リトルボーイはプルトニウム型ではなくウラン型で、爆心地は相生橋からやや外れたところだ。
前半部は歴史をある程度忠実になぞって終盤でずらすという構成だと認識しているので、こういったところで齟齬があるのは不可解だ。
でも、挑戦と野心はすごかった。
プラスかマイナスかと言われたら断然プラスの作品だと思っている。
ポテトマト:"実験"という単語がまさしく相応しい作品かなと感じました。
まず、この作品はヒップホップにおけるサンプリングのように、既存の文脈を切り貼りし、新たな文脈を作り上げようとする試みをしていたのかなと思います。
事実、その試みは最終ページにおいて成就し、積み上げてきた3つの文脈は切り裂かれ、そして再び繋ぎ合わされ、新しい文章が生まれました。そうして生まれた文章はとても鮮烈で、読んでいて心が踊りました。
次に、この作品は小説のページという時間の流れの縛りを解体し、3つの並行する歴史が合流する形へと作り上げる試みでもあったのかと自分は思っています。これも、成就しているかなと思いました。
これから何が起きるんだろうという緊張感が、最終幕までしっかりと続いている事も特筆したいです。
最終幕まで3つの歴史のシーンが何の説明もなく並列されており、そこに対する解釈を宙ぶらりんの状態にし続けていた事が、その助けとなっていたと感じています。
それに加えて、第三の試みとして、現状の歴史観を解体し、新たな歴史観、隔てた時代を貫く解釈を提出する……。
そう言い切れる作品であれば良かったなあ、惜しいなあと思わざるを得ません。
また、詳しい説明は他の方にお任せしますが、一般的に知られている事実と何の説明もなく記述がズレているのは致命的と言わざるを得ません。また、とはいえ、最終幕に迸る熱量に間違いはなく、新たな小説の形を目指そうとする野望の大きさと、それを実現するための技量がしっかりと揃っている事は改めてお伝えします。素敵な作品をありがとうございました。
南沼:歴史上の人物の言動に、また別の歴史上の人物が時空を超えて介入していた……、着想がもう勝利という感のある作品です。
アイディアの調理の仕方も工夫がこらされていて、島津久光とオッペンハイマーの数奇な人生が切り裂きジャックのグロテスクな儀式とともにぐちゃぐちゃとあり得べからざる乱れ様を見せる、悍ましくも幻想的な最終話は圧巻。
例えるなら手の込んだ多国籍創作料理といったところでしょうか。
とても遠くに連れて行ってくれる作品だなと思う一方で、「なんか芯を食ってないな」という空振ったような感想もまた抱きました。
これは島津久光とオッペンハイマーには大胆なまでに心情を吐露させているにも関わらず、切り裂きジャックの方が今一つ掴みきれないままというところに端を発しているように思います。
とても面白いのですが、その1点が惜しい作品。
Pz:これは私が「切り裂きジャック」に対して余り大きな神秘性を覚えていないせいでしょうけれど、何故「切り裂きジャック」なのかがしっくりこなかったです。
三位一体としたした時、「父と子と聖霊」だとしても、或いはヒンディの三神だとしても、他の2件と「切り裂きジャック」では「一体」になり得ない様に感じました。
また「未来が過去に影響を与える」と云う構図も、例えば『進撃の巨人』や漫画版『デビルマン』で(孰れも凄惨な形で)表されており、矢張り「切り裂きジャック」では役不足な様にも感じます。ただ、FGOの「ジャックちゃん」をベースに考えるなら役の「格」は上がりますが、そうなると今度は「世界を変える事への執着」が疑問になってしまいます。スタンドアローンコンプレックスの様な「集合意識」としての、つまり「伝説」に仮託された「悪意の集合体」ならば、これも矢張り「世界の変革」と云う新たな「秩序」をではなく(少なくとも明治政府や冷戦構造は「秩序」ではありました)、「世界の転覆」と云う「混沌」に流れる(それこそエントロピーの様に)のではないか、とも思ってしまい、私にはどうしてもそこが引っ掛かり、折角の文体を楽しみきれなかったです。
また「未来が過去に影響する」としつつ(そこはミスリードの可能性は有りますが)、最も影響を与えたのは最も古い「切り裂きジャック」なのも少し気にはなりました。
後、一点、これは物語には関係ないですが、広島型と長崎型の原爆は同型ではなく、ウランを用いたガンバレル式とプルトニウムを用いた爆縮式で形式も形状も異なりますので、そこはご注意を。
黒石:時と場所を越えた3つの出来事が1つに収斂していく話。
それぞれのエピソードは、史実をほぼなぞっており、説明的なものです。
(ただし、原爆投下の時間が異なっているのは、どうしてなのか、わかりませんでした)
しかし、それが最後でひっくりかえるのが面白いところだと思いました。
最後の解体シーンはまるで死体化生型創世神話のようでもあります。
そう、この話は神話なのかもしれません。
神話というのは我々の論理を求めてはいけないものです。我々の受け入れるべき真実なのです。そう考えると、少しずつ史実と異なっている話も一種の神話の異伝としてとらえるべきものかもしれません。
というわけで、この神話を私はただ受け入れようと思います。
話としてはよくわからないのですが、たしかに面白かったのです。
さて、もう少しだけ、読んだときに感じたことを続けます。
これを読んだとき、一種のヒップホップ的サンプリングのようなものだと思いました。
先にも述べたように個々の事件は基本的に史実をなぞったものです。しかしながら、それを切り取り、配置することによって新たな作品が生まれてくるのは、様々な音源を切り取り、つなげていく中で新しいものを生み出していくヒップホップ的なものであると思います。この創作のあり方、大変興味深かったです。遠いと言わざるを得ません。
15.堕なの。『千五百秋』
辰井:「瑞々しい感性」とか「鋭い感性」といった言葉は嫌いだが、はて、じゃあどう表現しようとちょっと迷ってしまう。
感性がこの作品の一番の長所だと思ったので。
その感性の表れというのは、抜き出してしまうと台無しになってしまいそうな淡いもので、その淡さや美しさの重なりが、永遠を名前に持つ彼女のありもしない永遠性をなんとなく納得させるところがある。
遠くに行きそうもない話でありながら、淡い一瞬一瞬の重なりの果てに幻のように浮かび上がる(そして実際幻の)永遠性によって遠さを持っている感じがした。
とても良い作品だった。
他の講評との兼ね合いで少し具体的な話も。名前の由来の課題の話。
確かに中三に出される課題としてはちょっとあり得ないくらいの幼さで、ご都合主義を感じないではないが、最初の方で新任の先生が決して良い先生ではなさそうなのがちゃんと書かれているので、気になるほどではなかった。
「それが知らないおじさんのものなのかもしれない」の「それ」は先生。
しかし、そうでありながら、二人がシガーキスをする決定的な瞬間は、いつも桜が隠していて見えない。
そのありようが、現実のしょうもなさが滲む日常の中で幻想を添えている。全体の印象に関わる重要なシーンだと思った。
終盤、父の手紙に涙するのは些かウェット過ぎる気がした。
このパーソナリティの主人公が、その文面の手紙には泣かないだろうと思ったので。
ただ、ラストのからっとした終わり方は良い。
秘密基地が過去と一緒に崩れるのも。
地続きでありながらも風通しの良さを感じる終わり方で、この作品にとても合っていたように思う。
父との遭遇と、向き合い始めは「何方にしても、お互いが遠い存在」だと思っている他人への歩み寄りでもあるだろうか。
一方的に手紙を渡して去って行った父ではあるが、この主人公なら、面と向かって話すのもいつか叶いそうな気がする。
案外作者が見た「遠く」はこちらの方なのかもしれないとも思った。
ポテトマト:細やかな描写、言葉使いからキャラクターの造形や時代感を出すのが非常に上手で、読んでいてとても楽しめました。
個人的に特に感激したのがスマホのゲームを弄っている描写で、これが2010年代初頭という時代設計に噛み合っているなと思います。
当時は、スマートフォンが普及し始めていた時期であり、それと同時にソーシャルゲームが乱立しては消え去っていった時期だったと記憶しています。本作品からは、こうした細やかなリアリティを追及しようという意識を様々な箇所から感じ取りました。端々から、少し捻くれた感じの人物像を感じられるため、そこだけでも十分に技巧と魅力を感じられます。
そして、手紙を介した娘と父親との距離感。
ここに作者様の見出した「遠さ」があるのかなと自分は感じています。
手紙という文章の力というか、一通の手紙でもって繋がる距離の遠さというか、気持ちが少し前に向くほどの変化を手紙、あるいは文章はもたらしてくれる。そういう訴えではないけれど、些細なメッセージを自分は感じ取りました。総じて、短いながらもリアリティの追求に余念がなく、テーマに関しても繊細で好ましく感じました。素敵な作品をありがとうございました。
南沼:短いながら、語り部たる主人公の人物造形がとても良い作品でした。
世の中を斜めに見ながら自身のコンプレックスの裏返しををそのまま他者になすりつけるような態度で、授業についていけず語彙も貧困、視線を遮られた向こうに男同士のシガーキスを妄想する田舎の女子中学生。
めちゃくちゃ好きです。
よくここまで詰め込んだなと思う。
母親と死別し父親にも捨てられて福祉施設で生活をしているようですが、ひとつの過去との決別を思わせる描写もあり、前向きに生きて行ってくれたらいいなと応援したい思いです。
「小説の可能性の模索」という本大賞の趣旨、その評価軸で得点を上げられる部分はあまり多く読み取れませんでしたが、キャラクターという一点でとても推したい掌編です。
Pz:思春期の少女の心情を感じさせる佳い文章でした。
また、裏テーマであろう「遠く」も、心の距離と物理的距離、更にその間に桜の花びらを挟み、或いは自意識とその突破も見せる等、構造と状況も合っておりました。
ただ、一点。後半の手紙に関してですが、ホンモノの「クズ/カス」は、仮令手紙であろうと、あんなに綺麗には書けない事が多いと思います。もしかすると元々の頭や感性が良く、また恐らく「先生」の指導も入っているのかもしれませんが、そうだとしても「カス」はあの様には書けないのです。
また、主人公の書いた「テンプレ作文」との比較もできますが、そこから見て後者の手紙がもっと「カスの文章」になっていたら、そこの違いにより作品にもっとコクが出せるかも知れません。
ただ、「ホンモノのカス」と出会った事が無いのでしたら、その方が人生としては幸せだと思いますので、無理な取材等はしない方が良いとは思います。
黒石:中学3年生という多感な時期の少女の名前をめぐる物語。
特筆すべきところは、主人公の描写。
思春期の主人公の内面の描写、斜に構えた感じや、自身を含めた全てに対しての刺々しさ、繊細さ、余す所なく見事に描かれています。
遼遠小説大賞ではどちらかというと、実験的な作品が目立ちますが、そこに正攻法で殴り込みをかけて、しっかりと爪痕を残している素晴らしい作品だと思います。
リアリティというのは、このような小説に不可欠な要素です。
小説である以上、現実そのものではないのですが、だからこそ本物っぽく感じさせないといけない。
この作品はほとんどの部分でそれができており、大変完成度が高いと思います。
ただ1つだけ(あとで蛇足的にもう1つ足します)気になったところは、これまたリアリティをめぐる部分です。
「今日の宿題」、物語上、必要不可欠な要素であるのはわかるのですが、だからこそ、この部分のリアリティのなさがどうしても気になります。
「ああ、またこれかという感じである。小学生の頃にもやった課題」と主人公がツッコミをいれていますが、私もまたツッコミをいれたくなりました。
もちろん、本当に中学生でもそのような宿題が出されていることはあるかもしれません。ただ、私にはそれがリアルなものに感じられないのです。
なにかしらリアリティを感じさせる説明があるか、さもなくば、別のイベントであったほうが良かったかもしれません。
(あるいは、新任の担任が主人公の視点以外からも紛うことなき阿呆――小学生からほぼ一緒の面子が揃う教室で平然と小学生でも定番の宿題を中学生に再度出す世間どころか学校教育的に必要な知識量においても不適格な者――であることを描写するか。ただ、これをやると話がずれるかもしれません)
蛇足ではありますが、二限目の教室の描写での「それが知らないおじさんのものなのかもしれないというのだから、人生は分からないものである」というところで、「それ」の指示内容がわかりませんでした(読み直してみると、「それ」はイケメン先生になるなぁと思ったのですが、そうなればそうなったで、突然のBL的展開に見えてしまってよくわかりません)。
16.五三六P・二四三・渡『テレパスもどきと』
辰井:誤字脱字の多さで損をしている作品だと思った。誤字脱字や表記間違いが多いから、この作品に多い特殊な言い回しを見ても、「推敲が足りてないんじゃないか」という疑念が走って、味のある表現として素直に楽しめなかった。
本当にもったいない。また、特殊な言い回しも、本作の場合、あまり効果的に機能していないように感じた。
例えば、「それとは別に理由があって、自身はシスヘテロであるが、相手が男女かまわず性欲ふと感じることがあり、さらに老若男女かまわずにもそれが起こる。しかし、それはなかったことにできる程度に無視が出来るもの。本当に誰しもが持っているが、ないと扱っているのかもしれない。実際ないに等しい欲だけど、それでも心が読めると聞くと不安になってくる」という部分を、「それとは別に理由があって、自分はシスヘテロではあるが、相手が男であれ女であれかまわずにふと性欲を感じることがあり、さらに年齢を問わずにそれが起こる。しかし、その突発的な性欲はなかったことにできる程度には無視できるものだ。本当は誰しもがその程度の性欲は持っていて、ないものとして扱っているのかもしれない。実際自分にとってもないに等しい欲ではあるが、それでも心が読めると聞くと不安になってくる」という意味だと解釈するのに私は立ち止まる必要があったし、この解釈で合っているのか確かな自信はない。
こういう表現は味と捉えることもできるけれど、本当はストレートにストーリーと設定で楽しませようとしている小説で、こういうところで躓かせるのは本意ではないのではと思う。
描写も結構重要な描写が抜けているように思う。
一番大きな抜けは結婚相手だろう。
私の読み落としだったら大変申し訳ないが、「敗北宣言」で「そして離婚届けにも判を押した」とあるのは、性に開放的な教団ではあったけれども、具体的にどのタイミングでどう結婚したのか不明なので戸惑った。
終盤、主人公が「あの人は教団をつぶすのに一役買った恩人なんだよ!」と言うが、詳細が不明なので主人公の決意に乗れない。
最終盤の展開に読者を乗せるためにも、花嫁の過去の描写はもう少しするべきだったと思う。
と、文句ばかり言ってきてしまったのだが、良いところも多い作品だった。
やり取りのビターな感じや、思考が読み取れるからこその会話、一癖あるSF的設定などは楽しく読んだ。
また、最後、二人はまだどこにも辿り着かず、倉橋が延々と思考を読み続けることによって擬似的な逃避行の風景を描写しているのだが、それがこの二人らしくて良かったと思う。
二人が実際そこまで辿り着けるかというとなんとなく望み薄な気がするが、二人はその景色を見られているのだ、と。
もうちょっと読みやすかったら安心して色々楽しめたなという作品だった。
ポテトマト:話としては魅力的なパーツが揃っているものの、具体的にどういった部分を見せたいかの整理が付いておらず、その点で損をしている作品。
正直、自分はそう感じてしまいました。
ゴミ収集車すら自動化した近未来という世界観、偽テレパスという作品のテーマ、無駄なく緊張感が伝わってくる会話劇など、構成する要素に関してはいずれも目を惹かれるものが多く、作者様の技巧を確かに感じます。
しかし、それらの要素がうまく噛み合わない印象を、どうしても受けてしまったのです。
例えば、偽テレパスというテーマ。自分は、近未来という舞台でなくとも成立するテーマだと考えています。確かに、”脳内端末のメモリ”に記録し続けるという点において、偽テレパスの原理は近未来でなければ成立しない設定のように思えます。
しかし、そもそも言葉や文字には、人間の脳に作用し、認識と記憶を書き換えてしまう力があるのではないでしょうか。
極端な話、紙と筆さえあれば、どの時代でも似たような事がフィクションという体であれば出来てしまうと自分は思っています。それ故に、作者様の書きたかったテーマに対して、本当に近未来という舞台が一番マッチしているのかについて、どうしても自分は疑問を感じてしまうのです。
ただ、部分部分で十分に楽しませてもらったのもまた事実です。
薄暗い過去を持ちながら、未来が見えてしまった主人公の葛藤が鮮明に伝わってきましたし、最初の「ゴミ収集車は5番目に自動化した車らしい」というフレーズも非常にカッコいい。
惹かれた箇所も沢山あります。
惜しいなと思う所もありますが、それでも十分に素敵な作品だったと自分は思います。
南沼:これはめちゃくちゃ面白い。
時間系短編SFの醍醐味みたいなやつがそのままやってくるとは思いもしませんでした。
「それは経験済だが?」系主人公でありながらその実敗北に敗北を重ね、今や底辺と呼ばれてもおかしくない職業の従事者ながらそこから……という展開も熱い。
なにより終盤、お互いの思考と言葉が混ざり合い一つのうねりのようになる下り、これは他29作の投稿作すべてを差し置いて最も勢いがあるといっても過言ではないところ。
しかしながら、キャラクターの関係性にもう少しフォーカスした部分、そこが抜け落ちているように思います。
本大賞の上限20000字をほぼ使い切っていることから、あるいは中編向きのプロットであるのかもしれません。
SFとして読むと主人公の疑似予知能力とそこからの社会復帰、技術的な注釈については駆け足すぎるというのが正直なところ、裏を返せばここを埋めさえすれば一般文芸のどんな賞を獲得してもおかしくないように思います。
Pz:恐らく映像作品、或いは漫画等、視覚媒体の方が向いてるお話だと思います。
スピード感がありテンポも良く、決定論の中で生きる閉塞感の描写や話の展開も巧いのですが、小説として見た場合に、少なくとも短編では訴求力が弱くなってしまっているのを感じます。
私が上記の様に思う理由は次の3点、1:キャラデザが見えない、2:話の展開が優先され描写が見えない、3:作中の論理構造が粗い、になります。
以下、夫々述べます。
1、キャラデザが見えない。
字数制限の関係もあって描写が制限されるのは仕方ないのですが、全体的にドライブ感の強い作風ですので最初の掴みで何処までキャラが魅力的かが重要になるかと思います。その魅力を伝える上で、視覚に訴えるのはかなり有効かと思います。
コレは視覚情報が制限されるカクヨムフォーマットの問題でもあるので、別の媒体で、ご自身でもAIでも、キャラクターのヴィジュアルを出せば解決可能だとおもいます。
2、話の展開が優先され描写が見えない。
これも窮極的に言ってしまえば字数制限のせいなのですが、所々に出てくる街の雰囲気やガジェットの描写が弱いせいで、兎に角話が次から次へ押し寄せて来て、しかもその話自体には小説としてのSF感が薄いので、サイバー感やSF感が弱い印象を受けてしまいました。
3、作中の論理構造が粗い。
作中での「心」と「意識」の取り違いや、性衝動への嫌悪感の基盤の薄弱さ等「ばかり」が目立ってしまっている印象が有ります。
唯物論に基盤を置くか否かに拘らず、話の流れとしては「決定論への人間性(感情)んによる叛逆」が有るのですが、そこの辺りの論理の詰め方や対話が(SFとしては)弱かった様に思います。
コレは、作者自身の問題と云うより、作中の登場人物が「幼い」せいや「ペテン団体」なせいのもありましょうが、読心術や未来予知の説明、登場人物の行動基準も、論理的に飛躍している箇所が多く、それが上2つの問題のせいで目立ってしまっているのが残念でした。
