いまを踏みしめて (詩編37:23-24, フィリピ4:6-7)
◆確かな歩み
指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。
主よ、あなたは私を調べ
私を知っておられる。
あなたは座るのも立つのも知り
遠くから私の思いを理解される。(詩編139:1-2)
神さまは何でもお見通し。そう聞いたとき、少し怖い思いがしませんでしたか。神が私の全部をご存じだなどと言われると、不安にならないでしょうか。それとも、そんなことは信じられない、と思うでしょうか。自分が都合の悪いときには、神は自分から目を逸らしているのだ、などと鷹揚に構えているのでしょうか。
23:人の歩みは主によって確かなものとされ/その人の道を主は喜ばれる。
24:彼は倒れても、打ち捨てられることはない。/主がその手を支えてくださる。
今日は、詩編37編のこの箇所を中心に置いて、神が私たちへ告げていることに耳を向けたいと考えています。そもそも詩編というのは、基本的に人間が神に向けて信仰の気持ちを告白したもののように見えます。人から神に献げるべき、最高の宝物であるかもしれません。この37編で、多くの人が思い起こすのは、次の有名な箇所ではないでしょうか。
5:あなたの道を主に任せよ。/主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
信仰の模範のような姿です。そうだ、神を信頼するのだ。きっと、大丈夫。そんな思いにさせられます。但し、この前に、次のような一節があり、それに続いて、「道を任せよ」とあるところに気をつけたいと思います。
3:主に信頼し、善を行え。/地に住み、真実を育め。
つまり、私の中に、「正義」がなければならないように言われているのです。しかも、独り善がりの正義ではなく、神の正義こそが必要であるのだと理解できます。
「神の正義」。多くのキリスト者が口にします。教会や団体が、合言葉のようにこれを掲げます。戦争が現に起こっています。それは地域紛争に留まらず、世界経済や核戦争といった問題に影響を与えています。そこに、一方的な態度から「神の正義」だと結論を下してよいものかどうか、私たちは真摯に問わなければなりません。
私たちは、戸惑わざるをえません。どうしてよいか分かりません。でも、生きていかなければなりません。何らかの態度をとらねばなりません。自分の考えがうまくまとめられなくても、ある特定の考えに加担する者として、歩いて行かなければなりません。そのとき、自分の歩みが、主によって確かなものとされる、というこの詩編の言葉に目を落とすことは、大切であろうと思われます。
◆摂理と世界観
神は私のすべてを知っている。いまの私ばかりではなく、過去の私も、そして未来の私も。神は世界のすべてを知っており、世界は神の定めたように動く。昔から、全能の神という概念から、人々はそのようなふうに神を受け止めてきました。これを「摂理」と言います。この言葉は、キリスト教用語として以外にも使われることがありますが、いまは専らこの意味で理解することとします。
しかしこの40年間で、「摂理」という言葉に警戒心を抱かせるような団体も生まれました。韓国発の、問題含みなキリスト教系の宗教団体「キリスト教福音宣教会」が、この「摂理」という名を掲げて、日本で活動しているからです。統一協会と同様に、宗教活動であることを隠して接近して、大学生らを狙っているとされます。統一協会の影響を強く受けているとも見られますが、日本社会ではあまりまだ知られていないようです。
キリスト教で「摂理」というと、神がただ定めたというだけでなく、世界のすべての出来事が、神の定めの中で実際に起こることを含んでいます。
これを、極めて楽観的に受け取ると、どういうことになるでしょうか。神を絶対的に信じて、委ねるという、信仰的に優等生であるだろうと思います。そのまま進むと、「この世界は神の定めた最善のものとして与えられている」という考えが出てきます。これを「最善説」ともいいます。18世紀初頭まで活躍した万能的な知識人・ライプニッツが呈したことで特に有名です。
しかし、1755年の万聖節の日、ポルトガルのリスボンを大地震が襲います。リスボンだけで死者は6万とも言われました。世界の覇者の役割を当時担っていたポルトガルはこれで没落を始めます。また、教会の聖日に教会だ多数の死者を出したことや、神が何故このような不幸をもたらしたのかということに教会が説明できなくなったことなどで、キリスト教信仰そのものも、これ以降急速に傾いていくことになりました。
1759年、ヴォルテールはここの地震についての怒りを、『カンディード』という作品にぶつけました。とはいえこれは喜劇のようなもので、ライプニッツの説いた最善説を、徹底的に揶揄した諧謔ものでした。これは一読に値します。
