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日本基督教団の牧師たちが家庭連合の信仰の自由を尊重しないのはなぜか?

日本基督教団などのプロテスタントの牧師たちの中には、拉致監禁・強制棄教という冷酷で卑劣な方法によって、家庭連合・旧統一教会を根絶するための宗教弾圧に関与してきた者たちがいます。彼らはいまだに、この悪質な宗教迫害の誤りを認めていません。家庭連合に対する性的スキャンダルなどの悪評のほとんどが虚偽であることは、信者たちの証言によって明らかになっています。家庭連合を「カルト」と呼ぶことは、今年の1月25日の東京地裁の判決で、名誉毀損であると認められています。もはや拉致監禁・強制棄教を正当化する根拠は、どこにも見いだされません。

にもかかららず、いったいなぜ、牧師たちはいまだに、家庭連合の信者たちの自由を尊重しようとしないのでしょうか?

ここでは、牧師たちの心の根底に、自分の優位を確立したいという欲求があることを指摘したいと思います。

「それは、他人に対して威張りたい、自分の優位を確立したいという人々の欲求である。宗教的正統性は地位と威信をかけた争いに勝利するための実に簡便な方法だ。あなたの教会が正統派で私が少数派に属しているのであれば、あなたは私より優れていることになるように見える」(p.42)と、マーサ・ヌスバウムは述べて、そのような正統派と少数派の比較が、アメリカの普段の社会生活の中でいつも起こっていることであると指摘しています。

このような比較は日本では、牧師たちの間で見られることです。日本基督教団のような大きな団体に属する牧師たちは、自分たちの優越感を失いたくないから、家庭連合に対する宗教弾圧の誤りを認めることができないのです。

信教の自由とは良心の自由であり、良心の自由とは、自分の良心に従って礼拝する自由のことです。この自由を尊重するために必要なのは、いかなる宗教も正統教義とはならないと認識することです。

ヌスバウムはロバート・ジャクソン判事の次の言葉を引用しています。

ジャクソン判事:「地位が高かろうと低かろうと、いかなる公務員も、何が政治や国民意識で正統とされることになるのか、何が宗教や他の見解の問題で正統ということになるのかを規定することはできないし、あるいは、それに対する市民の信念を強制的に言葉や行為で告白させることもできない。」(p.6)

「いかなる宗教も正統教義とはならない。正統教義は平等な権利を求める市民の主張を殺いでしまうからである」(p.6)というヌスバウムの指摘は極めて重要です。

資料:マーサ・ヌスバウム『良心の自由/アメリカの宗教的平等の伝統』河野哲也監訳、慶應義塾大学出版会、2011年。

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