以上、色々書きましたが、全体としては5万字以上の中編なら良かったと思います。その中編以上向きの話を短編に圧縮したせいでリッチさが失われたのが残念に思われ、言葉を重ねてしまいました。
黒石:自動化したゴミ収集車とほとんどそれに仕事を奪われてしまっている労働者である「俺」が私をサイバーパンクの世界に誘います。
そこで出てきたテレパス「もどき」の少女、「偽超能力者被害者の会」、情報の出し方がとてもうまくて、読むのをやめられなくなります。
さらに、この作品で出てくる(過去に存在した)宗教団体の思想というのが、メディアによる身体と精神の拡張という現実世界とサイバーパンク的物語世界をうまくつなぐようなもので大変魅力的です。
このさらっと流してしまったところ、主人公の人格をめぐる話、この部分はもっと読みたかったところです。
一方、結婚式からの展開にはついていけなかったというのが正直なところです。
この話が繰り広げられる世界はとても魅力的です。
そして、これまた魅力的な話は、どれもが長編小説になりうるもので、これは15万字から20万字くらいで読ませてほしいのです。
教祖にしても、倉橋の現在の戸籍上の親にしても、どれももっと知りたいと思える人物ですし、照射の会がいかにこの世界に、また主人公たちに傷跡を残していったかという部分についても、もっとこの作品の中で体験したかったと思うのです。
冒頭で感じたサイバーパンクっぽさを後半でももっとがんがん出して、私をこの物語の世界の中にはりつけにしてほしかったと思います。
ものすごく遠さを感じさせながら、それでいて読みやすく惹き込まれる作品、これをプロトタイプとした長編小説が欲しいなと思いました。
17.石田くん『プラトニック・スウィサイド』
辰井:青春が終わった後の、外形的には大人になっているけれども自立はできていない時期特有の心の揺れ動きを描いている作品。
その一日一日が繋がっているが、しかし一向に前に進んでいる感じはしないのだという感じが、ほとんど一話で読み切れるエピソードが緩く繋がっている小説の形式ととてもマッチしていた。
この辺りはWeb小説が向いている部分だ。
決して爽やかな人間ではない彼女の心の動きもよく描けていた。
この小説の最も大きな美点だと思う。
しかし、力が抜けているのが気になった。
普通の日本語の規則から外れているように見える文章が時折混じるのはわざとだと思うが、文章の吟味が十分に為されていないために、読みにくい割にあまり印象を残さない。
逸脱は厳密にやるからこそ際立つものだと思う。
また、最後は一気に冷めてしまった。
あれが、彼女の人生に本気で向き合った結果の結末なのだろうか。
彼女が生きるのであれば、全体が脱力していてもセルフセラピー的な作品としてそれはそれでよしだったが、そうですらない。
ああいうパーソナリティの主人公を死なせる小説が一概に駄目ではないが、書く人間も読む人間も所詮は生きている小説というものの「限界」をちゃんと重いと感じているのか疑問に思った。
はっとするようなシーンがいくつもあった作品だった。
どうにか脱力状態から抜け出してほしい。
ポテトマト:これほどの負の感情を書き切った。その事実だけで個人的には賞賛をしたい作品です。
限界を迎えている時の呪術的な思考の働きというか、非論理的な結論へと突如飛躍してしまう感じが鮮明に描かれていると感じました。句読点が崩れ、正常な文章の法則から逸脱した文体も手伝い、本当に後一歩の所まで来てしまっている様を示していると、自分は受け取っています。
どのシーンも胸が締め付けられるようで、特に12歳のいとこを内心侮蔑するシーンでは、荒み切った精神の攻撃性を象徴していると思いました。その子が持っていた芥川を読もうとするくだりも、一種の無力感というか、空虚な感じがよく伝わってきて良かったです。
「遼遠」という企画の主旨から言いますと、この作品のテーマは既に手垢が付いており、描こうとしている物の目新しさはあまり無いと言わざるを得ません。
しかし、文体の工夫や細かな機微などが手伝い、遠くへと連れていってくださった事は間違いないです。素敵な作品をありがとうございました。
南沼:全十五話、一見だらだらと続くような話数ではありますが、それぞれに明確なテンポの速い遅いがある。
各話それぞれの長さにもメリハリがあって、描写される「イヤ~な時間」はひたすらヤな時間を伸ばし伸ばしにしているのに対し「マジでヤバい時間」は描写をそべてすっ飛ばすあたり、ちょっと嫌なリアリティがあって良いですね。
「私」の陰湿さと胡乱さ、そして社会との適合できなさ、本来は読むのも書くのも「しんどい」はずの描写、そこをさらっと済ませられるのは筆力のなせる業と思います。
うじうじと知った風なことをいう主人公、カスな上司、自死に至る動機はたっぷりあって、だというのに「死にたい」「でも死ぬのやーめた」を繰り返す主人公はいっそ愛おしい。
それだけに、最終話一歩を踏み出すさまと手遅れながらそれを後悔する姿が胸に刺さるんですよ。
小説の可能性という軸よりも、そこ以外で大きな得点源のある作品でした。
Pz:内面描写のみで進行する構造と、その構造を支える細かい描写のリアリティが非常に力強く、「こうなるだろうな」と云うのを納得させられる作品でした。改行の少なさや、句読点の歪さも精神が「詰まって」来て入る感じがして良い表現だと思います。
内容面に関しても、「ちょっとした買物ができない困窮」等「マイクロアグレッション」の積み重ねが如何に追い詰めるかも真に迫っており、そこが純文学的でもあり良かったです。
ただ、私はこのタイトル「プラトニック・スゥサイド」と作品の内容との関係に引っ掛かっております。
「プラトニック」と付く場合、それはプラトゥンの『饗宴』等で示された「精神性の優先」となるかと思います。或いは、通俗的にも「肉体関係を伴なわない(ノン・フィジカル)」となるでしょう。しかし、作中ではそうではなく、精神的にも物理的にもそれは為されてしまい、タイトルと齟齬があります。
もう一段メタな見方をするなら、これは『若きウェルテルの悩み』の様に、作者の実体験に基づき結末だけが違う物で、だからこそ「プラトニック」なのか、とも「考察」できますが、此は推論を前提にしているので、これ以上は止めておきます。
黒石:どろりとしていながら、清々しい。重々しくて、軽やかで、暗く、とても明るい。
このような形容をしたくなる小説でした。
長くても1600字程度、多くが700字前後の字数で細かく章分けされていることもあって、断片的な随想といった印象を受けます。
タイトルの通り、自殺を題材にした小説で、だから、安易に面白いと言いづらいところはあるのですが、それでは講評にならないので、面白かった点を述べていきます。
まずは主人公、私から見るととても嫌なやつなのです。一切の共感ができない(念の為、付け加えておきますが、共感できないということは、マイナスポイントではありません)。それは自分の醜さを突きつけられているような感覚がするからなのです。性別こそ違うのですが、主人公がところどころで述べる筋も通っていない、醜い独白の数々には心がえぐられました。本当に素敵だと思います。
また、主人公の随想のそこはかとない非論理的な部分も素晴らしいところだと思います。何かよくわからない感情を持て余してしまったときの感覚や言語化できていなさというのが、本当によく描けているなぁ。第一三章の「私はそうあるべきだと思った。何がとはわからないが、そうあるべきだと思った」というところや、第一四章の芥川のくだりとか最高でした。
講評冒頭で述べたように二律背反的な印象を読んでいるときに常に感じていたのですが、死が近づくにつれて、明るさを感じさせるようなところがあったのもよく描けているなと思うところでした。これについては後でももう少し触れます。
ただ、独特の読点の用法――たとえば、ダッシュ代わりに使う、重ね打つ――については、それをしたことで何を揺るがそうとしているのかがよくわからなかったというのが正直なところです。ところどころある段落冒頭の字下げをされていないところも、何かを意味しているものなのか、それとも単純なミスなのかわかりませんでした。あらすじでいう「挑戦的な日本語 文法」には程遠いと言わざるを得ません。
さて、後半、主人公は何度も死のうと思い、そのたびに翻意します。
ただ、後ろになればなるほど、死ぬ理由が明確でなくなってしまい、言語化もできなくなったあたりで本当に飛び降りてしまうあたりは妙なリアリティを感じました。
私の数少ない友人のひとりは自分で死を選んでしまったのですが、死の直前は死ぬような素振りは一切なく、とても明るかったんですよね。
そういう点でも、妙なリアリティを感じてしまったのですが、できることならば、このような作品で心をかき乱されたくないと思ってしまう私がいます。この気持ちについては作品の評価とは関係なく、記しておきたいと思います。
18.佐倉島こみかん『葵先生の『作り話』』
辰井:葵先生の『作り話』を聞いた4人の生徒の四者四様のあり方を描いた作品。繊細な内容を扱った作品で、その問題に触れる手付きと書きようがあまりに丁寧で、作品全体に気配りがされているのがありありと分かるので、とても爽やかな読み心地だった。
1つの『作り話』を4人それぞれが聞くという構造上、同じ部分が繰り返されることになるのだが、退屈であるどころかスリリングでさえある。
特に、佐山祐樹が聞き取った部分、同性婚に関する裁判の部分は、前の二人の回想では出てこない。
つまり二人はそこは聞き落したのだと分かる。
それがある種残酷で印象深いところだった。
他の聞き落としや理解度の違い、関心の向き方などの書き分けも本当に丁寧だった。
一つ気になったのは、四つのエピソードの最終的な読み心地は似通っているために、小説全体に予定調和を感じたところだった。
もちろん、心無い結末のエピソードがあると読後感を損なうし、そういうことはするべきでないと思うが、今の形が「物語がどこまで遠くに行けるかは受容する側にもかかっている」というこみかんさんの考えを十分に表現できているのか、私は少し物足りなく感じる。
十分上質な作品で、この控えめな感じを好ましく思う私もいるけれども。
ポテトマト:今だからこそ、取り扱うべき話だなと強く感じています。
一番白眉なのは竹原くんの話でしょうか。
学校のクラス特有の互いの視線が絡み合って生じる、何とも言えない緊張を含んだ空気感が非常に上手く表現されていると思います。竹原くんの発言とその後の供述は、確かによろしいものではありませんが、一方でこういった人間は一般に存在するんだろうな。そう思える程のリアリティを持っています。
本作は、どの立場の人間の思考であっても露悪的に描くのではなく、その人なりの思考や、その人の抱えるしがらみなどを公平に描き出しています。その一点だけでも十二分に評価に値すると思います。
クラスの四人の供述を並べるという本作の構成も、同質の人間が集まっていると錯覚しがちな学校のクラスには、実は様々な人間が集まっているという事実があり、皆が様々な葛藤や思いを抱えている。その事がよく伝わってきます。
とりわけ、多様性に関する議論が増えている現代。本作は、そんな時代における一筋の希望のようなものを提示できているのではないでしょうか。
しかし、どうしても作品の構成にモヤモヤとしてしまう点がございます。気になったのは、作品に載せられている人物が皆、先生の話から何らかの変化を得ているという点。「話を聞いて前向きに変化した生徒の話」だけでなく、「話を聞いたけど、結局何も受け止めず、何の変化も起きなかった生徒」の話も入れる……。構想段階でそういった検討をしていたか、自分は気になります。
無論、現在の構成が決して悪いという事ではございません。
むしろ、自分の案を採用する事で、現在の読後の希望感は消えてしまうでしょう。しかし、小説の可能性、ひいてはこの作品のテーゼを追求するという意味においては、これも射程に入れてもらいたい。
あくまでこれは自分の思想であり、エゴなので、全く無視していただいてもかまいません。
この作品がテーマに真摯に向き合い、それを表現に落とし込む技量が伴った作品である事には間違いはないでしょう。非常に興味深い作品をありがとうございました。
南沼:細やかなカットが様々な色に煌めくガラス細工のような、とてもとても美しい小説。
佐倉島さんご自身がX上のリプライで仰っていたように題材に目新しさはなく、また作中に凝った仕掛けがある訳でもない。
しかしそれを補って有り余る筆運びの精緻さ、テーマと物語そのものの美しさ、生き生きとしたキャラクターの意思がある。
そう、キャラクターですよ。各登場人物に強烈な印象を残した出来事を起点として各々の人生の舵を取り、どこまで進むことが出来るか分からないけれどもその途上での思いを記す。
どこまででも到達しうる可能性という「遠さ」に対するアプローチも、とても小気味が良い。
僕はこの作品を読むことが出来て良かったと心から思っています。
小説の可能性、という評価軸をもって推しづらくはありますが、それ以外は手放しで褒めちぎりたくなる一作です。
Pz:道徳や倫理の授業に使いたくなる様な良い文章でした。
内容も分かりやすく、視点を分散させる事で多面的に見られる様にもなっているのも授業に向いていますね。
私が教諭なら、これを授業時間内で読んで貰った上でレポートを提出して貰い、その後ディベート等をしてもらうかと思います。
そして、そんな教諭である処の私が考えるに、この作品には3点留意すべき箇所が有るな、と思いました。
1、時代背景の確定。
途中「LGBT」と云う表現が出て来ますが、葵先生の話が「現在」だとした場合、ここは「LGBTQ」或いは「LGBTQ+」になるかと思います。
ただ、これは各生徒が過去を振り返っているので、Q+が一般的になったここ数年(2022以降でしょうか)以前の出来事、と考えればLGBTなのも理解はできます。
授業で使う場合にはここの違いも大きく影響し、その差を説明するのも教育には大いに資するので、時代背景を確定させたい処です。
2、言葉使い
例えば、2番目の竹原の表現が、途中急に語彙が豊かで理知的になる部分があり、また4番目の河島の言葉使いは「あまり偏差値の高い高校とは言えない」学校の生徒にしては丁寧に過ぎる様にも感じます。
言葉使いでのキャラ分けは有効ですが、特に河島の場合には、言葉使いではなく立場や立ち振舞いを通じてそのキャラクター性を表してもよかったかと思います。
3、反対意見が弱い。
これは本作が倫理や道徳の授業には最適でも、文学性が若干抑えられている原因でもあります。
残念ながら世の8割は「大衆」であり、まして「あまり偏差値の高い高校とは言えない」様な場所では、旧態然とした無理解の方が圧倒的でしょう。その旧態を自明とした「大衆」からの無遠慮な反対意見も交えるとディベートとしてもより上質な物となり、また、クリティカルな反駁を幾重にも乗り越え、内省的にも錬られていく力強さが表されるとき、文学としてもより良い物へと錬えらていくでしょう。
黒石:一つの「作り話」をめぐって、四人の語り手が「当たり前」について、考えるお話。
これは、今、書かれなければならない作品だと思います。
その点だけでも、これは素晴らしい。
そのうえ、本当にとても丁寧に描かれていて、褒めることばを探すのに苦労します。
同じ場面を何度も描いているのですが、視点を変えながら、ときに新しい情報を付け加えながら進む描写は大変読みやすく、作品世界に私をひきこみます。
この作品が秀逸なのは、二話目の語り手、竹原の話でしょう。
彼はどうしようもないやつなのですが、彼の視点で語られる教室の描写は一話目の山岸の語りとは異なり、それゆえに、周囲の人間も〈共犯者〉であることがはっきりと描かれます。竹原は本当にどうしようもないやつですが、彼がそのどうしようもなさを発揮してしまったのはたまたまで、この教室には竹原と同じようなやつがたくさんいるのです。そして、このどうしようもないやつらは、別に目に見えて悪人的な行動を取るわけではない。ある意味、ごく「当たり前」の人々なのです。
「作り話」のあと、竹原がまだ心のなかにもやもやとした怒りを抱えているのがリアルです。そのあとに親との会話を通じ、また葵先生の「謝罪」のことばのあとに、少し成長しているのがとても素敵でした。
この竹原の〈共犯者〉となってしまった河島――「あの時、表立って竹原君を止めることはできませんでした」――と独白する語り手が最後を締めるのですが、この部分をしっかりと描けているのも素晴らしいと思います。
大変素晴らしい希望の物語を正面から描ききったこの作品に「遠さ」とはと問うことは、私はできません。良かったとしか言いようがないのです。
19.立談百景『ヤバき者』
辰井:ストレートにスケールの大きな作品が来た。
宇宙が舞台のSFではあるけれども、読後感としては神話や古代の叙事詩に近い。「ヤバい」という多義的な(そしてそこはかとなくバカっぽい)言葉を繰り返し繰り返し刻みつけることによって、語彙が多いとかえって実現できない雄渾な力強さを実現している。
いや、理屈が分かっていてもできないよ。すごい胆力だと思う。
そして、ヤバき者と統一之助の友情を軸にした物語は一見荒削りなよくある話に思えるものでありながら、後半に行くに従って、SF的仕掛けを伴いパワーアップしている。
薄く弱くなってしまった言葉や物語を再び力強くして神話を新たに語り直す試みだと思った。
その試みは非常に好きだ。アプローチも申し分なかった。
最後、繰り返しと静謐さを感じるラストも良い。
二人の友情物語にいつの間にかのめり込みながら、しかし冷静になると二人とも全く信用できないあたりは今っぽいバランスなのだろうか。
ヤだよ。こいつらが統べる宇宙。
そういうところは、王様がいない時代の神話なのかもしれない。
「大宇宙共栄圏」というネーミングも意図的なものなのだろう。
総じて、実はとても知的な作品なのだと思う。
ポテトマト:心を斬られた。そんな感想を抱きました。
自分が一番評価したい点は「ヤバい」というありふれた言葉の意味を再解釈し、その言葉の力を存分に生かそうとしたテーマ設計。
ヤバい。
この単語以上に、現代日本における普遍の言葉ってないのではないでしょうか。
日々を漫然と生きているだけでも、老若男女関係なく、「ヤバい」と口にする様を頻繁に目にします。
もはや現代の日本においては鮮度を失ったそれを、作品の核となる程の力を持った言葉へと作り直し、その可能性を形として見せてくれた……。この着眼点だけでも十二分に評価に値します。
そして、それを単なる奇想に終わらせず、一個の迫力ある叙事詩としてまとめ上げたその手腕。
こちらも賞賛に値するものだと思います。
例えば、昔の文豪から引用されたと思しき言い回し。単なるパロディに甘んじる事なく、むしろテキストを知っている人にとっては馴染み深く、そして格式高いリズム・雰囲気を生み出している。その上、神話的といえる情景の広大さを、「ヤバい」という単語の魔力を用いて飲み込ませる大胆な筆致。
読んでいて、様々な悦びの感情が浮かびました。
この作品は、本企画でなくても十分に評価され得る力を持っていると信じていますが、だからこそ本企画に提出してくれた事に、改めて感謝の意を表したいと思います。
素敵な作品をありがとうございました。
南沼:とにかくスケールがでかい一作。
確か第一回の講評で「一番物理距離を大きく表現した作品って印象に残るよね」みたいな話があったと思うんですが、今ちょうどそんな気持ちです。
マルチバースまで出てきちゃってるもんな。
展開は一見めちゃくちゃながら、細かいところで例を出せば光速を厳密には超えてなかったりするようなところ、かなり良識的な作りの作品。
「とにかく大きく」「強く」という概念が作中どんどん加速していって、やがてすべてを超越したときにどこへ辿り着くのかというスリルとワンダーが本作の見所のひとつ、またそこに時代がかったブロマンス要素が合わさって唯一無二の味わいを醸し出しています……なんで合わせたんですかね??