神がすべてをご存じで、世界に善き配慮をしてくださっている。そうした思想が、ダメになっていきます。しかし、これとは別に、「摂理」には、ひとを不安にさせる要素がありました。それは、個々の人間が救われるか滅びるかが、予め決められているのではないか、という不安です。最初から自分が地獄に行くことが定められているとしたら、どんなに善い生き方をしようとしても、すべてが無駄になるのではないか、というわけです。
◆予定説
神は私を知っている。過去の私も、未来の私も。そう信じたのはよいけれど、未来において私は天国に入れないとすでに決められていたのなら、これから生きていく意味があるのでしょうか。そんな悲観的な考えを懐く人が現れても、不思議ではありません。
神が私を地獄行きだと決めておられるかもしれない。だとすると、私はどんなに善行に励もうと、神はその決定を覆されないだろう。自分は何のために生きているのだろうか。頑張っていれば救われると思っていたのも、すべて無駄なことだった、ということになる。こんなふうに考える人がいたとしても、たしかに非難することはできないでしょう。
人間のものの考え方にはいろいろなものがあり、そしてどの考えが直ちに誤りである、などと非難できるものではありません。しかし、プロテスタント運動が起こったとき、ルターに続いて大きな影響を与えた、カルヴァンの考え方がもたらした考えがありました。「予定説」と言います。
こうした考え方そのものは、カルヴァンが16世紀に初めて唱えたものではありません。但し、カルヴァンが強く表に出しました。自分が救いに選ばれたことを証明するために、労働に励むのだとして、資本主義の発達に大きく参与したと見られています。ただ、その神学についていま共に考えましょう、などというつもりはありません。むしろ、神の摂理を全部明らかにするぞ、という姿勢を戒めるつもりで、私たちはいまここにいるのだ、と考えます。
神の定めた内容を、人間が知るということには無理があるでしょう。「予定説」にしても、誰それがどうなのだ、というその内容を暴くつもりはないと思います。せいぜい、予定されている「かのように」受け止めて、世で真面目に働いていこう、という姿勢が大切なのだと思います。つまり、どうせ自分はダメだと思い込んで怠惰になっていくことは、救われて生き生きと輝いている人と、すでに両極に位置するわけですから、救われている者は、怠惰になるはずがない、という逆転の発想をするわけです。
しかし、世の中にはとんでもない者がいます。私は人類の中で選ばれて、特別にそうした救いの計画を知っているぞ、と大言壮語する態度に出るのです。そして救われたいならば金を献げるのだ、と迫ります。人間を洗脳させるためのひとつの有力な方法は、恐怖感を与えることです。恐怖の思想を気にさせて、ついには信じさせ、すっかりその空気に馴染ませてしまえば、金はいくらでも出すようになるからです。そんなことに騙されないタイプの人もいますが、騙されるタイプの人もいます。こうして、カルト宗教は教祖のため、また教団のイメージを輝かせるために、金ぴかの御殿を建てるのです。
さて、神は本当に、すでに救うかどうか、お決めになっているのでしょうか。私たちにはそうであるかどうかすら、全く分かりません。聖書には、神が思い直す場面も多々あります。人間からの折衝に応じて、態度を変えることもあります。しかし、だから神は人間の願いにより心を変えるのだ、などと言い始めるのもまた不自然だと思います。神は人間が考えるより、もっと自由なのでしょう。また、人間の指図に従うロボットでもないし、情報を集めてまとめるAIでもないでしょう。人間の知恵ごときが、そうした神の思いを知るなどとは、私は言い出したくないと思っています。
問題は、あなたの生き方はどうなりますか、ということだけです。あなたが神のプログラムを探る必要はないし、そんなことを探究して何になるのか、と思います。あなたはこの神に出会い、神からの言葉を受け、いまここからどのような生き方を、歩き方を、始めるのでしょうか。
◆将来の夢
人の歩みは主によって確かなものとされ
その人の道を主は喜ばれる。(詩編37:23)
神は私を知るのですが、私がどんな歩みをするのか、期待して見ておられるように思います。「希望」への考察の中で、「人生があなたに何を期待しているか」を問う人がいました。自分が何を希望するか、ではなくて、人生があなたに何を期待しているか、という方向で見るのです。この「人生」を「神」というように捉えるのが、信仰者ではないかと思います。
