何者


私の就職活動について、少しお話しして見たいとおもう。私は高校の頃、何かやりたいから大学に行ったわけではなかった。数学が少し得意だったから理系の行ける国公立に入れたただそれだけだった。大学に入ってみると大学の論理がそこにはあった。バカもやった。飲みつぶれたり、語り尽くしたり、研究したり、なんだかんだ今振り返ってもよかったとおもう。そして、大学3年の冬。学内説明会がひっきりなしに開かれている。何回か行ったけど、本気になれなかった。なぜか自分事とおもえなかった。そのままずるずると4年になっていた。大学院に本格的に行かないと「先」が何もなくなる!と思い、夏休みから院試の勉強をして、難なく受かった。2年間、猶予が与えられた、と思った。私にとっていま振り返っても重要な追加の2年間であったようにおもう。そして、同時に4年の頃に「就職活動」というものを体験した。はっきりいって舐めていた。言葉が悪いが事実だからしょうがない。その頃の私の考えは、「話せばある程度わかってくれるでしょ。就活なんて引く手数多なんでしょ。楽勝っしょ」であった。かなり世間知らずだったし、案の定、私は何者でもない私に一生懸命美化させて正当化させたかったのかもしれない。

前回のストレスのブログと大学4年の頃の悩み。何が違うんだろうって思ったときに、「何者であるかどうか」が良くも悪くもあるとおもう。

どういうことかというと、大学生の就活しているときの自分って、何者でもない自分に対する不安や焦りだったんだけど、逆に会社に入った後は、何者である自分が自分個人としてではなく、何者としてあることに対する責任がのしかかってくる。ここで言えるのは、必ずしも何者であることが偉いとかそんなことはなくて、寧ろ何者でもないことによって、本質がよりクリアになるし、本質を語りやすい、直視しやすいメリットがあると思う。例えば、地球温暖化を考える時、高校生大学生の自分ならより直接的にまた本質的に物事を考えられる。直接的な原因から経済合理性、炭素税導入による効果検証などそれぞれにたいして吟味しやすい。逆に仮に環境省職員ですとか、エネルギー関連企業に勤めているとか、NPOに参加してるとか、それぞれの「立場」に自分の身を置くことによって、その立場立ち位置からの論理と利害関係者との論理とのすり合わせ、調整など本質的な議論とはまた別の論理があったりする。それもそれで大事ではあるんだけど、時々、本質的な議論が置いてけぼりで組織的にこうしたいが先行されて既定路線の中でのゴールを目指してしまうというのが先の山。つまり、何者でもないことに対するメリットは十分あるから、それを使わない手はないのだ。

組織の中にいると、自分個人としての意見を率直にいうことがより難しく感じることがある。

何者でもない大学生の時、テレビの中の誰かの発言が、これほど「何者であるか」を意識して見たことはなかった。けど、その人間がその人間としての何かというのは、何もなくて。私が、私としての何かというのは、何もなくなっていくことが増えていくような気がして。







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