タイトル含め「ヤバい」のフレーズが何度も繰り返され、これは「強さ」「大きさ」「超越」の概念を包括しつつも時折あらぬニュアンスを含むこともありそこで噴き出すことしばし。
総じて、おちゃらける表現と真摯な作品作りの重層がとても良い作品でした。
ただ、最後の一文、パロディ(引用?)で終わらせたのは非常に勿体ないと思います。
せっかくここに至るまで、この作品はとても遠くまで、それこそ唯一無二と言える到達点まで来たので。
Pz:ヤバし。
ヤバき事甚大無辺なり。
「ヤバい」の言葉に込められし意義の甚だ多く、其の混沌なるを以て物語のグルーヴを伝え読者をドライヴし給ひし事いとヤバいと思ひはべり。其フロウをして中国武侠物が如く表し給ふはげにヤバしと感じはべらぬ。例せば『三国志』をモダナイズせし『蒼天航路』が如し。
さにあれど、膜宇宙や超紐原理に通じ、多元・多重宇宙を取り込みたまひしに、尚神話や華厳経が如く扱ひたまひし様、げに現代的にあればヤバき事至極なりと思ひ畢りはべらん。
ただ(ここから現代文に戻ります)、作品の枠を超え、世間へのヤバい影響を論ずる時、問題があるとすれば、正にヤバい2人の為に寧ろ信奉者や弱き者等との「断絶」を生じてしまう事です。そして、正にこの「断然」こそが二人(にして一人)のヤバき者共を孤独に追いやり、宇宙の中の宇宙にヤバい分断を齎しかねない事です。
だから、信奉者や弱気者共をも包括し、彼ら自身もまたヤバき者と成りえる「完全なる」宇宙へと成すべきである、と「ヤバい正義」を説いてもらいたい気持ちでヤバくなってヤバいです。
黒石:さぁ、これはどのように講評したら良いのでしょう。
冒頭三行で、まじヤバいと思ったのですが、それは間違いではありませんでした。
私は完全文系で物理、ましてや宇宙に関することなどはウィキペディアに必死に教えを請うてもまったくもって理解できなかったのですが、それでも惹き込まれるものがありました。また、どこか神話的でした。しばらく前に『三体』3部作および、その二次創作『三体X』を読んだのですが、そこで出てくるSFでありながら、どこか神話的にみえる物悲しげなところと同じようなものを感じて、読み終わったときにほうっとため息をついてしまいました。
構成としては、最初に「ヤバい」がゲシュタルト崩壊するレベルで繰り返された後に、「ヤバい」の割合が減っていきます。これも面白いなと思いました。「ヤバい」を連呼されているときに、どこか幽玄の世界に連れて行かれるような感覚になるのです。サイケデリックあるいは能楽、どのようにこの感覚をあらわしたらよいのかうまく言語化できていないのですが、大変遠くに連れて行かれました。どこまでも遠くに連れて行かれた先に待つラストの美しい描写は本当に素晴らしかったです。マジヤバイ作品ありがとうございました。
20.押田桧凪『からめて』
辰井:知らず知らずのうちに感情を振り回され続ける見事な短編だった。
「お母さんになりたい」と水族館職員として働く主人公は、タロウというタコを世話するようになるが、彼女とタロウの関係が、微妙に母と子からは離れていて、すごく居心地の悪い思いをしながら読むことになる。
タコの、あのぬめぬめした腕で絡みつき締め付けるという動き方からしてもう仕方のない部分はあるんだけど、なんだか、そこはかとなくセクシャルなものを感じる。
で、「いや、本人たちにはそんなつもりはないに違いない。そんな目で見てはいけない」と思って読み続けるんだけど、ずっと居心地が悪い。
あんなにお母さんになりたいと言っている主人公の話なのに、到底母と子の話として安心して読めない(わざとなのだと思う)。
そしてクライマックス、「リアルのお母さん」の登場によって目論見は崩壊していく。
リアルのお母さんが来ちゃったから、ある種、母になることに逃避していた主人公は、鬼松姫華という自分自身に立ち戻らざるを得ない。
そして、大混乱の中、もうおしまいだという気分でいると、〈ううん、なれたよ〉と最後に言ってもらえるという……。
この話は確かにタコじゃないと書けないなという絶妙な短編だった。
もうなんだか名人芸だなあと思う。
ポテトマト:構成が見事で、テーマに対するアプローチも素晴らしいなと、自分は強く感じました。
主人公は本当にタコと交流できていたのか?全部、主人公の妄想なんじゃないのか?そういった曖昧さを残した作品の構造が、むしろ最後まで何が起こるか分からない緊張感を生み出しているように感じました。
また、母なる海へとタロウを帰し、タロウの母になろうとする主人公の行動から、「母になる」という行為への強い執着を感じます。
これは、呪いのような名前を母から授けられて、どこか自分の母から見捨てられているように感じてきた、彼女の孤独の中で育まれたものなのでしょうか。文中にもある通り、「お嫁さんになる」とは違った意味での母親像──「自己犠牲をしてまでも、他人の願いを叶える」といった人物像でしょうか──を演じようとする主人公の必死さと、主人公の母に対する複雑にねじ曲がってしまった情念を目の当たりにし、胸がキュッとなりました。
一見すると意味の分からない”タコと母”という取り合わせも、艶めかしくもどこか恋人同士のように瑞々しいタロウとの関係性や、タロウを”母なる海”に返すといった作品のプロットを見ていると自然と繋がりが浮かびあがってくるようで、これは小説じゃないと味わえない感覚だなと思います。
素晴らしい作品をありがとうございました。
南沼:これは怖かった。
自己認識も他者からの認識も「弱者」であるのに、その実「異質なる者」であるという描写がほんのり散りばめられて、それがとても良い感じに琴線を刺激してくれる作品でした。
例えば主人公のなりたいそれは決して一般的な「お母さん」ではなく、ではそれは何なのかという描写が他者からの理解を得ようとして出力される文章では全くないように見えるんですね。
主人公は毒親だったと言い、勤務中に突然詰め寄ってくる姿は確かにその様ではあるんですが主人公が挙げる過去が今一つそれらしくない……正直に言って、どこまでが事実なのか極めて怪しい情報の羅列がバックボーンにあるものだから、胡乱も胡乱なわけです。
これがひたひたと積み重なる不気味さよ。
極めて個人的な経験則ですが、この類の胡乱さを殆ど精密と言っていいくらいに配置する作品って、もれなく名作なんですよ。
爽やかな読後感すら残しながら極めて虚ろな本作もまたその域に足を踏み入れていると感じました。
Pz:字数8888字で8月から始まる母(88?)になりたい人間とオクト(8)パスとのお話、と実にOctoに拘った作品(残念ながらOctoberは10月になってしまったが)。
本当に意思疎通ができているのか、それともただ本人がそう思い込んでいるだけなのか、そのどちらでも成立する構造が面白い。
愛されたいが与えられる愛は信用できず、自ら愛を与えようとするが、その表し方も(嘗て自分がされた様に)独り善がりなのではと疑いつつそれをしない事ができない、その内部の圧縮もよく表現されております。
個人的には、計画を実行してしまった事で生じる「結果」に対する主人公の心情もあると、物語としてもう一つ突破できたのかもな、とも思いますが、作者の主眼が抑圧と内圧の表現にあるなら、その主目的は佳く達成されていると思います。
本文とは関係無いのですが、1つ気になったのは、英語のスラング(Guess what.)の使い方や「ストレスはない?」に「ううん(No)」と返す等、どちらかと云うと英語圏的な感性が見られたのですが、作者にはそう云う背景もあるのか、と変な類推をしてしまいました。
黒石:実はこの小説がどういう作品なのかが、よくわかりません。
愛情の向け方がずれている母に育てられた娘がタコと心を通い合わせる話といっても、結局よくわかりません。
遼遠小説大賞では、この作品に限らずわからない小説が多くあります。
講評を書く身としては、わからないということがたいそう恐ろしくなり、必死に考えるのです。
この作品についても色々と考えたのですが、やはりよくわからない。
ただわからないけれど、とても心惹かれるのです。
葛藤がある、とても艶めかしいタコとの交流がある。よくわからないカタルシスがある。
不思議な感覚に包まれたまま、物語が終わる。これは主人公の描き方によるのでしょう。彼女は本当によくわからない人物で、それでも、あるいはそれゆえに魅力的でした。
主人公とタロウがどうなってしまうのかは、わからない。どこかで大きなミズダコが仲良く暮らしているという想像をしてもいいし、苦い続きを想像してもいい。
タコが擬態で周囲に合わせて変色するかのごとく、読者に合わせて読み味を変えてくるような作品ではないでしょうか。
そういうわけで、この作品について、別の評議員がどのような講評を出してくるのか、今から楽しみにしています。
21.外清内ダク『Stayin' Alive in the Void』
辰井:作者の外清内ダクさんが「エンタメにはしなかった」と繰り返し呟いている作品。
ダクさん、大事なこと言うけど、これ、思いっ切りエンタメだと思うよ。
「○○の要素がなきゃエンタメじゃない」とか「エンタメ」というものをわざわざ狭く取って、不自由な思いをすることはないと思う。
あと、エンタメからエンタメ性を取り払って地味にしたところで「純文学」にはならないのではないか。そういう足し算引き算ではないと私は思う。念のため。
さて、とても熱い作品だった。
表面的には硬派な雰囲気を感じさせるカッコイイ文章と設定が良い。
ちょっとどうかと思うようなコッテコテのブロマンスで創作者のドラマが展開されていく。
途中、作中作として作者の作品がリンク付き(!)で引かれていくのには驚いてしまった。
しかも、その作品が相棒によってべた褒めされる(!)のだ。
ただ、そこにナルシスティックな自意識や、宣伝の意図はあまり感じず、むしろ「総力戦」をするのに過去作まで引っ張り出しているような、作中の相棒にべた褒めされることによって己を鼓舞しているようなそんな印象を受けて熱かった。
主人公のフォージは相棒のタタラに特別扱いをされるある種の特権性を持っているわけだけれども、まあ、そこはご愛嬌。
しかし、「俺が書くしかねェんだろうが!!」に辿り着く「そう。であればこそ。」の説明のなさは気になった。
これでは、「そう。であればこそ。」とほとんど説明なしで思える脳みその持ち主しか、フォージの重要な決意に乗れない。
ちなみに私はその脳みそは持っていない。
エンタメ作品としては、ここは痛いと思った。
さて、フォージは決死の覚悟で自作をアーカイブしに行こうとして、そこに無数の先人たちの姿を見る、その「ああ、俺みたいなやつって無数にいるんだ」感はとても気持ちいい展開だった。
小説というカルチャーへの深い愛情を感じる展開で名シーンだと思う。
終盤を読みながら「もう一工夫ほしいな」と思っていたら、この作品に至るリンクを見つけて、大満足した。
至れり尽くせりの作品だった。
ポテトマト:他の講評員の皆様が作者様のツイートを踏まえ、「本作がエンターテイメントか否か」について触れている為、この点について敢えて自分も触れさせていただきます。
個人的には、本作を「エンターテイメント」と形容するのに対し、良い意味で抵抗感を覚えます。
作者様の半身たる作品の数々を賭けて、ご自身の創作への思い、自意識を強烈に訴える本作を、エンターテイメント(=人々の気分を晴らす"娯楽")とは形容しづらいな、と感じているからです。
しかし一方で、良きエンターテイメントの法則に沿った、綺麗な語り方をしている事もまた事実で、だからこそ本作が訴えかけたい事を、単なる意味の分からない叫び声ではなく、「創作について語る創作」として理解することが出来ます。
もっとも、これは作者様にとっては呪いのような誉め言葉かもしれませんが。
これは根本的に小説の骨組みを作る姿勢、とりわけ人に読みやすい形に整える姿勢が優れているから出来る技だと思います。
敢えて例えを用いるなら、1970年代の原初のパンクロックのような、アナーキズムに近い作品かなと捉えました。
大掛かりな技巧こそ凝らしていないものの、その語り口は真っ直ぐで、だからこそアーカイブに先人の作品がねじ込まれている様を見て笑う主人公(ひいては作者様)の姿に強く共感したのだと思います。
この解釈が作者様の意向に沿ったものかは分かりませんが、しかと作品を受け止めさせて頂きました。
南沼:筆者ご本人はエンタメとして書いたつもりはないと頑なに仰っていますが、これ完全にエンタメですよね。
しかもド級に面白い。
そしてまた、類を見ないものであることも間違いないように思います。
強烈な自意識に翻弄されながら自作として「外清内ダク」の作品を並べ立てる(しかも作品リンクまで添えて!)狂言回しであるところのフォージはそのまま筆者の現身そのものなわけで、そうしてみると文化アーカイヴの隙間という隙間に自作を突っ込んだ無数の命知らずは他ならぬ我々自身で、それだけじゃなくてフォージもタタラもみんな揃って「我々」に内包される。
読みながら作中のある種目を覆いたくなるような自意識に正直むず痒くはあったんですが、終盤まで読んで「これはお前らの事でもある」と殴られたような錯覚を覚えました。
おまえらもここに、この物語に入れてやるよというでかい風呂敷を構えた、強力な巻き込み型の作品、ファンタスティックな読書体験でした。
Pz:「創作するとは如何なるや」に挑戦したブロマンスでした。作中作を作中作としてではなく、他の自作のリンクを貼る事で示すのはネットならでわの試みでしょう。
ただ、話自体は共感できるのですが、「SF」として見た時に幾つか気になる点が有りましたので、以下ではそこを中心に述べます。
先ず、抑の設定である世代間宇宙移民団の運ぶのもが何故「文化」なのかと、「正義会」の教義や成立の背景が不明なので、主人公側の「創作したい」「それが人間の本性である」と云う主張も弱くなってしまっています。
結局人類が後世に遺そうとしたのは「文化」であった、と云うのは、実際の史跡でも残っているのは「絵画」であったり、創作物でも例えば漫画版『ナウシカ』にも出て来ますが、前者は歴史の流れの中で残ったのがそれだけだった(その為に考古学者が今苦労している訳ですが)、後者は「慌てふためいて価値ある物はそれ位しか見繕えなかった」と云う形ですが、本作中では「正義会」が出る程文化に関心のある筈のソーアなのにその背景が明確でないのは不自然に感じます。
作中人物達にとって自明の事は敢えて語らない、と云うのは「スターウォーズ」や「ガンダム」でも見られるクールな表現ですが、逆に頻繁に定期集会が行われる世界ならば、例え自明でもそこを語るのが(例えば日本企業の朝礼スローガン暗唱等)そう言った団体のリアリティですので、そこで語らせる余地はある筈です。
また、「汝創るなかれ」ならば、例えば『1984』、『451°F』(とその翻案映画の「リベリオン」)では「人類の為」にその口実が騙られ、或いは『V for Vendetta』や中華人民共和国、日本帝国特別高等警察やドイツ第三帝国ゲシュタポ・SDでは「支配者に不都合な創作は禁止」、とディストピア物にはディストピアが成立する背景が語られますが、本作ではその「ディストピアのテーゼ」の足場が不明類な為に主人公のアンチテーゼやその足場も不明瞭になってしまっています。
次に、SFガジェットがただのハリボテ的になっているのが気になりました。
例えば、最初に主人公が船外活動をする際「原始的なスケッチブックとペン」を出しますが、ペンは(万年筆であれボールペンであれ)無重力空間ではインクを押し出す為に加圧する必要がありますが、より原始的な鉛筆はその必要がなく、あの場面では鉛筆かシャーペンを出した方が読者を楽しませるでしょう(実際、宇宙開発ジョークの中にも米ソの比較でこの手のがあります)。
この「紙とペン」以外にも同様の気遣いがあると、世界の手応えがグッと上がり、主人公達の創作衝動もより質量を持った物になると思います。
3点目ですが、作中作のリンクは脚注的に最後に纏めるか、作中作リンク専用の章を別に作っても良かったかも知れません。
これは私の問題でもあるのですが、文章の間に異なる流れの物が入ると、そこに気を取られて本文のリズムやグルーブを失してしまう事があるのです。
折角文章表現を主題に扱った作品なら、こう云うノイズが少ない方が主題と制作方式がより一致すると思います。
最後に、これは個人的な注文なのですが、折角「Bone to be Wild」を出したのでしたら、歌詞に「Explode into space」が有るのですから、宇宙に向かって爆発する創作も見て見たかったです。
黒石:文化播種船という設定が秀逸です。無茶苦茶に格好良い。
そこで繰り広げられる話は、創作者の多くに刺さるのではないでしょうか。
私も刺さりました。
「ぜんぜんオリジナルなんかじゃない」、それでも「俺が書くしかねェんだろうが!!」
という3話目での主人公のことばはとても熱いし、そのあと、出てくるキャッチの回収も無茶苦茶に格好良い。
また、書き始めた後の句読点をすべて取っ払ったつんのめるような文章もとても素敵です。
それに話の繰り広げられ方や、オチの部分も本当に秀逸です。
ハイパーリンクと過去作を用いる試みも、ハイパーリンクで最終的にこの作品の表紙に戻る仕掛けもWeb小説であることを活かした面白いものでした。
単純にすべてが面白いし、エンターテイメント作品として秀逸でした。
私自身が創作を嗜むものであることを差し引いてなお、面白いと思います。
作品としては文句のつけようがないものですが、作者のTwitterにおける自作(=この作品)についての言説は正直なところ、肯定的に受け止めることができませんでした。
自作に対するアンビバレンツな感情というのは、わからないわけではありません。ただ、それを出されすぎると、しんどくなります。
面白くなくなるようにつくった、99人に刺さらなくても良い。このようなことばを出す意味は作者にはあるのかもしれませんし、私がとめることはできません。ただ、しんどいです。
22.毛盗『川のある土地』
辰井:読み終わって溜息が出るほど美しい小説だ。
もちろん、内容も美しいけれど、微かにあるかなきかの繋がりがある二つの筋を持つ小説を書くのに、これ以上理想的な形式はちょっと思いつかない。
他に書くところがなさそうだから、ここに書くけれど、今回の遼遠小説大賞のレギュレーションを決める時に、純粋なテキスト以外の表現をどのくらい受け入れるか、5人で結構相談した。
「小説」の表現の仕方は多様で、最初は、動画が来てもいいんじゃないかという話をしていたほどだ。
それで、相談して相談して、今の形になったのだが、その調整が報われた思いがした。
そのあたりの形式をある程度緩やかにしておいて本当によかったと思う。
さて、本編。もうまず見た目が美しい。
グレー主体の背景に、白と黒の文字。
時折二つの筋が物理的に交わるところが、水で滲んだような灰色になっている。
そして前半部分では浮かび上がってくる金魚。
涼やかで、どこかノスタルジックな印象がする。
これが、例えば背景色が水色だったら、全然違う印象になっていたと思う。
このどこか不穏で物寂しい感じは出なかったに違いない。
この色でなくてはならない。
どちらから読むか、必ずしも強い取り決めのない配置だ。
最初は数瞬目を泳がせて、黒、白、黒……と上から順に読み始めた。
二度目は黒をずっと読んで、白をずっと読む順番で。
二度目の読み方の方が読みやすさは勝っていたけれど、どちらかというと一度目の読み方を支持したい。
黒と白、それぞれの文章の配置、上下の間隔にも非常に気を遣っているし、交互に読むことで、この川のある土地で描かれる二つの物語のそこはかとない繋がりも見えてくるので。
私がそれを特に感じたのは、黒の2つ目と白の2つ目の文章でだった。
親戚に「爆弾」と呼ばれる叔父と、龍ほどにも大きくなって家を壊してしまうのではないかと思われる金魚。
私はこの二つの話、両方ともごく身近にいる「爆弾」的な存在との葛藤なり関係なりを描いているのだと思う。
黒の話では、「爆弾」である叔父にかすかに惹かれながらも、母の意図とそれに対する自身の適応によって、いつの間にか一定のライン(叔父の背丈)より大きくなって、「まさ坊」と呼ばれていたことに象徴される、子どもとしての叔父との関係は終了する。
白の話では、破壊者なのではないかという妄想が止まらない金魚を最終的に土に埋めるが、本当は自分自身を埋めてしまったのではないかと考え、小さな生き物の中に、金魚或いは自分自身の面影を見るようになる。
どちらも、子ども時代に、身近な「爆弾」的存在とまともな関係を取り結び損ねる話だ。
しかし、まともとはなんだ? とも思う。
そりゃあ、叔父ともっと深い関係になればよかったかもしれないし、金魚は埋めなかったらよかったかもしれない。
でも、そうじゃなかった。そして、そうじゃない、この喪失が付き纏う感じがとても人生らしいとも思う。
形式も内容も素晴らしい作品だった。
ポテトマト:まさに、川の流れを眺めるような質感の作品でした。
弘樹と叔父さんの二軸のストーリーは交わるようで、別に交わらずとも単体のストーリーとしても十分に伝わってくるような、そんな淡い繋がりを持っています。この二つのストーリーの流れ同士の遠さというか、繋がりそうで繋がらない弘樹と叔父さんの関係性を遠くから眺めるような感覚が、まさしく川の流れをぼーっと見つめている時のようだと私は感じたのです。
弘樹と叔父さんが生きる異なる時の流れが、まるで糸のように緩やかに絡み合い、一本の作品として静かに共に流れてゆく。
美しい。
コンセプトそのものがまず秀逸で、そこに小説の技法であったり、空間詩の技法であったり。様々な技法が絡み合い、一個の完成度の高い作品として成立しています。
今回の開催にあたり、「絵などの投稿もOKにしないか?」と言い出したのは自分なのですが、その思いが報われるような心地がしました。
心より、感謝を申し上げます。
南沼:文字色、視点、イラスト、縦書き横書きのアプローチが対比をなして交錯しながらも詫び寂びめいた域に達していますね。
「喪失」が大きな主軸であることも加わって、しみじみとした読後感がある。
決して奇をてらっている訳ではなく、「この表現でなければ提供できない」んですよね。
作品としてとても強い。無粋を承知で言えば情報の配置が巧みだとでも言えばいいのでしょうか。
平易ながら想像や解釈の余地が多分に残る物語や画色がグレースケールなのもあってこそなのでしょう。
私自身カクヨムオンリーユーザーなのでこういった作品は対する消化酵素とでもいうべきものがあるのかと身構えはしたものの、それが幸いにも杞憂に終わる、丁寧な作りの作品でした。