しかし、ひとはもっと素朴に、「将来の夢」を思い描きます。子どもたちもそうです。「将来の夢」は、しばしば自分の「将来の職業」に代表されます。子どもたちには近年「ユーチューバー」という憧れがあるようですが、さすがにそれが職業としては厳しいものであることに、最近は気づき始めているようにも見えます。ただ、小中学生たちは、将来の仕事について、私が予想したよりも、案外ちゃんと見通しをもっているようにも見えます。学習塾の子どもたちだからかもしれませんが、何かの職のために勉強するのだ、という目的意識が強い子どもたちが沢山います。
私には、その頃「将来の夢」などありませんでした。あまりにぼんやりしていました。小さな頃からだが弱かったので、医者にかかることが度々で、医者になることはすばらしい、と感じることはありましたが、間もなく自分にとって現実性がないと気づきました。なんとなく数学が好きで大学を受験しましたが、当然その程度の気持ちでは弾かれてしまい、浪人が決まったときに、哲学という世界が突如自分の目の前に現れたのでした。ただ、努力はしましたが、大した才能はありませんでしたから、それを職にすることは無理でした。
そうした中で、神に出会い、救われたというわけです。ですから、自分で自分の夢を描き、それに向けて努力し、突き進んだ、そうした経験がないに等しいのだと思います。進む道も生活も、多くの人により、そしてその背後では神により、与えられ、導かれ、支えられ続けていたのだと思います。
人の歩みは主によって確かなものとされ
その人の道を主は喜ばれる。(詩編37:23)
これは、私のようなのらりくらりした歩み方を推奨している言葉のようには見えません。むしろ、自分の夢が与えられ、そのために努力精進する人を祝福しているように、私には思えます。そう、自分の夢の実現のために、歩いてよいのです。なにか神さまいいようにしてよ、とぼーっとしていることをよしとしているのではないのです。ただ、その道を進むことができるのは、自分の力だけではない、と知るべきではあります。導いてくれ、歩みを確かなものにするのは、自分ではありません。周りの人や思いがけない助けによって、そうなるという見かけはありますが、キリストにある者は、そこに神の手を覚えることでしょう。
神はそれを喜ばれます。なんとも心強いではありませんか。その結果、若者は先々の不安はさておき、力強く学びを続けることができます。年老いた者は、それに対して「将来の夢」というものが貧弱である、と思われるかもしれません。しかし、心理学的な調査によると、年老いた者にとって将来とは、自分の生涯で終わるものではなく、自分の子や孫、あるいは次の世代を含んだものを意味するのだというのです。そこに希望があり、未来を思い描く楽しみがあるのだ、というのです。
◆神の備え
先週に続いて今日もまた、聖書箇所として引かなかった所を思い起こすことにします。それは、創世記22章、アブラハムが登場する場面です。新約聖書でも、信仰ということを説くのにここが用いられます。
神の約束により、老齢のアブラハムに一人息子イサクが与えられます。しかしあるとき、神はアブラハムを試みます。イサクを連れて山へ行き、イサクを焼く尽くす生け贄として献げよ、と命ずるのです。アブラハムは苦悩したに違いありませんが、創世記の記者は実に淡々と、3日間のその旅を描きます。
イサクがふと気づきます。あるいは、ずっと気になっていたのかもしれません。「ところで、生け贄の小羊はどこにいるのですか」、そう問われるとアブラハムは答えます。「息子よ、焼き尽くすいけにえの小羊は神ご自身が備えてくださる」(22:8)と。
果たしてアブラハムは心の底からそう信じていたのでしょうか。この件について、新約聖書のヘブライ書の記者はこのように説明します。
アブラハムは、神が人を死者の中から復活させることもおできになると信じたのです。(ヘブライ11:19)
創世記には、少なくとも「復活」のような考えは見られませんから、私たちは少々戸惑います。しかしアブラハムは恐ろしいことに、約束の独り子イサクに向けて、刃を振りかざします。「アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」(22:10)のです。
当然、このような暴挙について、とんでもない、と否定する人が現れます。19世紀前半の実存主義者、あるいはキリスト信仰においても長けていたキェルケゴールは、悲壮な形で描きました。それは、自身がレギーネとの婚約を破棄することと、この事件とを重ねたからだと考えられています。しかしともかくキェルケゴールは、アブラハムの行為を、倫理的にはとうてい理解できないとし、だが宗教的になら理屈は関係なくと、ただ驚きの中でそれを見るばかりである、という考えに落ち着くのでした。
このとき、神はどのように事態を見ていたのでしょう。もちろんそんなことは分かりません。アブラハムが意外にも従った、と思ったのか、それともアブラハムのすることはお見通しだったのか。後者だとしても、えらく感心したように見えるのはどうしてでしょう。
