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いまは中学や大学の頃と比べて、悩みを人と共有出来なくなった。高校の頃の辛さはプライドの高さ、周りからの目への不安に起因していたから最近になってやっと言語化できてきた気がする。
一から相関関係を説明することの億劫さ、聞き手の経験や想像の範疇で捉えられるからうまく伝わらないのは仕方ないけれど何より悩みは言葉にしちゃえば大したことないように聞こえるから、大したことないように聞こえることが耐えがたい。

代々木公園で展示のあった日の前夜、中学からの友達3人と新宿三丁目でお寿司をたべて酒を飲んでカラオケ行った。
楽しかった。カラオケ行ったけど、ほとんどソファーに腰掛けたまま何かについて話していた。
4人で遊んで楽しくなかったことって今まで無い。写真始めた19歳よりもずっと前に出会って仲良くなった人たちだから、カメラが介在すると場が不自然で、あんまり撮ったことってないな。4人で向かい合って、SNSに興味が、というか、仲のいい一部の人たちを除いて他人に興味がなくなってきた 「へー」で終わるし、承認要求も薄くなってきた どうでもいいもん って一人が言っていて、じぶんも、趣味のいろいろを除けば確かにわかるなと思った。
その話を仕事中反芻していると、高校のバンド練習の帰りにドラムの子がたしか17歳の誕生日を間近に控えていて、『もう人生の半分が終わるや』って言ってきたことを思い出していた。『人生の半分終わるってどういうこと?40くらいで死にたいの?』って訊き返したら、『いや、17で人生の体感は半分終わるんだよ』って言っていた。
16歳当時は、知識とか経験とか知りうる世界のキャパシティが17までの持っている荷物(荷物って言い方がしっくりくる)である程度定められてしまうって意味かなと考えたのだけれど、それもまぁあるのだろうけど、信用できる交友関係は10代に築き上げたものでたいていは収まる、って意味が重きを占めるのかも、と今は思う。

さっき職場の近くの珈琲道場 侍っていう喫茶店で、村上龍のエッセイ『すべての男は消耗品である 1』を読んでいた。そこに、希望とか何回も繰り返し謳ってるような雑誌を読んでいる奴は希望がないやつだ、みたいなこと書いてあって、その言説に当てはめるとわたしは最近「信用」って言葉を多用するようになっている。聞きたくもなかったことを聞いて人に対して信用できないって思うことがあって、それは自分が至極真っ当とはいえないことをちょいちょいしてきた分、他人に対しても疑い深いのだろうと思っていたけど、このnoteの文頭からここまでの思考が、最近のループなの。つらいっちゃつらい。

本や展示きっかけで知り合った人は、内面や価値観を話さざるを得ない状況に当たりやすいからか?知り合ってまもなくても安堵感がある。
気候も暖かい今日だし、渋谷のtangleとかあの辺りに一杯くらい飲みに行くか音楽聴きに行きたいって考えはする。いつもイベントやってる友人のことが浮かぶと、いつも何かしらの映画を作ってる(そう思われたいって本人も発言していた)監督の作品が浮かんで、じぶんもいつもなんかやってる人って思われたら多分それが苦しくない生業なんだろうなって浮かぶ。
わたしは自立した生活をかろうじて送ってはいるけれど、ボーナスないし、心に足をつけてどこかへ赴いて写真撮りたいとかいう願望は贅沢だから沈んでいっちゃう。大卒にしては結構苦しい立場にいることは自覚。九州出身の人ばかりのうちの会社の飲み会で、ちょっと有名な東京の大学なんてあー聞いたことあるかも?な反応で、見栄が吹っ切れた。地元が近い人にだけ、妙な表情をされた。その時発したじぶんの言い回しを、どうこれから過ごしたら燃やせるんだろう。
依りかかっていたつもりのないものに、ずっとつよく傾いていたと判って、ばかばかしい。
誰も自分のことを知らない土地に行きたかったとき、電車で寝落ちしたまま知らない街まで行っていたけれど、あの所在無さは、見栄が吹っ切れることでようやく人間一人として立っている心地がしている今へ 十代のわたしをここまで引っ張って来たい。どれだけ井の中の蛙だったのと思うことも、数年後には繰り返しているかもしれないと予期する曖昧模糊とした不安が、本を買わせすぎる。
人から助けてくれない?って連絡が来る、そう求める事ができる人はしぶとい。助けてあげられない自分に虚しさを多少は感じるのが親族なりの愛情なんだろうけど、ビンボーはどうにもなりません。
って、言ってた村上龍が。今日はもうシャワー浴びよ、はい。


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