私は黒(通し)→白(通し)の順で読んだ後黒白交互に読みまして、しかし例えば別の順で読めばまた違った味わいがあったのかもしれないと推察します。
初読体験が一度きりである以上、それは詮無くも魅力的な妄想ではあるのですが。
そういった意味でも「小説の可能性」を貪欲に追及した作品と思います。
Pz:願わくは花の下。にて
春の頃、黒と白とは生と死しか。
社会に馴染めた者と社会に馴染めない者、弘樹とまさ坊のお話。
金魚に成れない者と金魚になり得る者が交じり花の下で邂逅するお話。
本作を語るには以上で充分ですが、ここから先は野暮天にも言葉を重ねます。
白い抒情詩と黒い叙事詩が揺れ動き、近付き離れ、交差し、追い越していく様が文章でも視覚表現の上でも出ているのが良いです。
『ロミオとジュリエット』の絵本で、登場人物達にそれぞれ色を振り、その色の線の動きとセリフだけで表現している物がありますが、ここではその線すら不要にしたのが良いです。
個人的には、プラットフォームすらも横断した今回のコンテストでは、こう云う視覚表現と文章表現が掛け合わされた作品を待っておりました。
ただ、1つ気になる点を挙げるとすると、作品の雰囲気と時代背景の辻褄が合わない事です。
登場人物の名前から本作の舞台は日本なのは想像できますが、だとすると作品全体の雰囲気や「東京の大学で爆弾の研究」等学部と研究の一体感から感じられる「戦前・戦中感」と、弘樹の進学形態の「戦後感」が合わないのです。一応、戦後以前も「中学→高校→大学→就職」の形はありますが、旧制高校は大学(特には旧帝大)の予科、欧米で云うカレッジに該当する感覚があり、「高校3年で受験を控える」と云うのが今程一般的ではない、と云うか寧ろ旧制高校の生徒でも東京帝大を目指している生徒等特殊な状態にありました。
他方、そもそも全体が戦後以降のお話だとすると「大学で爆弾の研究」は、仮令叔父さんや周囲の誇張だとしても余り現実的ではありません。
勿論、古い雰囲気を纏った最近の話、と読むことも可能ですが、文章やその配置も含めて全体が良いだけに、却ってそこが気になってしまった印象があります。
ただ、上記の事は現代日本では余り一般的ではない事を知っている(大学で教育関係の単位を取った)者の感想であり、作品自体は非常に高いレベルで纏っておりますので、今後も制作を頑張って頂きたいと思います。
黒石:視覚に訴えてくる作品だというのは一目瞭然で、言わずもがなの事柄ですが、触れずに進むこともできません。
縦書き(弘樹)と横書き(叔父さん)の両視点は、かすかにしか交わりません。
親戚の集まりでたまに会うだけであるし、大学院まで出て無為に過ごす叔父さんは親族内でも白い目で見られており、弘樹の母、すなわち叔父さんの実姉も息子を会わせたくないと考えるようになったからです。
それこそ、縦書きと横書きの文字の一部が重なるようなかすかなつながりしかありません。それを文字の交差と金魚の挿絵を用いて、重ならせていくのは、私では考えもつきません。
そもそも、普通の小説のフォーマットで書くと、下手すると蛇足になりかねそうな弘樹の視点なのに、ここではそれがなくてはならない。すごいものを読んだなと思いました。
弘樹の視点なしでも成立するということは、横書きの話だけでも十分に小説として成立するということでもあります。横書き部分のどこかとらえどころのない幻想的な書き方は、フォーマット関係なく魅力的でもありました。
私では知り得なかった遠いところまで連れていってくれる素晴らしい作品でした。
23.尾八原ジュージ『迷子のなり方』
辰井:遼遠小説大賞ということで、遠くをじっと見ている人や、遠くにめがけて歩いて行っている人が大勢いる中で、すでに遠くで迷子になっている人の話。
迷子になる場所としての「遠く」というのがフレッシュで、既にプロになっているジュージさんならではだなと思った。
そうだ。なんか真直ぐ見据えてどんどん歩いて行くんじゃなくても、迷子になってもいい。
というか、迷子にこそなる場所かもしれない、遠くって。
迷子になることなんか望んでいないのかもしれないけれど。
さて、私はこの話、割とほんわかとした話として読んだ。
小さくなることの説明のなさと、それでもなおすんなりと進んでいく話がとても上品だと思った。
この上品さは真似しようと思ってできるものではない。そして、なんだかんだ元のサイズに戻り、見失った家を探して、遠く、遠くへ行くうちに迷子になるけれども、ドールハウスは自分が元のサイズに戻った時に全壊してしまったから、手掛かりなんか、ない。
そういう意味で、永遠に楽園を失う話でもあるのだと思う。
その絶望的な、しかし読み味としてはあくまで茫洋とした感じが魅力の作品だと思った。
ポテトマト:素朴でいて、どこかぼんやりとした語り方が肝の小説なのかなと感じました。
冷静に考えると違和感しかない展開の連続なのに、文体が程よく脱力しているからか、最後までアッサリと読み進める事ができたのです。
この脱力感。なかなか真似出来るものではありません。
通常、不条理・怪奇ものとなると、いかに文体に緊張感が迸るかを求めがちです。(少なくとも、自分はこういう方向性で作品を制作しますし、そういった作品を好ましく感じています。)しかし、この作品は真逆の試みをしているのにも関わらず、しっかりと不条理な情景へと連れて行ってくれる。まるで不可解な言動をしている筈なのに、主人公の事を何となく理解できてしまうような。非現実的な情景の冷たさを感じながらも、日常のような暖かみを感じてしまうような。そんなアンビバレントな体験は、とても心地が良かったです。素敵な作品をありがとうございました。
南沼:読み始めてすぐに「あこれ信用できない語り手だ」と気付き、するっと読み終えて最後の一文以外は何も確かなものがないじゃんとは思ったものの、少し経ってから「いやじゃあ最後の一文も信用できないよね」とちょっと寒気を感じました。
恐ろしく虚ろな読み味の作品。
作品として減点すべき箇所は見当たらず、よってこのたった3600字でどこまでもふらふらと彷徨えていけるような、殆ど酩酊感すら味わえる掌編を皆こぞって読むべきであると私は強く推す次第です。
遠くというならば、これほど遠くに連れてってくれる作品はそうそうないので。
病弱な少女の所持するドールハウスに肉体的な欲求を失った状態で飼われるという目の眩むようなフェティッシュさもまた魅力。
ただ一点、質感を欠く文章表現だからこそ味わえる雰囲気もあると承知はしていますが、そこはもう一歩飛躍して食らいついて欲しかったという思いは正直あります。
Pz:カフカの『変身』の様でありながら暴力的な迄の不条理さはなく、寧ろ全体的に理性的で整っいるのが印象的です。
裏テーマの「遠く」も、状況としての理解の遠さと、道一本隔てただけの建物がしかし情報とシステムの分断によって「隔絶する程遠くなる」事も示され、その辺りはSNS的な繋がりと断絶も感じられ、現代的でもあるな、と思いました。
問題としては、お話としても良くできており、読み込もうと思えば読む人にとって幾らでも深くできるお話な為に、却って講評で書く事が無い、と云う事でしょうか。
実に困っております。
黒石:遠さというテーマに対して、搦め手ではなく、真っ向勝負でいどんできた作品だと思いました。
一行目からすごいと思いました。
主人公が小さくなる話というのは、よくあるものですが、淡々とした文体で話が続けられていくのはとても良いものでした。
尾八原さんというと、ホラーのイメージがどうしても真っ先に浮かんでしまうのですが、作品ごとに作風が異なっていて、どれも素敵です。
途中で、知らない本の物語を語る部分、もったいないと思うくらいに面白かったです。
〈アドルフ〉、作中作にとどめておくのがもったいないくらいで、ぜひとも読んでみたいと思います。犬の背の毛並みの中にできる街なんて、とても素敵です。いつの日か、〈アドルフ〉、書いてください。楽しみにしています。
この作品の冒頭にせよ、〈アドルフ〉にせよ、様々な物語の世界を彷徨う旅人なのだろうなと思って、「迷子のなり方」というタイトルを勝手に腑に落としてしまいました。
この彷徨う旅人という印象は、その後を読んでいるときもずっと感じられるものでした。
『アドルフ』をもって、元の場所に戻ろうとしても、戻れない、そしてまた知らない町に足を踏み入れていく。
幻想的で奇妙な夢のようにふわふわとしつかみどろこがなく、それでいてとても心地よい読み心地は、私をとても遠くまでいざなってくれました。
24.宮塚恵一『マキニス・モエキア』
辰井:私は遼遠小説大賞で、しっかりとした構成の作品に異議を唱えることが割と多かった。
その自分の構成を超えてからが本番なんじゃないかと思うからだ(短編というドライブする距離が短い小説でそういうことを言うのは若干無理難題なのだが)。
しかし、本作くらい堅固に突き詰めて構成が作られていると、もう素直に感嘆してしまって、きちんと考えて構成を作るのも挑戦なのだと理解させられてしまう。
そういう意味で、貴重な一作だった。
(という講評を書いた当日に、作者に「ほぼプロットは作ってない」と聞いてしまった。なんてこった)
第一回遼遠小説大賞の時からもそうだったが、安定感では宮塚さんがトップだと思う。
さて、ユートピアめいたディストピア(に我々には見える)社会の話だ。
人工知能によって、ある意味では効率的な、快楽を手軽に得られる、「安定した」社会になっているが、反面、人間の尊厳はどんどん奪われていっているように見える。
言うまでもなく、今の社会もこれに片足突っ込んでいるというか、多分片足どころではないので、緊張感を覚えながら読んだ。
マキニス・モエキアにせよ、まだ今のところはSFの世界の産物だけれども、それを享楽する手触りには現実の既視感があるのだ。
自傷行為にも似た快楽の過剰摂取で、脳を溶かしてリアルに耐えている感じが。
その、日々暮らしながらそっと目を背けたくなる現代人の生態をちゃんと娯楽作品として書けているところもすごいなと思った。
細かいところだが、それぞれの人工知能が役割ごとに与えられている名前もいい。
「神託」のデルフォイ、「保護者」のパトロヌスは非常に皮肉が効いているし、ギリギリありそうなのが嫌なところ。
元カノの人物造形もよかった。
「ああ、いるよなあ……というか思い当たるなあ」という、意思のある、物事をある程度はちゃんと考えた、ある方向からは魅力的にも見える人物だが、それは融通のきかなさの裏返しでもあり、それゆえにどんどん社会の裏通りの方に行ってしまう感じで、「じゃあ、彼女はどうすればよかったんだ?」と思いながら読んでしまった。
しかし、まあ、そこが社会なんだろうと思わせるリアルさがある。
元カノを含め、救いのない展開が続き、自分の意思による人間の生きる力すらも、人工知能に値付けされる駄目押しは屈折したカタルシスすらあった。
だから、とことん救いのない話を書いているのに、ちゃんとエンタメとして面白い。
一番最後の最後。読み飛ばし推奨として「おまけ」がついているけれども、そこは「安易に共感してくるんじゃねえぞ」というかましとして読んだ。
だとしたら、相変わらずのバランス感覚というか、品が良い。
全体として非常に完成度が高い作品だと思う。
ポテトマト:この作品において自分が一番評価をしたいのは、終盤の歌のシーンです。
そのシーンの中に、音に関する描写は一切ありません。ただ、世界に対する呪詛のような歌詞が並んでいるだけ。それなのに、確かにこれは歌であると、魂からの叫びなのであると。そう感じてしまう自分がいました。
これは本当にすごい事で、主人公の"稚拙だが胸を打たれる音楽"という評価に非常にマッチしています。
人間としての尊厳を次々と奪われてゆく、救いのない話の中にあるからこそ、この歌に込められた熱量が目に焼き付きますし、この感動すらも最終的には世界の内側に絡め取られてしまう展開に、自分が深くのめり込んでしまったのだと思っています。
素敵な作品をありがとうございました。
南沼:『尊厳などない』。
この一文にすべてが集約されたようなエロティックで退廃的な世界と、一貫した主人公の反骨精神が痛快なSF短編でした。
AIが基本的人権に直結するようなインフラであり管理者である世界観で人間の自由意志を問う。
人間の自由意志の有無を問う作品はSFでなくとも多く見られますが、こと本作の舞台を鑑みれば「無し」寄りの結論が優勢になりそうですね。
主人公がAIの管理で尊厳を獲得しようとあがいた結果がお釈迦様の掌の上だった、という結末からもそれは伺えます。
終盤に出てくるアーティストの歌詞なんかもそうで、なんというかこれはあくまで「嘆き」であって、本当に破壊を煽動するものではないように思えるんですよね。
すべてから逃げようと思えば、それこそ作中の登場人物の一人のように自死を選ぶしかない。
だからこそ、一番最後のページに記された突然変異体、これが人間のもつ動物としての最後の牙だと、そのように捉えました。
遼遠小説としての奥行が、ここで一気に膨らんだと解釈します。
ただ、まともに使えるのは一回こっきりの「飛び道具」としてですが。
Pz: キュクロプスがウーティスから名前を得るが、それは新たな野蛮かも知れない話。ユートピア。
そもそも「尊厳」とは何か?
慥に我々はロートパゴスやキルケーの豚に「尊厳」を見出す事は難しく、また、仮令神託や定められし運命から逃れられず、見窄らしくとも、踵の腱を射抜かれた英雄や、その英雄に死体を引き摺り回された英雄、或いは裏切られ、鞭打たれ、磔にされたナザレの男等、自らの意思を以てそこに進む者に「尊厳」を見出す事は多いでしょう。
或いは自らの信念の為に毒ニンジンを呷った市民や、或いは神の美しい宇宙の為に火炙りにされる修道士にも「尊厳」を見出すでしょう。
しかし、他方で「人並み」である事も「自尊心」に於ける「尊厳」を確認するには重要な事であり、これはリスザル程度の社会性を持った動物でも持つ自然な感情です。特に古代ローマでは「人並み程度の事ができなくなったら自死する」事が恰も美談であるが如く「尊厳」を認められ、或いは侍は死ぬ事に「尊厳」を見つける事もあります。
こう云った諸々の事を考える良い作品です。
ただ、個人的には、ここ迄人工知能に代替可能性が進んだ世界で、相変わらず資本主義的な社会参加が行われている事にやや不可解な物を感じた(神託を下す神ならば、社会全体の創作もしているでしょう)のと、「パトロヌス」が出てくるのに「奴隷」の衣食を揃えるベーシックインカムが一般的でないのに若干の違和感覚えました(「解放奴隷」にはそれらを揃える必要がない、と云う考え方もできますが)。
また、各話の章題ノルド語系な理由を今も考えております。
章題がノルド語系なら「デルフォイ」を「ミーミル」にしたり、情報収集を「フギン/ヨギン」にしたりしても良い気がして来るのですが、他方、それらを作ったのがキュクロプスと考えると、逆ティタノマキア、つまりラグナロクの前兆とも捉えられ、ゲルマン大移動がギリシア・ローマ文明の崩壊を齎した歴史とも符号はするな、等ツラツラと徒に考えてしまいます。
最後に蛇足ですが、「イマジニスト」は「イマジニア」の捩りでしょうか?
黒石:まず言いたいのは、最高に格好良いということです。
こういうSF、本当にかっこいい。
あとは読みやすい。これはどこまでも丁寧に書かれているからでしょう。
私はSFが好きなのですが、ハードすぎるのは、どうしても疲れて読みにくくなってしまうというダメSF愛好者です。
そのような私でもすっと読めるのは、適度に現在の事象を援用しながら読めるように配慮されているからです。
情報集積のはなしはAIやビッグデータといったもので論じられてきたことを彷彿とさせ、それゆえ、私はこれらの話を下敷きにして物語の世界にするりと入っていくことができました。
人工知能のルビの振り方についても、ギリシャ神話やラテン語を架け橋にして格好良さとわかりやすさを出しています。
ハルピュイアやデルファイ(デルポイ)みたいなわかりやすいものばかりではないのですが、それでもなんとなくつかめるように設計されています。
そして、元ネタ的なものがわかるとさらにニヤッとできる全方位に向けて親切なところがすごいです。
そういえば、マキモエとか略されると萌えということばを私は連想してしまうのですが、姦婦なんて意味があるのですね(羅和辞典引きました)。私はゲルマン系の言語はさっぱりなので、各章のタイトルは機械翻訳に頼ったのですが、機械翻訳をすると各章のテーマがわかりやすくなり、そのままにしておいても格好いいので、やはり全方位に向けて親切です。
お話としては、本当に楽しんだのですが、今、ここでこれが書かれたことについては、少しわからないところもありました。
この作品はユートピアライクなディストピア、いきつくところまでいった究極の管理社会を描いているのですが、これは現在の私が住んでいる世界から見るとエデンの園のように見えてしまうのです。
監視社会で生活のために労働をし、安価な娯楽や無料の娯楽に埋もれて刹那的な快楽を得ている、生ぬるい快楽の中で苦しみながら飼いならされている者から見ると、ここで描かれている世界はどこか素晴らしく見えてしまうのです。
どうせ今でも管理され、生ぬるい快楽に囲まれ暇を潰している。ならば、徹底的に管理され、今よりも安楽に暮らしたいと思ってしまうのです。
私たちがつつまれている安い快楽に満ちた現在の世界はこの小説の世界を読み解くときの重要な架け橋となり、可読性をあげてくれているのですが、それでも、いや、だからこそ、この世界の描き方が気になってしまうところがあります。
少し自分語りめいていますが、発展途上国でほんの少しの間過ごしたことがあります。そこで外国の連続ドラマを見ていた時、ドラマの世界では貧乏とされている主人公の生活を、現地の子どもが豊かな暮らしへの憧れとともに語るという場面に出くわしたことがあります。
私はこの物語に没入しながら、先の子どものような感覚になっているのかもしれません
ただ、それでも熱いし、その熱さの末にたどり着いたダークなオチはとても素敵でした。本当に素晴らしかったです。
おまけのところについては、この設定を足された意図はわかりませんでした(でも、面白かったです)。
25.Pz5『蓮華泥中在水』
辰井:「俺のために書かれた小説だ!」と思う。分からんところは分からんけれど。
そして、ちゃんと読めば今の世の中でそう感じる人は結構多いのではないだろうか。
六道輪廻して「真理」に到達し、「ここで咲こう」と思う蓮華のお花の話。
最初、いきなり不平たらたらである。
「こんな場所で咲いて意味なんかあるんかいな」と色々理屈を並べては、「咲く意味なんかないんじゃない」と思う。
ここで私なんかは激しく共感してしまう。
そうだよ、こんな世界生きる意味なんかないよ、と。
そして、「華が咲く」=「小説を書く」に自動変換してしまう脳みそを持っているので、そうだよ、こんな世界で小説を書く意味なんてないよ、とも同時に思う。
すると、蓮華は六道を輪廻していく。
このあたり、都度都度「今地獄道にいます」とか「餓鬼道にいます」とか言ってくれないのでちょっと分かりにくい。
プロット見てなかったら分からなかったかも。
で、割とどこでもうまくいかない(そりゃそうだ)。
天道では気持ちよさそうにしているけれども、それもすぐ終わる。
だから、またはたと考え込まざるをえなくなる。
そして、考えて、考えて、その末に「こんな場所で咲いて意味なんかあるんかいな」と当初考えていた理屈がほとんどそのまま反転して、いや、だからこそ、自分はここで咲くのだと決意する。
だから、読んでいる私も「そうだそうだ!」と深く頷く。こんな場所だからこそ、生きるのだし、小説も書くのだと。
力強い回答。評議員の最終作、フィナーレに相応しい作品だと思った。
さて、余談。漢文訓読体を至高とみなし、日本人は全員漢文訓読体で喋ればいいのにと常々思っている私は、本作を読んで、最初は目が滑って仕方がなかった。
通常の文法規則には則ってないので。
二回目読んだときはあまり気にならず、するする読めたが。
文体についてはどっちが良いのかちょっと判断がつかないなというのが正直なところだ。
今の文体もちょっと滑っていく感じが軽さを含んでいて良いけれども。
漢文訓読体のセレクト自体はとても良いと思う。
そりゃ、現代関西弁とかで書いてくれた方がよっぽど分かりやすいのだが、「解読する必要がある」ことの価値もまた確かにあるので。
蓮華の長い懊悩を見つめていくのに適したかたちだったと思う。
ポテトマト:れっきとした古文の文体なのに、しっかりと令和の世に作る意義のある作品に仕上がっていた。読んでいて、不思議とそう感じました。
繰り返される「こんなしょうもない世の中(意訳)で花を咲かせる意義なんて無いんじゃないか?」という自問は、まさに自分も似たような悩みを抱えていた時期があった事もあり、共感しながら読むことができました。そんな主人公(そう呼ぶべきかは悩みますが、便宜上そう呼ばせていただきます)が「むしろ、こんな世の中だからこそ、咲く意味があるんじゃん!」と悟り、前向きな覚悟を決める様には確かな熱量があり、読んでいて気持ちが熱くなりました。
自分は仏教に関する知識は触り程度しかなく、一部意味が分からない用語などもありましたが、それでも現代風にアレンジされた古文体は読みやすく、冒頭の絵画も手伝って格式高い雰囲気を十分に味わう事が出来ました。
ただ、敢えて苦言を述べさせて頂くとするなら、伝えたいテーマに対して、この文体や舞台設計である必要があったのかどうか。その点に関して若干の疑問を抱いてしまいます。表現されたテーマそのものは普遍的なものであり、この舞台設計・主人公でなくても伝えられるものであると自分は考えています。それゆえ、敢えて古文体という現代語から離れた文体を選んだ理由とは何なのか、自分としてはどうしても気になります。
とはいえ、香り高い古文体の雰囲気に、心が躍ったのもまた事実。素敵な作品をありがとうございました。
南沼:プロットという名の毛筆画?を含めて完成するという、本大賞投稿作における唯一無二の境地にいる作品。
確かにこのプロットであれば、この古語スタイルの記述でなければならないでしょうね。
ただ投稿サイトのプラットフォーム故に横書きだったり、一部あえてルールを無視しているところもあります。
これは読みやすさやリズムを重視しているのだと思いますが。
(リズムといえば、古語の最も優れた部分のひとつは詩歌としての韻で、これもこの作品には随所にみられますね)
また、作品内容については、これは社会的弱者の話で良いのかな?
