エバとサタンの淫行と割礼の関係とは/原理講論研究(25)
原理講論は、人間の罪の根がエバとサタンの淫行にあるということを強調しています。この本の著者は、罪の根が淫行であることについて次のように述べています。
「我々は聖書によって明らかにされたところにより、罪の根は人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあったということを知るようになった。したがって、彼らは神の善の血統を繁殖することができず、サタンの悪の血統を繁殖するようになったのである。」(p. 104)
このように述べて、原理講論は人間の罪の根がエバとサタンの不倫関係にあったという見方を表明しています。さらに著者は「罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた」(p. 104)と述べて、原罪が遺伝するという理解を支持しています。
原理講論の特徴は、原罪の議論を宗教一般に拡張している点です。
「罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。」(p. 104)
先日、滋賀県近江八幡市の賀茂神社に参拝した時、禰宜さんのお話を聴く機会があったのですが、この禰宜さんは日蓮を非常に尊敬しておられて、お寺に行って修行をさせてもらっているそうです。キリスト教以外の宗教が罪をどのように定めているのか、あるいは、この姦淫を防ぐために、どのような禁欲生活を実践しているのか、私はよく知らないのですが、淫行の罪を防ぐためにどうすればいいのか、という課題に取り組むことは大切であると思います。淫行の罪を防ぐことで、より良い社会を実現することは、大切な課題です。この課題に取り組むために、諸宗教が互いに助け合うことは可能であると思います。
原理講論の著者は、割礼について次のように述べています。
「イスラエル民族が神の選民となるために、贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。」(p. 105)
ここで、割礼というのは、男性の生殖器の先端の皮を切り取る儀式のことです。神はアブラハムに対して、この割礼という儀式を行うことをお命じになりました。原理講論には引用されていませんが、ここで創世記17章9節から14節までの箇所を読んでみたいと思います。
神はまた、アブラハムに言われた。 「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。 いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。 あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。 包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」
神が割礼をお命じになったのは、アブラハムが99歳の時でした。アブラハムにはサラという名の妻がいましたが、サラには子供がいませんでした。アブラハムには、イシュマエルという息子がいました。この息子は、サラの女奴隷であるハガルが産んだ子でした。アブラハムはイシュマエルと共に割礼を受けました。この割礼が命令された時、サラがアブラハムの子供を産むという約束が、神から与えられました。実際に、サラはこの後、妊娠して子供を産むことになります。それがイサクです。アブラハムの子孫の男の子は、生まれてから8日目に割礼を受けることを命じられました。生まれて8日目に割礼を行うことは、親たちに与えられた義務です。割礼という儀式には、家族単位の救いという意味があるのです。
現在でも、ユダヤ人の家庭で生まれた男の子は、病院の手術室で割礼を受けています。割礼の傷痕は、神によって選ばれたイスラエルの民の一員であることの証拠です。興味深いのは、原理講論の著者が、この割礼の儀式の意味を、堕落した人間のからだからその悪の血を抜き取ることと理解している点です。このような理解の仕方は、原罪がサタンとの淫行であったという解釈に適っています。
原罪とは何かという問題や、原罪は遺伝するのかという問題について、キリスト教の長い歴史の中で、さまざまな議論が行われてきました。これらの問題について、原理講論は一定の答えを提示しています。これらの問題についてはさまざま立場がありますので、何が正しくて何が間違っているのかという決定を、安易に下すことはできません。いずれにしても大切なことは、淫行の罪を防ぎながら、より良い家庭を築き、より良い社会を形成することです。その目的のために、既成のキリスト教会は新宗教運動を弾圧するのではなく、むしろ良い点を認めて助けることを求められているのです。
🟦 世界平和統一家庭連合『原理講論』光言社、1996年。