自身を取り巻く環境を正確に認知できず、ただ自身が攻撃されているようにしか捉られず他者を恵まれた者として妬むことしか出来ない弱者が、思考(思想)のステージを上げ安寧と充足を得る。
ステージを駆け上がるところが余りに急に感じますが、宗教が魂の救済を至上の命題とする以上、仏教色を色濃く反映する本作においてはそれがむしろ自然なのかもしれないな、という感想です。
個人的には「敢えて読み辛くしてみました」という作品に対しては否定的な立ち位置なのですが、「これが自分の考える最も美しいものだ」という芯の通った姿勢と緊張感がそれを上回る、美学を伴った拘りが気持ちの良い作品でした。
Pz:我不能語於此作。所以者何我顕之。
黒石:漢文訓読体に近いものではありますが、クエスチョンマークがあったり、一部文語文法を外しているところがある作品です。
現代人の多くにとっては、かなり読みづらい文体をあえて用いているゆえに、飛ばし読みを許さずに迫ってくるものがあります。
内容的には経典の注釈書めいたところもあり、実際、プロットにある「如蓮華在水」は法華経のことばであり、宗教色の強い作品に一見みえます。
ただ、読んでいくと、なんとも身につまされる話からはじまっていき、最終的にはとても清々しい気持ちになる素晴らしいものでした。これを含めて宗教なのだと言われると、困ってしまうのですが、読了したときに私はこの作品に宗教色を感じなくなっていました。
この清々しさの原因は、前半部の苦しみと後半の強さにあるのではないかと思います。
信仰を持っていない私ですが、それでもこの作品の前半部で語られる認められること無く生きていくことの苦しみというのは、深く刺さってくるものです。
生きることはできても、華をさかせることはできない。他者を収奪することを良しとする世界へのいらだちから、死ぬことが一番正しいというのは、とてもきついものです。
とりわけ、生きることの意味と華について(ヘンリー・ダーガー的境地と行動に達しでもない限り)創作者の多くが共感するところなのではないでしょうか。
ちなみに作品冒頭にある絵画は作者いわく「プロット」であり、このプロットにかかれている六道の通り、「天」は描かれますが、それもまた無常なもので、苦しみは常に戻ってきます。
後半部分は、先にも述べましたが本当に清々しいものでした。自分の生に「意義」はなくとも、「価値」はある。そう考えて、生老病死を単純な苦ではなく、我々の実存とでも言うべきものを保証する苦難とする。
「本地」ということばを用いていることから、この語り手は仏なのかもしれません。ただ、私はこれを人間讃歌と読み、とても素敵だと感じました。
文体に関しては、後半の「我が華咲かさば、見る者も無く、解す者も無けれど、此の地の奥底に響き、此の穢土の機根潔むるを止める者無し」というところからも、これがぴったりなのだと思います。
この作品は、一語一語丁寧に読んでいくか、読まないかのどちらかを迫ってくるものです。ただ、読まれなくとも、理解されなくともそれでも自分は創作をするのだと考えると、希望がわいてきます。
ただ、これは小説なのかというところについては、賛否分かれるところだと思います。私は小説だと思うのですが、そこで根拠とできるのは自分が楽しんだという一点だけです。この点に関しては、他の評議員(また、読者の方々)の見方を色々と聞いてみたいところです。
26.高村 芳『同情』
辰井:小児性愛者を描いた作品。私は勉強が足りないのだが、日本にせよ、海外にせよ、小児性愛者の方が厳しい状況に置かれている国・地域は少なくないと思う。
本人には選択しようのない性的指向であるにもかかわらず、差別的な視線にさらされ、犯罪者予備軍のような扱いすら受ける。
さまざまな困難を抱えながら少しずつ連帯の輪が広がってきたLGBTと比べても、明らかに当事者に対する周囲の意識が遅れているのではないだろうか。
そして、小児という対象がいる以上、そのキャッチアップにも大きな壁が立ちはだかっている。
どう連帯していけばいいのか。
そのかたちの一つとして、高村さんはこの小説を選んだということなのだろう。
私は花を性愛の対象にする男を描いた高村さんの作品『花と罪悪』がいまだにとても好きなのだけれども、今回は小さな女の子という人間の対象がいる分、より葛藤が強かったように思う。
『花と罪悪』はまだどこか甘美さに浸れたというか、男と一致できる部分があったのだが、今回は微妙な、しかし強いためらいをずっと感じ続けていた。
テーマ設定、そしてそれを書き切る想像力と筆力に、高村さんの作家としての強さを感じる。
一方で、田嶋の正体は人工的な効率の良さを感じてしまった。
彼の正体がああだからこそ、「同情」というタイトルになっているのかもしれないが、ちょっと無駄がなさ過ぎる感じがする。
印象的な会話をしている職場の同僚がたまたま同じ境遇で、しかも同じ女の子を同じような場所・同じような時間にああするというのは。
短編としてまとまりが良い一方で、自然な感情を描いていくこの作品の良さに人工感を加えている気がした。
最後、インポテンツという、葛藤の源でもありながら一種の安全装置でもあったものがなくなった彼はこれからどう生きていくのだろう。
むしろ、困難はこれから訪れる気がする。
その後を描かず、あえてここで止めたことに対する評価をしばらく考えていたが、私はこれでいいのだと思う。
落とし所なく、この緊張状態が続くかたちこそが響く場合もあるだろう。
今書かれるべき作品が書かれたと思う作品だった。
ポテトマト:まず、この話の大きなテーマである「小児性愛」について、自分には深く言及できない事をお詫びしたいです。
しかし、この作品を「遼遠小説」という場に出した意味を考え直してみると、このテーマだけに留まらない作品というか、「欲望の表現者としての作家」も、案外似たような葛藤を抱えているんじゃないか?そんな考えが浮かんできましたので、これに絡んだ話をさせていただきます。
少なくとも、自分は小説という形でしか吐き出すことの出来ない願望を抱えながら生きてきました。
みだりに他人に吐き出そうものなら、白い目をされるであろう欲望。それを発散したくても、他人からは承認されないし、そもそも実現する手段を持たない。小説を創るという事に出会うまでの自分の葛藤が、作品の中の主人公と重なってしまったのです。
そして、小説やSNSという手段を手にして、言葉を振り回している今の自分は、いつか"田嶋"みたいな人間になってしまうんじゃないかと。そんな思いが過ってなりませんでした。
言葉と小説は、物理的な力こそ持たないものの、浮かんだ情景を形にして、それを他人に鮮明に伝える力を持っている。自分はそう信じています。
しかし、それは解釈を他人に押し付け、心を傷つけるような暴力性がその裏返しとして存在する。自分は、田嶋が少女を欲望のままに傷つけている様を、他人事のように思う事はできませんでした。
自分語りが長くてすみません。
しかし、この作品の葛藤って、実は意外と普遍的なもので、だからこそ強く心を動かされたんだろうなあと思っています。興味深い作品をありがとうございました。
南沼:恐ろしくセンシティブなテーマに踏み込んできたな、という印象の作品です。
自分の性愛が社会に受け入れられることはないと諦め卑下し、周囲からひた隠しにしながら自分に許されたラインを踏み超えることなく、しかしその向こう側にいる性愛の対象から決して目を逸らすことが出来ない男。
一般に男性の持つ性欲は女性の受動的なそれに対し、攻撃的なものと言われています。
それが決して満たされない、そういったことが許されないと百も承知で、それでもささやかなよすがを求めて公園に足繁く通い、同調行為的に同じ小物を手に入れて良しとする。
本来ならばそこで踏みとどまれるはずが、終盤主人公が自分を蔑む原因のひとつである勃起障害が突如として回復を見せます。
これにより性愛対象とのセックスという社会的に禁じられた行為へと、不幸にも一歩大きく前進してしまった。「不幸にも」と、私は迷いなくそう思います。
この後主人公を襲う更なる苦悩はいかばかりか……男性にとって、嫌悪感とともに暗い共感を呼ぶ力に長けた小説と評します。
ここはかなり力強い。
一方で物語としてはどうかというと、いくつかのささやかとは言い難い箇所が目につきます。
ひとつには、というかこれが最大のウィークポイントですが、あまりに主人公以外の描写が弱すぎる。
「私」「彼女」の次に来るはずの田嶋は力学装置のごとき役割以外のパーソナリティを見せず、主人公が熱心に見つめるはずの彼女すらも通り一遍の描写以外の姿を見せない。
折角骨の太いテーマであるのに、これは勿体ないと思うのです。
Pz:実に「遠い」お話でした。
途中迄は「おぉ、この設定で『良いお話』に持っていくのか」と思わせてからの最後の一押し、まるで80年代ニューシネマの様な冷徹さが良かったです。
もしかして「タクシー・ドライバー」等がお好きなのでしょうか?
キャッチコピーを読み、当初私は「弱者男性の話かな」と予断して読み始めたのですが、寧ろ小児性愛と性的不能に悩む男性のお話でした。
職場でも役職が与えられ、仕事も順調に熟している様は一見「社会的」には受け入れられて居る様に見えても、実際にはそれは「技量」だけが(極端に言えば)「搾取」されているだけで「全人的な私」は常に抑圧と拒絶とに苛まれる隔絶(しかもそれは社会的には「正しい」とされる隔絶)の中で生きる様が、誇張も矮小化も無く淡々と描かれる様子に、寧ろ映像的な物さえ感じられました。
もし、視覚表現にご興味が有りましたら、今度は映像作品の絵コンテを切ってみても良いかも知れません。
黒石:大変優れた作品だと思います。
大変読みやすく1万字という字数を一切感じさせずに小説の世界に没入することができました。
小児性愛者というのは現代の社会で、性愛の対象を獲得することも、自身の性的指向を表明することも許されません。性愛の対象を獲得するということは、力なきものを搾取することに他ならないからです。無論、実現しなければ、何ら罪ではありませんが、実行が許されないことを欲望として公言するということは、許されないことでしょう。小児性愛に限らないことですが、暗い欲望に駆られたとしても、それは墓まで持っていかねばならないものですから。
作中において、主人公は、少女(たち)を舐めるように見ている様が描写されます。この描写の仕方は大変秀逸で、同時に主人公に共感しづらさを抱かせるものでもあります。
このような共感しづらさを前景化させながら、それでも共感的に読ませてしまう文体は大変素晴らしいものでした。視姦するかのような描写に引きながらも、その視点にとらえられ、私も舐め回すように少女(たち)をみているような感覚を抱きました。
すべてが周到に配置され、それがわざとらしくみえないこの技術は大変羨ましく思います。
小児性愛者である主人公が社会生活を送っているのは、倫理や規範というものよりもインポテンツのおかげであるかのような感じで描かれていることもあり、常に息苦しくやるせない感じがただよい、結果的に主人公の恋心は純愛のようなものになっている。
だからこそ、最後の自慰のシーンがものすごく印象的なものとして映ります。セクシャルな話となってしまうのですが、自慰行為というのは、刹那的な快楽の後にどうしようもない虚無感が漂うものです。
主人公は恋心が微妙な形でほんの少し報われて満足していますが、我にかえった後、これまで以上の苦しみ――田嶋と同じことができるようになってしまったのですから――を感じながら、キーホルダーを汚し続けるのかもしれません。
田嶋の描写は簡潔ながらも、これはこれで大変素晴らしいものだったと思います。
容姿端麗高身長コミュニケーション能力が高い彼は、性愛の対象が違いさえすれば、加害者になる可能性も低かったでしょう。
この田嶋という人物がいるからこそ、物語の終わりに漂うどこか物悲しい余韻が際立つわけで、その点も素晴らしいと思いました。
さて、裏テーマである「遠さ」という観点でみると、難しいところがあるのですが、それでも、この作品の素晴らしさが損なわれることは一切ありません。
大変素晴らしいものを読ませていただきました。
27.2121『褪せたインクと君の声』
辰井:エタった小説が作者のことを考える二人称小説。
もう、めちゃくちゃ刺さってしまって、過去に自分がエタらせた小説が走馬灯のように頭を駆け巡り、全部完結させる方法をしばらく本気で考えてしまった。
どうしてこんなに刺さったのだろうか。設定は二人称小説であることを加味しても素朴そのもので、むしろ鼻についてもおかしくないのに。
すごくきれいだった。情景も何もかも。
彼と”君”の世界が美しく幸福だと心の底から思っている筆致だった。
だから、どんどん思い入れしてしまったのかもしれない。
もちろん、”君”は私ではないわけで、全然違う人間の違う人生なんだけれども、文字の向こう、深い深いところで共通している。
その小説に具体的な文字としては現れない共通をこの小説は描き出せていると思う。
でも、とびきり良い小説ってそういうものではないだろうか。
二人称小説が書きたい気分だったとあるけれど、この小説にとっては二人称がこの上なく合っていた。
ポテトマト:筆を取ってはみたものの、結局は書き終えられなかった作品が何十作もある人間として、申し訳なさを超え、感謝の念すら浮かんでくる作品でした。
ここまでのめり込んでしまったのは、ひとえに作者様の持つバランス感覚、そして描写力が成せる技でしょう。筆を取った"君"の身を案じるような語り口は儚いけれど、回憶として語られる光景は鮮明であり、そこから"僕"が"君"と過ごした時間をかけがえなく思っている事が伝わってきます。
心がじんわりと暖かくなり、もう一度小説を書いてみたくなるような作品でした。素敵な作品をありがとうございました。
南沼:ちょっと辛くなってしまうぐらいに美しい作品でした。
最後の二文が、もう目を細めてしまいそうなほど眩しい。物語を綴ったことのある人間として「君」を自身と重ね合わせずにはいられず、「僕」の思い返すノスタルジック景色とひたむきな祝福を、心のどこかで有り得べきことであったかもしれない、あるいはあってくれればという思いをどうしても抱かずにはいられないからでしょう。
「小説の可能性」をこんな風に解釈し作品として提供してくれたことに、驚きと賞賛、そして紛れもない感謝の思いがあります。
Pz:今回、「運命論/決定論」と如何に相対するか、の様な話が多い様に感じます。
こちらも「ゴドーを待ちながら」の形に近い作品ですが、しかし、本作の「ゴドー」はコチラを愛してくれている事は確信でき、来るべき終末に希望を持っている、と云う点で中世キリスト教(西方・東方教会共に)的な物を感じます。
その意味では、その距離がどれだけ超え難かろうとも、或いはインクがどれだけ褪せようとも、彼等は「最極限の未了」のその時迄、幸福な世界の長い午後を楽しんでいる、その雰囲気を楽しめる作品でした。
黒石:物語世界の登場人物が、作者に語りかける作品。
何かしらの小説を書いた者ならば懐かしさと物悲しさが心のなかに浮かんでくるであろう作品です。
これはまぎれもなく、私たちと私たちの相棒たちの物語です。
そこはかとないノスタルジアを感じさせるのは、文体の力でしょうか。
とても優しい書き方であたたかく、そして素敵でした。
設定だけ、あるいは書きさしで置いてある作品は誰しもあるはずで、これを読むと、ああ、あの話を完結させないとなぁという気持ちになります。
このような作品を読ませていただいて、創作をたしなむ者としてありがとうと言いたいです。
28.syu.『少女を林檎とするならば』
辰井:まるで歌のように、アダムとイブに擬した二人の少女を描く小説。
この小説をプライベッターで公開するということがどこまで意図的だったのか(普段からプライベッターを使っている? それともわざわざこの作品だけプライベッターにした?)分からないが、プライベッターでの文章の表示のされ方も相まって、なんだか歌詞カードを読んでいるような気分で読んだ。
1回目はパソコンで見たから特に。
そう、歌だと思う。
リズムと幻の旋律を感じながらひたすら音と柔らかな意味を追っているだけで楽しい作品で、これを6,000字超のボリュームでちゃんと書けるのはすごい。
そして、確かにこの形式が一番向いているかもなとも。
というのも、このストーリーを普通の小説の形式で書いてしまうと、どこか陰気で不要な重さを持つだろうから。
しかし、歌詞のように書いてしまえば、二人の少女の愛が、ほとんどポップかつ耽美な甘やかさで読める。
歌の、酩酊してしまうような感じを上手く使った作品だと思った。
なるほど、この形式ならもう古びたり錆びたりして普通には書けなくなっちゃった小説とかも全然書けるかもしれない。
受容のされ方は変わるけれど、新鮮な面白さが付け加わる。
明治の小説のあれとか、今この形式で書いてみると面白いかも。
と、色々可能性を感じてとてもワクワクした。
ポテトマト:歌のように美しく、話し言葉特有の揺らぎを内包した文体に、自分は強く魅力を感じました。
散文の作法からはかけ離れているものの、この文体であるからこそ伝わってくる情景が沢山あります。
全体を貫くリズムが心地がよく、恋をしている時の高揚感のようなものが、読んでいるだけで伝わってきます。
リズム。
この作品を象徴している言葉だと、自分は考えています。体言止めや比喩などの諸々の技術が緻密に絡み合い、蕩けた声が響いているかのような、そんな臨場感を生み出していると自分は感じました。
自分はこういった作風が大好きです。もっと普遍のものになればいいとさえ思います。
素敵な作品をありがとうございました。
南沼:アダムとイブが二人の年若い少女であれば、彼女たちはエデンへ戻ることが出来るのだろうか?
二人の少女に起きた悲恋とも言うべき結末、そしてあったかもしれない死後の世界におけるハッピーエンド……ここまで書いて、いかに自分が無粋な言葉を並べ立てているのかと愕然としました。
その世界観と物語、心情を美しく記述するには、詩にも似たこのような形式が必要であったのだと思います。
過剰で折に適っているかどうかで言えば怪しい対比や並列、暗喩。
省略したりされなかったりする句読点。
小説作品として読むには余りに難解というよりは不親切であると、評議員の立場からは評さざるを得ません。
しかし相手に酔い自分に酔う事、悲恋を乗り越えた先の幸福を思い描く事は、こと若い恋愛の当事者としては圧倒的に「正しい」、あるべき姿なんですよね。
そしてぷらいべったーという極めて匿名性の高い場での公開ということを鑑みると、きっとこの作品はこれで良しとされるべきなのだと思います。
投稿ありがとうございました、眼福です。
Pz:少女2人の抒情詩の応酬と復楽園への絶望と希望のお話。先ず「If Adam and Eve are two young girls, can they return to Eden?」とテーマの提示で始まり、コレがこの作品の全てであり、後はそれに対する心情の言葉の奔流に乗り、それを愉しむ作品です。
ポーの『大鴉』等がお好きな方は大いに愉しめると思います。
なので、正直に言えば、本作を「講評」する事は、特定の人物(ここでは私)の特定の「誤読(即ちこの文章)」によって本作を「殺す」事になってしまいます。
そして、正にその様に言葉を「捕らえよう」とする事からの「忌避」と「脱出」と、その為の「怒濤」そのものこそが本作の内容でもあると思うのです。
例えば、最初にタロットの絵札の様な言葉が並びますし、特に私等は自分でもタロットカードを描く程度にはタロットを「知って」しまっている者は、ついついそれぞれのカードの「意味」を取ろうとしてしまいます。しかし、それこそ「マジシャン」のカードで卓上に並べられた小物の様に、それらは皆見せかけ、引き寄せる為の物でそこに「本質」は無く、正しく「マジック」の様にそこで生じる「流れ」その物が目的なのでしょう。
その「流れ」がこの作品の隠喩も寓意も通じて全てに通っており、それを万華鏡の様に楽しむ。
その意味では、発した作者のそれと、受けた読者のそれは常に違い、常に移ろい、それでいて「結末」はあるが、そこ迄の流れは無限に分岐する。寧ろ分岐して欲しい。
これは、そう云う物なのだと思います。
黒石:ぷらいべったーというサービスを用いて投稿された作品。
このような媒体を選ぶことによって、どこか秘密の日記のようなものを盗み読んでいるような気持ちにさせられます。
中で繰り広げられる話は、二人の女性の間だけの世界で、詩的な文体や背景や物語を匂わせるような描写をぎりぎりまで削り取ったことによって、二人だけの世界を描き出せていると思います。
ただ、その一方で小説として読むのは、なかなか困難でもあります。節のタイトルの算用数字で見ていくと、13254の順に繰り広げられることもあって難解です。ただ、もしかしたら、わざとわかろうとしないほうが良いのかもしれないとも感じました。なぜなら、私は二人の少女の秘密の日記を盗み読みしている者に過ぎないのですから。
29.フカ『メロンパン日和』
辰井:なんて幸福感の高い小説なのだろうか。
いや、本編で幸福でないことも起きるのだけれど、読んでいる間、私は幸福に包まれていた。
とてもとても上質な小説で、読めて本当に幸せだ。
変でちょっと悪くてきっと善い隣人の話、長い間付き合っている彼氏直輝の話、仲の良い女友達えっちゃんの話、色々あって全部絶妙。
全体にほんわかとした読み心地がありながらも痛いところはちゃんと痛い。
でも反面、人生の相当重い話を描いているのにどこまでも読み心地は優しい。この作品に、メロンパン日和というタイトルは秀逸だ。
直輝との距離感にリアルさを感じたり、えっちゃんと暮らそうという話になるところのあまりの幸福度の高さにニコニコしたり印象深いところはあるけれども、私は「その後」を描いた小説としての印象を強く持った。
私自身うつ状態をやっているので、主人公がうつ状態と思しき状態になるところ、そしてその影響のもとにその後の人生を生きていくところが優しい筆致で描かれていることに感動した。
そう、真っ只中を描く小説とか、もっと寂しい筆致で書く小説はあるんだけど、こうして優しくその後を書いてくれる小説に私はあまり出会えてこなかったので。
その後の方が、よっぽど長いのにね。
もちろん、人によって印象深いところは違うだろう。
母との関係性が刺さる人もいるかもしれない。
とにかく、色んな人にとっての人生がここには描かれている。
あまり他の人がちゃんと書いてくれなかった人生が、本当に読みやすい小説として。
それは私も本当にやりたいことなのだけれども。素晴らしい作品だった。
ポテトマト:凄い作品を読ませてもらったな……。
これが、初読時の素直な感想でした。
何よりもまず、文体が凄い。素朴で、主人公の不器用さすらも感じるのに、非常に読みやすい。
文章を構成する言葉選びも、まさしく主人公が選んだ言葉なんだなあという印象を強く受けます。独特な句読点のリズムも手伝い、実際に主人公と話をしているような印象を受けました。この部分だけでも、十二分に評価に値すると自分は思います。
そして、そんな主人公が向き合っている世界の薄暗さ。空想の中を漠然と漂ったり、周囲から見ると酷いことをされているのに、それをさらっと流してしまったり……。
すごく短い作品なのに、彼女の人生を凝縮したかのような、そんな印象を受けます。
作者様が主人公のキャラ像を深く掘り下げる熱量と、それを文体や具体的なシーンに落とし込む技術をお持ちだからこそ、完成した作品だと思います。
作品のテーマそのものは、手垢が付いたものかもしれませんが、それでもすごく遠くまで運んでもらえた。そう思える作品でした。
素敵な作品をありがとうございました。
南沼:社会を上手くやっていくことが苦手な主人公の身の回りに、様々な色の人が集まり、あるいは離れていき……不器用なりに傷ついたり小さな楽しみを見つけながらやっていこうという人生賛歌。
30歳という年齢ながら妙に子供っぽい主人公の言動はじめ、例えば主人公に対し相当に「きつい」態度を隠そうともしない恋人直輝ですら、どこか淡い色彩で描写されています。
しょうがない人たちとしょうがない私、私が薄膜を一枚隔てて茫洋とした手触りでしか理解できない社会、それらが細かな凹凸を指でなぞれそうなほど確かな肌実感として描写されながら、どこにも鋭角なところがない。
『どこか』はただ遠い場所ではない、『ここ』で『そこ』なんだよ。そんな感慨をくれる作品でした。
Pz:こう云う「普通の小説」が「異質」に感じてしまう「遼遠」の恐ろしさを再認識しました。
お話自体はやんわりと書かれているものの、実際には主人公の環境はかなり機能不全に陥っていて、しかしそれを主人公は余り重大な事と認識しておらず、その為にますます主人公の感情と感覚とが乖離していく辺りが非常にリアルに感じられました。
また、顔文字に依る主人公の場面ごとのベースとなる感情表現も面白かったです。
面白いのは、文章自体の雰囲気は柔らかいのですが、その実、カミュの『異邦人』の様に、ただ起きた事を淡々と述べている事が多く、その柔らかさに相反してハードボイルドな内容になっている事です。
そしてその乖離もまた、上で書いた乖離と重なり、全体の調子を上手く整えております。
惜しむらくは、第一段落に顔文字が無い事でしょうか。ここにない事で、全体の統一感に若干の瑕疵がある様な印象を与えてしまうかもしれませんので。
黒石:30歳の女性――付き合いの長い彼氏と同棲している――の生活が丁寧に描かれます。
この丁寧な、またしっとりとした書き方は本当に素敵だと思います。
ただ、この主人公は常にどこか自身と距離をおいて外から自身を見つめているような書きぶりが不思議な感じもかきたてます。
もちろん、この不思議な距離感の理由は少しずつ作中でにおわされていき、そこがまたとても魅力的な書きぶりでした。
ゆるやかな虐待めいたものを母から受けてきた結果、人との距離感がつかめなくなり、最終的には自分の身体との距離感もうまくつかめなくなる。
積もり積もって自己評価は低くなり、自分自身に対して、どこか外から見ているような突き放した感じになっているわけです。
結果として、自分が自分でありながら自分でないような感覚を常に漂わせている。このつかみようのないところに遠さを感じました。
この小説の中で、主人公にふりかかる話は端から見れば、ものすごい悲劇なのですが、つかみようのない主人公と主人公自身の身体の距離感めいたもののおかげか、あまりきついものではなく、最終的にはかすかに救われる話であるあたりの優しい書きかたで、読んでいる私自身も救われたような気になりました。
さて、一原枝津子(この名前は、なんというか有名女優を思い出してしまって、そこが若干ノイズとなりました)という主人公の解放に一役買ってくれる友人が、少し人間臭さがないというかイマジナリーフレンド的な感じがしてしまうところがありました。ただ、このあたりについては、そもそもそのような印象を与えることを狙っていたのかもしれないし、それゆえ書き込みすぎないほうが良いのかもしれないと思う私もいて、判断が難しいところです。
大変、素敵なものを読ませていただきました。
30.藤田桜『ハルピュイア』
辰井:ハルピュイア。
有翼の乙女の姿をした、貪り食い散らかす化け物。その名を冠した短編であれば、最後の展開も呑み込める(最初読んだ時はそんな終わり方する!? と思ったが)。
ただの化け物でない生き方をしようとして、素晴らしい大切にできる出会いを経ながらも、何度も挫折を繰り返し、己の化け物性を突きつけられる羽目になる永劫の檻に生きる吸血鬼の話。
前述の通り、最初読んだ時は終わり方に驚いたが、二度読むと必然的な終わり方だという気がする。フィーネウスに肩入れして読むならば、そのウーゴの行為に愕然とせざるを得ないのだが、フィーネウスのこれまでの善性はあるが全く正しくない行為をなぞっていけば、ウーゴはフィーネウスにやっと「現実」を見せているのかもしれないとも思う。
そういう意味で、「こんなの、ただの化け物と変わらないじゃないか」というフィーネウスの消え入りそうな呟きは、その通りであり、そして決定的に遅い。
先走っていきなり最後の話をしてしまった。最初から。
まるで色んな電波がランダムに入ってくるラジオのような出だし。「チューニングされていない」ので混乱するけれども、やがて記憶が血に溶けているということが分かってくる。
今回この、記憶が血に溶けているから、吸血鬼フィーネウスがこれまで血を吸った人間の「主観」の記憶を持っているというのが抜群に良い。
フィーネウスの物語を描く短編でありながら、他の複数の人間の視点で彼のことを描けている。
そして、不穏な逆戻しの文字。
その正体が途中まで分からなくても、禍々しさは十分だ。
そして記憶が紐解かれていく。
記憶は、元の主人の動揺を反映したかのように、乱れる。
句読点が乱れ、空白が増える。
それが、記憶という、主観の、はなはだ脆いものの性質をよく表していたように思う。必然性のある表現手法だった。
それぞれのエピソードがとても良い。分量としては少ない老婆のエピソードさえ。
ほとんど、この書き方でできる極致を見た思いだった。
この書き方で。
色々書き方はあるし、藤田さんは色々試せる人だと思う。
とにかく、今の限界を書いてくださったということがとてもよく伝わってきた。
だから、次に行けるし、それにはこれを含めてこれまで書いたものがもちろん生きるし、これから書かれるものをまた見ていたい。
ポテトマト:アーティスティック。
この作品を敢えて一言で表現するなら、この言葉が相応しいと感じています。
血が記憶となり、記憶が血となる吸血鬼の内面という非常に難しいテーマに対して、理解されないという事を恐れる事なく、正面から描き切った作品だと自分は受け取っています。
まず、凄く些細な事かもしれませんが、全ての内容が1ページにまとまっているのが非常に良いなと思いました。
初見時は誠に申し訳ないのですが、「シーンが移り変わるごとにページも切り替えた方が見やすくなるかも?」と思ってしまいました。しかし、何度も読み返しているうちに、それがとんでもない誤りだと気づきました。
主人公にとっては、どの文章、どの文字も主人公の脳裏を流れる記憶であり、むしろこの形こそが相応しいのだと今は感じています。
また、文中の空白や逆再生を用いた記憶の表現から、その血から滲み出した感情の強さを、言葉でなく形で受け取る事が出来ました。今まで他人の血を吸った瞬間の記憶が混ざり合うものの、その全てを"不要な記憶だ(原文:だ憶記な要不)"と拒否し、現実から逃避し続けている様を克明に描く事が出来ていると自分は受け取りました。
確かに、初見時の分かりやすさを重視するのであれば、今の形は少し不親切かもしれません。しかし、個人的には「吸血鬼という人の道から逸れた化け物の内面が、読み手という人間にとって分かりやすい訳がないじゃん!」という思いが強くあります。そういった意味で、本作の書き方にはリアリティがあるように自分は感じています。
とても素敵な作品をありがとうございました。
南沼:読み終わって、「もったいない」というのがまず第一の感想でした。
乱れた句読点と点在する不自然な空白、逆書きの文章……記憶への侵入と共有、追体験の描写という命題を負ってなお、これらは作品をほぼ読み辛くさせるだけの小手先のフックに過ぎないと思うからです。
それらに頼らなくとも十分完成度の高い作品と思うだけに、猶更悪目立ちしてしまっているという印象でした。
翻って、作品の内容はとても面白い。永く生きてなお幼さを捨てきれない吸血鬼が、自分が寄り添ってきたつもりの人間がもつ怪物性を目の当たりにして、同時に自分の今までの人生を振り返るように絶望する。
場面転換が多いだけに着地点が最後まで読めずスリリングであり、ひどく寂寥感のある終わり方は美しい。
一種アクロバティックな構成を描き切る筆力の高さは言わずもがなです。
主人公の歩んだ人生の道のり、物語の起こりから終着点に至るまでの飛距離、どちらもとても遠大な距離を隔てているだけにその思いはひとしおで、遼遠というテーマにこの上なく合致した作品でした。
Pz:記憶の混濁と交わり方の表現が良かったです。「逆再生」される声も「紙面の外」を意識させられ、1次元、或いはメタ情報の集積である文字媒体にサラウンド音声や空間的拡がりを感じられ新鮮でした。
これは横書きである事を最大限に活かしていて良いですね。
記憶のモジュールが夢の様に繋がるのも幻想的でありながらリアリティも感じられ良かったです。
個人的な感想としては、逆再生や記憶の断片の表現から初期のSound Horizon、例えば「LOST」や「Chronicle 2nd」辺りが想起させられました。
さて、問題は、このタイトルである「ハルピュア」です。
お話の内容的には吸血鬼、それも現在の我々が最初に想像する「ドラキュラ」の様な「モンスター」になる以前の「悪霊としての吸血鬼」を扱っているのに、タイトルは「ハルピュイア」なのです。こちらもギリシア語の「ハルピュイア」を採用している、と云う事は英語の「ハーピー」になる以前の、つまり「伝承としてのハルピュイア」なのでしょう。
そう思い本作を読み進めたのですが、最後の展開はそうとも言えますが、完全にそう云う訳でも無い。寧ろ内容としては「セイレーン」の方が近い気もし、さて余計に困ってしまっているのです。
そして、その困ったせいで読み返させられてしまうのですから、何とも「困った」事ですね。
黒石:藤田さんらしさが詰まった作品だと思います。
空白や逆回し(?)の文、乱れた句読点といった視覚的な仕掛けは、他の作品も読んだことのある私にとっては馴染のあるものです。
初めて見たときには大変おどろいたこと、すごいよねすごいよねと御本人にお話したことを今でもおぼえています。
可読性という点では著しく悪くなるのですが、ただ、これが良い意味で読者の足をとめさせてくれます。
読みやすいというのは、マストといっていいくらいに求められるものですが、読みやすすぎるとさっと流れ去ってしまう。どこかでフックをかけるという意味で、読みにくい独特の表現方法を用いるあたりがすごい。
このすごさはなかなか真似できないものです。乱したものを読ませるためには、普段の文章がカッチリとしていないといけない。カッチリと整った文章があるからこそ、乱れが活きてくるわけで、これがちょっとやそっとではたどり着けない達人の域なのだと思います。
また、この乱れた文章を用いて、シーンのチェンジをおこなうあたりもまたすごいところだと思います。「記憶」というタイトル、後半明らかにされるフィーネウスの行動、それに対する因果応報ともいえる罰を考えると、この作品のシーンが入り乱れているのは必然なのですが、ばらばらのシーンを読ませるというのはとても大変です。それがこの表現方法によってうまくできていると思いました。
ただ、フックが多すぎると、感じるところもありました。■が多くなってくるところは、記憶というテーマがあるにせよ、他のもののような構成的、物語的必然性が多少弱いように感じたところでもあります。
内容面では、記憶(と血)という設定が大変おもしろかったです。様々人間に視点が入れ替わっていて、この物語はどういう物語なのだろうというのが、すっと解消するあたりはおおっと唸ってしまいました。
作品タイトルと主人公の名前も面白かったです。どうしてハルピュイアなのだろうという、ずっとわからないタイトル、名前が響きが良いなとしか思っていなかったフィーネウスという名前が、アルファベット表記になったところで、すっとつながったのも気持ち良い体験でした。
元ネタ同様、悲惨な過去を奪うことは、未来を告げて進ませるのと同じく許されない行為なのかもしれません。
ラストは圧巻でした。辛いことをふくめて、その人の構成要素であるにもかかわらず、辛いことを善意で消去し続けてきた者が、永遠の囚われることになって、もらす「化け物じゃないか」ということばはとても美しかった。
それにここまで謎めいていた物語が終盤で一気に明らかになっていくあたりはなんともいえないカタルシスを感じました。
いいもの読ませてもらいました。
蛇足ですが、官能的な描写がうまくて、BLが守備範囲外の私ですら、(またしても)どきどきしてしまいました。
評議員で話そうとしていた話題
・評議員どうでした?(「講評大変だった」など)
・『川のある土地』の白パートって叔父の話なの?(辰井は叔父の話として読んでいない)
・印象に残った作品及びその理由(個人賞選出にあたっては勿論出てくるものとは思いますが)
・講評にあたって(あるいは大賞選出にあたって)どういった要素を重視したか
・「ドキュメンタリー」の各段落ごとの時系列って結局答えがあるものなのですか?あるとしたらどう並び替えるのが正しいのでしょうか?
・「今、小説だから出来ること」って何か、皆さんの中で考えはありますか?(遼遠を通して変化してても、してなくてもOKです)
・可読性
・わからなさと読み
・サンプリング
選考会議の前に考えていたこと
黒石:辰井さんからのネタフリ
・評議員どうでした
大変で一時期不安に押しつぶされそうになりました。
作者ども、おまえら、全力出しすぎだよ。作品が凄すぎて、講評なんて書けねぇやみたいな。
もちろん、いいこともたくさんあって、様々な人の「遠く」に触れられて、自分の小説観が少しレベルアップしたかもしれないというのは、その一つ。
あとは「遠く」という裏テーマについて、自分で作品を書くだけではなく、他者の作品で考え続けることができたのがよかった。
いわゆる「純文学」的作品も多くあったけれど、「エンターテインメント」的作品も多くて、これは「遠く」という裏テーマのおかげだろうなと思って、それはとても楽しかった。
あとはお祭り騒ぎが好きなので、わーわー騒ぐのは、純粋に楽しかった。
・『川のある土地』の白パートって叔父の話なの?
叔父さんじゃなかったの? と聞いてしまうくらいに、すっと叔父さんの話として読んでいました。
もちろん、幻想的なところがあって、とらえどころがないところもあるけれど、やはり叔父さんの話として読むのが一番しっくりくる。
南沼さんからのネタフリ
・印象に残った作品
10.筆開紙閉『ハイパー・ハイブリッド・ニギリ』
小説としては荒削りだろうし、アンバランスなところもあるけれど、この言語センスは凄まじい。
実際、作者に出会ったら、バットで頭かち割って脳みそ吸って、その言語センスを取り入れたい枠(あと、何人か、そういう人がいます)。
あと、これは野暮すぎて講評に入れられなかったけれど、軍艦巻きは握りだけど、巻きずしは握らないよね。
22 毛盗『川のある土地』
25 Pz5『蓮華泥中在水』
開催前に話し合っていた事柄について、参加者と評議員が応えてくれた作品。
視覚的な仕掛けは、自分では考えつかないものなので、ものすごい可能性を感じた。
視覚的といえば、
1.辰井圭斗『彼岸』
も挙げておく。どれも真似はできないけれど、とても楽しかった。
・講評にあたって(あるいは大賞選出にあたって)どういった要素を重視したか については、選考会議まで取っておいたほうがいいのかしら。もし、今貼ったほうがよかったら、言ってください。
ポテトマトさんからのネタフリ
・「ドキュメンタリー」の各段落ごとの時系列って結局答えがあるものなのですか?あるとしたらどう並び替えるのが正しいのでしょうか?
最初時系列の理解が南沼さんと違っていて、びびったけれど、見直してみると結局私の凡ミスでした。
ただ、辰井さんの読み方とはちがっていた気がするので、そこらへんは面白いかも。
そういえば、シーンのつなぎ方で印象的であったのは、ドキュメンタリーとハルピュイア。
前者はシーンが変わったとき時系列が変わったことに気がつかせないようなつなぎ方をしていて、後者はシーンが変わるときに視覚的にわかりやすい仕掛けを作らず、文体でシーンの切り替わりを伝えようとする。どちらもものすごく入念に設計したのだろうと思って感服しました。
・「今、小説だから出来ること」って何か、皆さんの中で考えはありますか?(遼遠を通して変化してても、してなくてもOKです)
小説の一番の強みは、長い話を物理的にもバイト数的にも比較的コンパクトにどこでも享受できる形で提供できること
それぞれの読者の想像力を借りることができること
というのが自分の考えで、これは遼遠前後で変わっていません。
遼遠経験で自分の中で何か変わったことはあるのですが、そこがいまいち言語化できていませんので、それはまた後ほど。
それでは、私からもネタフリ。どうにも曖昧な話なので少し長めになります。答えてほしいというより、座談会でのネタの一つくらいで一緒に考えてもらえたらなという感じで。
とりあえず、一緒に考えてもらいたというか、よくわからなくなっているネタめいたもの
・可読性
可読性を犠牲にして、読者の目をとめさせるという技法は割と色々なところで言われていることと思うが、どこまで、それを用いるべきか。
私自身は、可読性についてはできうる限り高める方向で文章を書くことをこころがけている。ただ、その理由の大半は自分でコントロールできなくなるからであり、可読性を犠牲にした作品を書ける作者をうらやましく思うところがある。
・わからなさと読み
私は講評でよくわからないということばを使いました。
これについては、あまり乱発しすぎると、講評になりませんが、実は問題ないと思っています。
作者の死とか言ったりしますが、読解は自由にするものですし、時代や社会状況、読者自身の変化によって変わっていくものです。
だから、わからないところがあってもいいし、作者が期待していたことと違っていても良いものと思っています。
(もちろん、これも程度の問題ではありますが)
だからこそ、講評する人も複数いるし、そのズレを楽しめば良い。
とはいえ、どこまで好きな読解は許されるのか、読解がぶれる作品について、読解がぶれるから良いというのと、情報を伝えられていないの境目はどこにあるのか。
少しわからなくなっているので皆様のお話ききたく。
・サンプリング
サンプリングの可能性について。
テクストは引用の織物と考えているので、すべての作品は既存のテクストのサンプリングであるといったら、それまでなのですが、題材やテーマ、パスティーシュ、引歌的なものを超えたサンプリングでどこまで小説を書くことができるか。
そういえば、けっこう前にとある大学のレポートで自分の文章を一切用いずに切り貼りだけでレポートを作成せよというのがありました。意図としては、剽窃防止の究極の形ですが、むしろ、創作として面白い試みだとニュースを読んだときに感じました。
4.藤泉都理『あだばな』
14 真狩海斗『三位一体の実験』
といったサンプリングの可能性を感じさせる作品があったし、14番については、ポテトマトさんもサンプリングという言葉を用いて講評されていたので、皆様のお話うかがいたく。
辰井:・『ドキュメンタリー』の並び順
私の並べ方は、並べ方の論理が違っていただけで、並べた結果は南沼さんと黒石さんと同じになりました。同じになったなら書いておかなくていいかなと思って講評から消しています。だから、並べてみた人だと順番は一致しているんじゃないでしょうか。
・『川のある土地』叔父問題
多分白文字は叔父の話で合ってるんだろうなあと思いつつ、実は私、全然関係ない小さな女の子の話として読みました。文体が女の子っぽかったので。
確かに白文字が叔父だとすると、なんで叔父が金魚の絵を描いているんだとか。小さな生き物に対するまさ坊呼びの背景とかがなんとなく分かるし、ある程度まとまるんだけど、だとするとちょっと世界が狭くないかなという気がしてしまって。
私は、本当に「川のある土地」の土地ものとして読んだんです。金魚を埋めちゃった河原のある川があってその土地を舞台にした話。
共通項は、子どもの時に「爆弾」的存在と関係を取り結び損ねること。それだけ。私はその淡い淡い共通項で、他がほとんど関係ないというの込みでフレッシュさのある良い作品だなあと思ってたんですよね。
黒石:文字がほんの少ししか交差しないところから考えると、そういう読みも楽しそうです。そういえば、私も講評で縦書き抜きでも成立するみたいなこと書いたなぁ。あの繋がり方、面白いですよね。
辰井:・評議員どうだったか
遼遠小説大賞の期間は、自分自身思いっ切り純文学を書いている時期とかぶっていて、「今の時代に小説を書く意味ってなんだろうな」とか「自分は一体今どんな作品を必要としているんだ」とか結構な密度で考えていました。それで答えが出なかったというか、割とネガティブな暫定的結論が出ちゃったんですよね。「もう自分は小説を必要としていないんじゃないか」とか「もう小説やめた方がいいんじゃないか」とか。だから講評とかも空振ってしまってかなりダウナーでした。でも、手は止まらないし、やっぱり小説のことばっかり考えているんです。だから、なんかよく分からんけどまだ小説というのは私の人生にあって、手が離れないんだと思いました。そのタイミングで自分が書いているものにも突破口が見えて、講評もようやく歯車が噛み合うようになって、ほぼほぼ書き直しました。
主催者としては、2年前にやっていた時には見えていなかったところが見えるようになって悩んでいました。運営側の難易度も高い企画なので、「あそこ着地の時に軋むな」みたいなのが一部ではあるけれども見えてしまって。でも色々と個別で話したりして、全員でこのまま着地させてみようと思いました。どこまで無事に着地するかまだ分からないけれど。
もっと中身に近い話をすると、パワーのある作品が沢山集まって来てくださって嬉しかったです。1つ1つの作品と向き合って講評を書けたのは光栄でした。
・印象に残った作品及びその理由
ここは受賞作決まってからかな。ほぼ全部語れてしまうので。
・講評にあたって(あるいは大賞選出にあたって)どういった要素を重視したか
私はあんまり完成度は見ませんでした。遼遠小説大賞は挑戦を促す企画でもあるので、挑戦の結果着地が失敗していたとしても、それだけでダメだと言うことはするまいと思って。それより何を「遠く」だと思うのかや、それをどうやって実現させようとするのかのヴィジョンが大事だと思っていたので、そっちを重視する方向で。でも実際読んでいくと、私の主観では、ヴィジョンに惹かれる作品はどれも完成度が高かったから、ヴィジョンと完成度の乖離で悩むことはありませんでした。
大賞ドンピシャの話は、大賞候補を推薦する時に言うので割愛。
・「今、小説だから出来ること」
ちょっと話が長くなるんですけど、常々「小説というのは読者が払うコストが高い芸術だな」と思ってるんです。だって、脳内でビジュアル結ぶのだって文字から自分でやらないといけないわけだし、動画みたいに再生しとけば受動的に鑑賞できるものでもない。読者にかなりエネルギーを求める。それをなんとか補助できる方法がないかなとしばらく考えていたんですけど、多分小説だからこそできることってコストの高さの裏返しでもあるんだと思います。曖昧なものを曖昧なまま伝えて、だからこそ微妙な話ができること。実際書いてることとそれを受け取った解釈の幅があまりにも大きいがゆえに、書いてないことを伝えられること。
簡単な例だと主人公の顔なんか、漫画と違って作者のイメージと読者100人のイメージで絶対一致しないんだけどそれは欠点じゃないんだと思います。
小説って作品の鑑賞にあたって作者がハンドリングできる部分が限られていて、作者が見ている幻と読者が見ている幻のズレが大きい。でもだからこそ超えられる壁がある。
そういう意味で、事前の構成とか人為に頼る作品よりも、精霊が入って来る余地のある作品が好きです。作者の人為の所産ではあるけれども、人為ではないものに開かれているのが小説の良さといえばいいのかな。
・可読性
私も黒石さんと同じで、できるだけ可読性は高めています。だから、フリガナ振るのも嫌なんですよね。そこでほんのちょっと止まるじゃないですか。
でも、ちょっと可読性下げて読むスピードをコントロールするのは普通にやっています。ここ印象に残してほしいなというところで読みやすさを変える。
まあ、ただ私は気が短い読者なので、可読性を下げるにしてもあんまり下げないです。大事なのは可読性を下げるに足る理由がちゃんとあるのかかな。
例えば、藤田さんの『ハルピュイア』で使われていた逆順に文字を書く表現を、書き手としての私は多分やらないんです。やるとしても5文字とか6文字に留めると思う。でも、読み手としては、あそこが不吉な感じがして読みづらいのは意味があることだと思ってるから評価しています。
総じて、私は本とか小説とかって「読めない」のがベースだと思ってるんです。それは読解力を低く見ているとか、平易な表現にしましょうねという話では決してなく。差が難しいんだけど、母語にせよなんにせよ、そもそも言語ってできないよねという話に近いです。だから、その世界観に立つと、あえて可読性を下げることに、私は書き手としてはあまり積極的になれないかな。
・わからなさと読み
ここまでの話と矛盾するように見えるかもしれないんですけど、私は割と解釈については硬いんです。まずちゃんと作者の意図を読み取りたい。なるべく正確に。でも、作者が意図していない豊かさもあるから、そこも拾いたい。
私はバルトにいちゃもんつける気は全くないんだけど、少なくともネット小説に関して「作品は読まれてこそ価値がある」と得意げに言っている人にはあまり良い感情を持っていません。大前提として作者へのリスペクトがある状態で「作者の死」と言うのと、リスペクトが極端に低い状態で言うのとでは訳が違うと思うので。
ちょっと話がズレましたが、私は作品について分からないのもありうるし、作者が思ってなかった解釈をするのもありうるけど、その前提としてかなり厳格に作者の意図を読み取りたいという気持ちがあります。
この話もっと広げられるんだけどあえてここで止めますね。これ以上話すと「分からない」の意味が分岐するので。
・サンプリングの可能性について
黒石さんも仰っているけど、究極的には「全部サンプリングだからなあ」に尽きちゃうかも。
南沼:・評議員どうだったか
さすが遼遠という名を冠するだけあって難しい、言い換えれば読み込むという行為そのものに対して挑戦的な作品が多かったな、という印象です。
自分が極めて感覚的に物事を捉える人間であることは承知しており、文章を出力する際も「この感覚をなるべく自分が感じたまま他者に伝えたい」という動機が強くあります。
講評もそこを意識したものになっていて、この「感覚」のキャッチボールが上手くできていれば嬉しく思います。
・印象に残った作品
「川のある土地」
「蓮華泥中在水」
本文以外で勝負を仕掛けてくる作品は初めてなので、その意味で。
これは本大賞ならでは。とても良い経験でした。
「交差点の」
上の2作品とはまるで逆の意味で、ぎっちりと詰め込んだ本文の中だというのに視覚的、絵画的なところ。
・講評にあたって
いち読者として、一番遠くに連れて行ってくれた作品を強く推したいという思いです。
・可読性
これは講評にも良く書いているのですが、可読性はかなり重要なポイントだと思っています。
理由の一つは文章のリズムを経て読み手に伝わる感覚を大事にするべきという考えを持っているからです。
もう一つは「読みにくいのってイヤじゃん」という単純な理由。
・わからなさと読み
難解というか、100%筆者の意図したように作品が読めているか自信のない作品はいくつかありましたね。
一方で、「この一文は読者に理解させようとして書いていないのでは」という印象のものもある。
この使い方はちょっと目から鱗でした。
・サンプリング
現代美術が取り入れたこの手法を文章表現において殊更に避ける理由は特にないように思いますが、可読性やリズムを可能な限り損ないたくない人間なのでバランス感覚と調理の腕前が問われそうですね。
ポテトマト:・評議員どうだったか
凄くプレッシャーを感じると共に、楽しい日々でもありました。
自分の人生の中でも、第一回の大賞をいただいた事って大きな出来事だと思っていて、今度はそれを贈る番になった……。
好評が来た時の嬉しさや、「分からない」と言って切り捨てられる時の苦しみも、ある程度は分かっているつもりです。
それ故に、どの作品の講評をしても、一々緊張してしまうような、そんな日々を過ごしていた気がします。
一方で、こうしたキッカケで色々な作品を読めることが単純に楽しく、「遼遠」というテーマに賛同してくださる方がこれほどまでいるのか……と少し誇らしいような気持ちになっていました。
今は、自分の講評が受け取った方の道標になってくれればいいな……と思っています。
・印象に残った作品
自分も、これは大賞が決まった後に改めて話します。大賞や優秀賞には残らなかったけど、秀逸な作品のことをお話ししたいので。
・講評にあたって重視した事
①話そうとするテーマや見せたいポイントが小説で書く意義のあるものであり、なおかつ新規性を感じられるか。
②話そうとしたテーマや魅力を成立させるだけの技巧(文体・舞台設計など)が備わっているか。
自分はこの二点を重視して、講評を書かせていただきました。
また、できるだけ純粋な読み味、その小説から得られる情景や感情に絞って、講評を書いていました。自分の背景知識の不足もあり、迂闊に手が出せなかったというのもあります。しかし、時間が経った後に残るのって、結局は作品を通じて体験できた肌の感覚なんじゃないか。そう考えて、読み味に絞った講評を書かせていただきました。
・可読性
自分は可読性をあまり重視しませんでした。
こちら(読者)に明確な意図が伝わらずとも作者様の中のイメージがしっかりと表現されていると感じればOK!というスタンスだからです。
可読性を損なってまで、何を表現したかったのか。そのスケールの大きさを自分は重視しました。
・わからなさと読み
そもそも、自分は人間同士って100%分かりあうことは原理上不可能だよね、という立場です。100%作者自身の思いが伝わる作品というものはこの世に存在しないと考えています。小説という摂取カロリーの高い媒体なのも相まって、誤読される可能性はどうしても避けきれません。
しかし、だからこそ「作品は読まれてこそ意味がある」と、改めて自分は主張したいです。
どんなに緻密な文章を積み上げても、他人による解釈を介さなければ、それは単なる妄想にすぎないんじゃないか。自分の書いた情景やキャラクターが伝わって初めて、それは他者と自分の間で共有される"イメージ"として実存が出来るのではないか。そういった思想を持っています。
しかし、一方で作者としての自分は超越的な能力を持たない、単なる一人の人間です。「分からない」と単純に切り捨てられたり、誤った読まれ方をされて傷ついた経験も少なからずあります。
だからこそ、本企画において「小説だからこそ表現できる分からなさ」をテーマとしている作品が多かった事に、感謝と敬意を表したいです。
例え、物語としての意味は分からなくても、どんな作品も読んだ後には何かが心に残ると考えています。そうした微細なものを講評で拾えているのならと切に願っています。
・サンプリング
創作ってそもそも何らかの模倣じゃん、という話はさておき。サンプリングという試み自体はもう少し検討されてもいいのかもしれないなと思いました。「三位一体の実験」のような、既存の歴史的な文脈を継ぎ接ぎする試みもそうですし、広く言えば「ヤバき者」の走れメロスからのパロディめいた部分も、単なるパロディではないサンプリングのような機能を果たしていたように思えます。小説は、結局のところ単なる模倣に過ぎない部分もある……。そう認識した上で付き合っていけば、むしろ新鮮な作品として映る気がしています。
・小説だからこそできること
小説だから出来ることは何か?
この話題を振ったのは自分ですが、なかなか上手くシンプルな言葉に出来ないので、何で自分が小説を始めたのかをつらつらと語っていきます。
「漫画やアニメやボーカロイドのPVなど、色んな作品の情景や熱量を、文字に落とし込めたら楽しいんじゃないか?」
そう思い立って、小説を始めたという経緯が自分にはあります。
その理由は今はあまり明確に覚えていないのですが、文字に落とし込むという行為を通すことで、作者の思いみたいなものがもっと肌で感じられるんじゃないかと考えた記憶があります。
肌感覚。
これは、自分にとっての小説のキーワードです。漫画や絵画や音楽のような、他のある種の演劇性を持ったメディアと違って、視覚や聴覚のみならず、嗅覚や触覚、果てはいずれにも当てはまらない第六感など、感じた事の全てをより読者に近い距離で伝える事が出来ると思っています。
それでいて、他の劇のように演技をする場所に縛られず、書きたいと思い立ったらいつでもどこでも書き始められる……。まあ、実際にはその後に色々と準備はしないといけないんですけど。
初めの一歩の踏み出しやすさというか、ある種のフットワークの軽さがあるおかげで、自分は小説を書き始められたんだと思います。
後、これは自分の妄想めいた考えで、特に深く考察などはしてないのですが、現代ほど文字に溢れた時代ってないんじゃないか?だからこそ、小説ってまだ可能性があるんじゃ無いか?と勝手に思っています。
単純な読みにくさだとか、情報としてのカロリーの高さなどのハードルはたくさんあるけれど。それでも文字という記号を介してしか見えてこない情景はまだ残されており、文章というメディアに詰め込まれなければ伝えられないであろうお話がまだまだ沢山あるんじゃないか。自分はそう思っています。
Pz:評議員どうでした?(「講評大変だった」など)
今回が初の講評員だったのと、私自身は読むのも遅い方なのでやり切れるか不安でしたが、先ずは講評を書ききれて良かったです。
また、私の場合実験的なのが好きなので、その意味でも遼遠でできたのは良かったです。
・『川のある土地』の白パートって叔父の話なの?(辰井は叔父の話として読んでいない)
叔父の話として読まない事は可能だけれど、あの構造上叔父の話として読んだ方がより「強く」なると思う。
又、花の下で出会い続けている「世代間リレー」とも読めるが、それなら他の「世代」の描写も入れるだろう、とも。
・印象に残った作品及びその理由(個人賞選出にあたっては勿論出てくるものとは思いますが)
『川のある土地』と『ヤバきもの』
・講評にあたって(あるいは大賞選出にあたって)どういった要素を重視したか
「可能性」に何処までいどんのか、とどこまで「拡張」したか。
・「ドキュメンタリー」の各段落ごとの時系列って結局答えがあるものなのですか?あるとしたらどう並び替えるのが正しいのでしょうか?
個人的には、アレは「インタビュー」だと思っているので、実はあの順番でそのまま語ったのを文字起こししただけ、だとしてもそれである種の「リアリティ」を感じるな、と思っている。
ただ、コレは私が普段認知症の方と触れ合っているからかも知れない。
・「今、小説だから出来ること」って何か、皆さんの中で考えはありますか?(遼遠を通して変化してても、してなくてもOKです)
「小説」の「始まり」を考えるに、如何しても「ロマン派」や「疾風怒涛」に当たり、「人間が人間として人間を表そう、人間が人間として楽しもう」と云う流れがその根底にあるのだと思う。そしてそれは記録された「文字」であるからこそ、触れる度に「いま、ここ」に立ち現れるのだと思う。メディアの少ない20世紀初頭までは、立ち現れるそれは生活の疲れを癒すエンタメや物語もあれば、幾度も懊悩を繰り返した自戒や、英雄性から切り離された歴史の再考であったりしてきた。
翻って小説を取り巻く現在の環境を考えるに、エンタメはラノベ等「マンガの手法」を取り入れ、消費者に適合し、他方文学はサロン的なサークルは少なくなり、スマフォを通じ寧ろより個人的な物になっていっていると思う。物語の視覚的な部分はラノベがマンガから援用しているのでここでは閣くとして、寧ろ読者がより能動的に読むであろう「文学」は、より「詩的」になった方が、寧ろ大元の「ロマン」や「疾風怒涛」を読者の内に引き起こし易くなるのではないか、とも思っている。
・可読性
表現したい物を捉えているならば、可読性に関しては、特に今回は基本的に無視しても良いのではないかな、と思っている。
勿論、読み易く工夫はすべきなのだが、その表現方法が表現したい物に対して適切である場合、大いに「定石」を外してもらった方が可能性は拡がるよなぁ、と思っている。
・わからなさと読み
「日本語が読めていない」レベルでは問題だが、高校卒業程度の読解力があるならば、その先は「分からない」も楽しめば良いのではないかと思っている。
・サンプリング
寧ろ、小説が「独創」である事に拘り過ぎているのではないだろうか。他の表現媒体では、サンプリング自体は例えば「本歌取」の様な形で見られるが、小説ではあまり重要視はされておらず、其の意味では小説正しく「近代の産物」であると思うし、それを「ポスト(脱)」して行くのは面白いと思う。
選考会議
辰井:全員いますかー?
ポテトマト:はーい。います。
黒石:サンバのリズムで到着。こんばんは。
南沼:こんばんは。おkです。
Pz:在。
辰井:OKです。問題ないかな?やっていきましょう。最初は、大賞の選考からです。それぞれ、候補作と理由をお願いします。こんな感じで。
辰井:倉井さとりさんの『剥がして食べなきゃいけないんだよ』を大賞候補として推薦します。他には、立談百景さんの『ヤバき者』もフカさんの『メロンパン日和』も良くて3作品で甲乙つけがたいんですが、『剥がして食べなきゃいけないんだよ』に関しては人間の通常の認識というあらゆる作品が意識的にせよ無意識的にせよほぼ囚われる檻の向こう側に行こうとしてくれた作品だと認識していて、「遠くに行こうとするならそのそもそもの大前提には挑戦しないといけないよな」と強く納得する作品でした。あと「よく分からないが何かある」という感覚が最も強い作品だったので、推したいなと。通常の賞の評価軸で3作に、書き手兼読み手の感覚で1作に絞りました。
ポテトマト:自分は、『ヤバき者』を推します。
「ヤバい」という身近な言葉をテーマとし、その言葉の持つ力を最大限に生かそうとするテーマ設計が一番の理由です。他の作品も、確かに遠い情景へと連れて行ってくれる物が多数あったのですが、中でも本作が一番普段の身体感覚に近い所から出発し、そして十二分に遠くへと連れて行ってくれたと強く感じています。単なる奇想に甘んじることなく、テーマから引き出せる情景、「ヤバイ」という言葉の持つ力を十二分に引き出せている作品だと思っています。
本作は、遼遠という場でなくても十分に評価される作品だとは思いますが、本作を見て、小説や言葉の持ちうる可能性を再確認したうえで、新機軸としての小説の形も見いだせたもようにも感じたので、推させていただきます。
南沼:私の挙げる候補は『川のある土地』。
理由は下記2点です。
・白、黒に対して読みの順序の指定がなく、読み方によって読者に与える印象が変わり得ること。
これが初読に限る、検証不可能な点である点は、量的な評価は不可能ながら小説のもつ可能性に大きな厚みを持たせていると考えます。
・メディアミックス的な表現方法でありながら画面上の情報密度は粗く、また物語の色と合わせて、読後の離人感と喪失感がとても大きかったこと。
Pz:私も毛盗さんの『川のある土地』を推します。今回力作が多く、全体的に完成度も高いのですが、こちらは今回の遼遠の裏テーマであった「小説はどこまで遠くに行けるか」を、ただ物語や構造だけでなく、メディアも含めてその「限界」を越えてくれ、しかもその手法と表現内容とがきちんと一致しているのも含め、大会全体のテーマとして佳いな、と思っております。
黒石:13 杜松の実『ドキュメンタリー』を推そうと思います。
大賞選出にあたって重視したのは、
小説としての(1)完成度と(2)遠さ。
(1)完成度は文としての美しさや仕掛け。
ここで印象に残るのは、
4.藤泉都理『あだばな』
8.壱単位『交差点の』
12 繕光橋 加『エイブクレイムス・スレイブズエイク』
13 杜松の実『ドキュメンタリー』
18 佐倉島こみかん『葵先生の『作り話』』
22 毛盗『川のある土地』
23 尾八原ジュージ『迷子のなり方』
24 宮塚恵一『マキニス・モエキア』
29 フカ『メロンパン日和』
30 藤田桜『ハルピュイア』
(2)遠さは、これまで見たことがなかったもの。
こちらでは
10.筆開紙閉『ハイパー・ハイブリッド・ニギリ』
11 倉井さとり『剥がして食べなきゃいけないんだよ』
13 杜松の実『ドキュメンタリー』
22 毛盗『川のある土地』
が印象に残りました。
この時点でも甲乙どころか、全部大賞でいいんじゃないかといいたくなっていたけれど、選考点のどちらでも印象的であった13と22で迷いました。
これまた甲乙つけがたいけれど、最後は登場人物の魅力でこちらに決めてしまいました。
幻想的であるのと登場人物の魅力がすばらしい。
遠さという点では地続きでありながら、大変遠く感じました。
わかりあえなさ、他者への理解という名の誤解、他者からの無理解、このディスコミュニケーションの描き方が大変狂おしく、近さと遠さを同時に感じさせるものでした。
以上になります。
辰井:ありがとうございます。さて、どうしようかな。『川のある土地』が2票集めているので、素直に行くと『川のある土地』だけれども。異論のある方はいらっしゃいますか?
ポテトマト:少しだけ、自分の意見をお話ししても大丈夫でしょうか?
辰井:もちろん。
ポテトマト:『川のある土地』も、自分の中でも最後まで大賞に推すべきか悩んだのですが、どうしても「幻想小説」というか、前回の遼遠大賞にて幻想・不条理小説を出して受賞をさせていただいた自分の立場としては、二度目も似たような方向性の作品に「遼遠」の大賞をあげていいのか、それなら前回とは違った方向性を明確に打ち出してくれた「ヤバきもの」を推薦した方がいいんじゃないか、といった心の動きがありました。無論、『川のある土地』はこのまま大賞として選ばれるに相応しいテーマ・技巧の作品だとは思いますが、この点について議論をしてもいいのかもなと思います。(本当に前回と同じ方向性の作品なのかも含めて)
辰井:なるほど。ありがとうございます。私としては、大賞にふさわしかったら、前回と方向性が似ていようが、大賞に推すべきと思います。あと、重要な点として、私は『川のある土地』が前回大賞の『青い繭のなかで』と似ているとは全く思っていません。あまり心配しなくてもいいんじゃないかなという考えです。他の方はいかがですか?
南沼:私もポテトマトさんの作品と『川のある土地』が似ているとは思わないかなあ。それに『川のある土地』が幻想小説というのも少し違う気がします。また、前回と大賞選出の方向性が同じであるか異なるかを問題にするべきではないとも思います。
Pz:私は『ヤバきもの』と迷って『川のある土地』を推したのですが、迷った上で『川のある土地』を選んだのは「小説の『枠』を越えているから」と云う理由でした。慥に多様な作品に来てもらう為に多様な大賞受賞作があるのは望ましいのですが(例えば少年ジャンプの様に)、しかし、他方、現状の「シーン」とは異なる物を独自の視点で選び続ける場所もあった方が、場としてより豊穣なのではないか、とも思いますので、例えば今回の様に幻想的な雰囲気の物が連続する分には、然程問題は無いのかな、と思います。
黒石:私も問題ないと思います。『青い繭のなかで』と『川のある土地』は幻想的(私は『川のある土地』を幻想小説として読んでいます)ということ以外は、まったく方向性の違うものであると思います。あと、私は今回からの参加なので、初参加組の私はあまり連続性と関係なさそうです。また最後まで迷った作品ということで『川のある土地』が大賞ならば、そうだろうなぁと納得します。
辰井:ポテトマトさんはどうですか?
ポテトマト:皆さんのご意見を頂き、ありがとうございます。まず、この問題提起をした理由として、遼遠小説というか、「小説の可能性を示す大賞」として、「理解されにくい小説」が連続で大賞に来るのに違和感を実は感じており、そこを相談させて頂きたく、話をさせていただきました。個人的に幻想小説の弱さを強く感じているというのもあったのかと思います。しかし、特にpzさんの「小説の『枠』を越えているから」という意見に自分は納得しました。確かに、小説の『枠組み』を越える、という意味合いでは、視覚詩の良さを物語の形に落とし込みつつ、それでもちゃんと詩という形も損なっていない本作が相応しいように思えます。
Pz:「理解されにくさ」に関しては、「世間が何と云おうと我々はコレが良いと思ったんだ。そこを『わからない』等と云うなら、それはもう読者の側の問題だ」位の気持ちで私はやってますね。
黒石:「理解されにくい」かどうかについて付け足すならば、『川のある土地』は理解しやすいものであったと思います。表現形式には度肝を抜かれましたし、解釈が多少私たちの間で揺れていましたが、それは楽しめるレベルのものであり、理解されにくいものとはとくに思いませんでした。
辰井:みなさんありがとうございます。では、大賞『川のある土地』、優秀賞『剥がして食べなきゃいけないんだよ』、『ドキュメンタリー』、『ヤバき者』でよいですか?
Pz:私は異存はないです。
ポテトマト:同じく、異論ありません。
南沼:異論ありません。
黒石:異議なしです。
辰井:では決定で。おめでとうございます!
Pz:御芽出度う御座います。
黒石:わーぱふぱふどんどん! おめでとうございます!
南沼:おめでとうございます。やんややんや。
ポテトマト:おめでとうございます!それにしても、いずれも本当に凄い作品でした……。
辰井:このまま個人賞の選出に進ませてください。個人賞もできれば理由も付けて選んでくださると嬉しいです。
辰井:私はフカさんの『メロンパン日和』で。大賞選考でも3作の中に入っていた作品でした。フカさんの意図とどのくらい合っているのか分かりませんが、「その後」を優しく書いてくれた作品として強く推します。あと、単純にとても上手だった。
ポテトマト:悩みますが、『交差点の』を個人賞に推します。凄く短い文章ながら、自分の中に情景が深く残っている作品です。特に、自分が読み味に絞った講評を多く書いているので、その技巧というか、一人の人間が感じている事をつぶさに自分も感じられるような書き方が印象に残っています。最後の句読点も素晴らしかった。
Pz:私は『ハルピュイア』ですね。個人的に推していたのが大賞と優秀賞になってしまったので、個人的に好きな作風で選ぶと『迷子のなり方』と『マキニス・モエキア』も入って来ますが、他の2人はもっといけるだろう、と云う逆贔屓でこちらに。
『ハルピュイア』は何故「ハルピュイア」なのか未だ私の中で答えは出ておりませんが、文字だけで「夢の連続の様な場面切り替え」と「サラウンド音声の様な声」を表現できているのが印象的でした。
黒石:10.筆開紙閉『ハイパー・ハイブリッド・ニギリ』
これしかありません。
大賞には推せないけれど、個人賞はこれしかないと早い段階で決めていました。
講評でも書いたのですが、この言語センスは本当に魅力的でした。
言葉の選び方だけで、ここまで遠くに連れていってくれる作品、とても素敵でした。
好きな作品は他にいくつもあって、個人賞の弾、8発ぐらいくれないかなと思うのですが、1つだけならば、これということで。
でも鉄火巻は握りじゃないです。
南沼:個人賞には『交差点の』を推します。
小説の枠を超えるという点では最も軍配を上げたくなる作品なんですよね。
文章でありながら視覚に訴えてくるアプローチは非常に鮮烈で、浮かび上がってくる「絵」がまた美しい。
そうしてみると文章の中に散りばめられた「色」すら筆づかいのように浮かび上がってくる。
挑戦的でありながら恐ろしいほどに完成度の高い作品と思います。
ポテトマトさんとかぶった!どどどどうしよう!?
辰井:うーん、普通ばらけさせるんですが、今回は一緒でいいでしょう笑。2人分受賞ということで。みなさま、改めておめでとうございます。
Pz:御芽出度う御座います。
黒石:おめでとうございます! 黒石個人賞の副賞は、忘れた頃にバットを構えた全裸の中年が奇声をあげながら飛びかかってくるになります。
南沼:おめでとうございます! ツインズ賞になっちまったぜ~。
ポテトマト:おめでとうございます!……何も気の利いた軽い言葉が出てこない!とにかくおめでとうございます!
辰井:さて、選考会議は終わりましたが、受賞作を含めて語りたい作品・語りたいことはありますか?
ポテトマト:どうしよう、沢山あるかもしれません……。
黒石:全員の講評を読んだところで、それをふまえて、なるべく多くの(というかできれば全部の)作品について、皆で語れるといいなぁと思います(自分が応募側で参加したときに、少しでも自作の名前が出てくると嬉しかったりするので)。
辰井:じゃあ、大賞の『川のある土地』から。選考会議の前に私が白文字は叔父なの?というのをみんなに聞いていて、実際叔父なんだろうなあと思うんだけど、叔父読みしなくてもすごく良い作品だなと私は思っています。だから、解釈は違うけれど、大賞にはとても納得。
南沼:叔父読みが自然だとは思うんですよね。叔父でなくとも成立するんですが、その場合なんというか、とても「虚ろ」になるような感覚です。それはそれで味わいとして良いし、本大賞の求めるところに近しいような気もしますが。
ポテトマト:実は最初は自分も叔父読みをしてなくて、全くの赤の他人として読んでました。しかし、見返した時に、金魚を埋めた瞬間から、もう一方の流れに金魚が出始めた?という感じがして。そこからは、何故か不思議と叔父読みがしっくりと来てます。でも、この曖昧さが凄くいいなって。
黒石:私は叔父読みしかしていなくて、言われて別の読み方を考えていくと、南沼さんがおっしゃっていたような「虚ろ」さ、あるいは怖さのようなものが出てきて、面白かったです。事前に「わからなさ」ということについて皆さんに意見をうかがいましたが、様々な解釈を楽しめる(それこそPzさんが「わからなさ」についておっしゃっていたように)楽しい作品でした。
辰井:どうしよう!このペースでやっていると到底全作できないよ!!
ポテトマト:日にち、分けます……?
辰井:日にち分けても不可能だなと思ってちょっと呻いています。
ポテトマト:うーん。それでは、各個人で印象に残っている作品のリストアップ→それについてトーク
みたいな流れはいかがですか?それでも足りないですかね?
黒石:「うまさ」とか「エンターテインメント性」とかいくつかのキーワードで思いつく作品をリストアップというのはどうでしょう?
辰井:よし決めた。全作無理なので、それぞれ印象に残った作品から語っていきましょう。時間切れになったらしょうがない。ポテトマトさん語りたいのあります?1つか2つ。
ポテトマト:『あだばな』『少女を林檎とするならば』辺りが、個人的には印象深いですかね。
『あだばな』に関しては、最初の方に来て、「こんなに鮮度の高い作品がこんな速度で!?」とビビり散らかした記憶があります。講評にも書いたのですが演出が醸し出す緊張感が本当に素敵で、ああ、この大賞に講評員という立場で参加できてよかったなと強く思いました。『少女を林檎とするならば』は、完全に個人的な好みなのですが、歌の様に揺らいだ文体にシンパシーを感じたので、印象に残っています。こういう文体が増えてくれると、自分は嬉しいなあと。
南沼:私は『葵先生の『作り話』』、『褪せたインクと君の声』がとても印象に残りました。前者は作品全体の完成度と丁寧さ、後者は美しさ。どちらの作品もため息が出る程良かったのですが、「小説の可能性の追及」という裏テーマからは推しづらかったのが残念です。
『あだばな』『少女を林檎とするならば』は、どちらも講評書くの難しかったな笑。『あだばな』の方はこれをどういう風に読んで解釈すればいいのか分からなかったんですが、最後の方でようやく「あ、このまま咀嚼すればいいんだ」と腑に落ちまして、そうすると唯一無二の味が中々良い。『少女を林檎とするならば』は、これ明らかに他人に理解してもらおうというモチベーションで書かれてないので、そこが非常に難儀しました。ただ、これはこういう作品なんだな、という受け止め方で済ませています。
黒石:さっき自分でキーワードがとか言っていたので、キーワードで勝手にくくって語ってみます。
キーワード「善」
12 繕光橋 加『エイブクレイムス・スレイブズエイク』
18 佐倉島こみかん『葵先生の『作り話』』
今、ここで書くべき作品というので、どちらも素敵な作品でした。
私自身はどうしても、現在的テーマに応えるものが書けないのでうらやましく思います。
あと、この作品に限らないことですが、この2作ともとても美しい日本語でした。
キーワード「技巧」
2 サトウ・レン 『空音』
8 壱単位 『交差点の』
24 宮塚恵一『マキニス・モエキア』
壱単位さんの作品は言わずもがなの描写で、他の作品は構成の妙が印象に残っています。
エンターテインメント的な観点でいば、宮塚さんの作品が一番おもしろかったと思います。
キーワード「幻想」
20 押田桧凪『からめて』
23 尾八原ジュージ 迷子のなり方
29 フカ『メロンパン日和』
30 藤田桜『ハルピュイア』
フカさんの作品は幻想小説ではないのですが、他者との、あるいは主人公自身の身体との不思議な距離感がとても良かったです。
残りの三作品も幻想小説としてとてもすばらしい。押田さんのは、なんともいえないとらえどころのなさが良かった。
あとは幻想といえば、南沼さんの作品もすごかった(評議員作品は触れないほうがいいかな?)
他にサンプリングというキーワードでは先に語っているので、繰り返しませんが、藤泉さんと真狩さんの、良かったなぁ。
キーワード:「俺たちの物語」
21 外清内ダク 『Stayin' Alive in the Void』
25 Pz5『蓮華泥中在水』
27 2121『褪せたインクと君の声』
どれも創作をたしなむ者だから、響いてくる作品でした。
(前後してしまいますが、評議員作品も触れてオーケーが出たので触れています)
Pzさんの作品は「善」にも入りますね。なんとも清々しかった。
Pz:今回の選考基準では触れなかったのですが、『胡蝶』、『プラトニック・スーサイド』『からめて』『メロンパン日和』のリアリティと云うか手触りは良かったです。それぞれの状況に対し細かく述べられるだけでなく、精神面でも手応えがある感じがしたので実在感があるのですが、その実在感が抵抗になっていない、と云うか読み手(少なくとも私)とシンクロできるのが良かったな、と。
『エイブクレイムス・スレイブズエイク』も「南北戦争のあの空気感」みたいな物を感じられた気がしました。
辰井:私は受賞作以外だと『エイブクレイムス・スレイブズエイク』と『マキニス・モエキア』が好きですね。『エイブクレイムス・スレイブズエイク』はとにかく美しかった。『マキニス・モエキア』はしっかりと安定しながら挑戦できるんだなということを教えてくれたような作品ですごく良かったです。
おわりに
まずは、第二回遼遠小説大賞にご参加いただいた皆様、参加作を読むなどして楽しんでいただいた皆様に心からお礼を申し上げます。ありがとうございます。
主催・評議員の気持ちは随所に漏れ出しているでしょうから手短に。
主催者としては、こういう時代にこういう環境だからこそ、遼遠小説大賞のような賞をやる意味はあるのだと思って運営してきました。実際どこまでできたか、何ができなかったのか、意味はあったか、思う所は多々あれど、評価するのは参加者の方だと思っています。
作品として投げていただいた球を、結果発表・講評というかたちでお返しいたします。その返球が、届きはしたのか、全く見当外れだったのか、(発表するしないはさておいて)評価していただければ、幸いです。
ここまでこの企画にお付き合いいただきありがとうございました。
辰井圭斗拝
資料費に使います。