聖書で古の人が振舞った行為は、キリスト者の模範になることがあります。しかし、やはりこの出来事は、アブラハムの一回きりの出来事だと捉えるべきだと思うのです。これを真似して、人を殺すようなことを神の命令だなどと言ってやる人間が、いなかったとも限りません。神とアブラハムとの関係の中で、何かを献げるということについて、思いを馳せることそのものが悪いとは申しませんけれども。
神がアブラハムに命じていたのは「彼(息子イサク)を焼き尽くすいけにえとして献げなさい」(22:2)というものでした。それなのに、今度は「ちょうど一匹の雄羊がやぶに角を取られていた」(22:13)と、生け贄の動物をプレゼントするのです。これを見てアブラハムが名づけたその地名から、「主の山に、備えあり」(22:14)という言葉が生まれたのだといいます。
神はアブラハムを「大いに祝福」(22:17)するようになります。果たして主の「備え」というのが、どこで決まったのか、人間の中のさらに愚かな者の一人として、私には説明ができません。悩んでいるうちに、フィリピ書4章から、慰めの言葉を受けました。
6:何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7:そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
神はご存じ。そう受け止めたほうが、安心できるというものです。
◆神の前にいる自分
神はご存じ。それは私自身のことにも、もちろんそうです。私は神の許にいる。私の視線から言えば、神は私の前にいる。わざわざこのようなことを申すのは、クリスチャンがしばしばそのことを忘れてしまうからです。生活の中では、よくありそうです。たとえ祈りの言葉を唇が発していても、ただ空中に放り出しているだけ、というようなことはないでしょうか。神に打ち明ける、と口で言ってはみたものの、ほんとうに神に打ち明けているのでしょうか。
自身のことに鑑みるに、私たち人間は、しばしば自分に自信がもてなくなります。そのくせ、そういう時に限って、自分でなんとかしようともがきます。一体、キリスト者とは、キリストなる岩の上に立っていたはずではなかったでしょうか。
――その通り、私には信仰がある。そういう自信をお持ちの方、羨ましいと思います。強い信仰をお持ちの方に対して、釈迦に説法(?)のような真似をするつもりはありません。但し、人は時に、その岩の上に立つのに厭きて、自分の立ちたいところに岩を動かそうとするようなことさえします。聖書を信じると言いながら、聖書の意味を自分の都合の好いように変えようと企むことさえするのです。
旧約聖書のイスラエル民族の信仰を見ると、一人ひとりが神の前に立つというよりも、一族がその神を信じるというスタイルであるように感じることがあります。まるで、「家は仏教です」とだけ口にする日本人の標準的な感覚と同じようにさえ見えます。それはヨーロッパでも、領主が信じれば領民も信じるというふうでありましたでしょうし、戦国時代のキリシタン大名も、そういった図式の中で信仰を捉えていたようにも思えます。
それがいまや個人の信仰というものが主流になってきました。それと共に、信仰においても「自己責任」という感覚が強くなっているような気がします。近年「自己責任」という言葉で他人を制限しようとする動きが目立ちますが、本来「自己責任」とは、責任をとる自分が口にする言葉ではなかったのでしょうか。他人に対して突きつける言葉ではないと思うのです。
神の前にいる自分が、神との間で責めを負う。信仰なるものも、そうした形で成り立っているのだと捉えたいと願います。
もしそうなら、私は神に知られているとなると、うれしくなるように思います。神に知られていて、安心できると思うのです。それは、小さな子どもがよちよち歩きで冒険に出ていくときのようです。親が見ています。親が見守っているからこそ、独りで歩いていこうという気になれます。よし転ぶようなことになっても、親が転ばないように助けてくれる。あるいは、転んだら直ちに親が駆け寄ってくる。慰めてくれるし、ほめてもくれる。子どもは転んでも、ニコニコしていることがあるわけです。
神が自分を見守っていてくださる。そのような気持ちでよいのではないかと思います。私のしようとしていることも、神は「知っているよ」と平然としているし、していることを「見たよ」と構えていてくださる。そう思えるところに、安心というものが生まれるように感じます。安心、それは平安であり、平和ということです。
◆いまここで歩けば
神は私を知っている。いまの私だけでなく、過去の私も、そして未来の私も。もうその眼差しから逃げようなどと悩む必要はありません。心に負い目があると、神の前に立てません。それでも負い目になるようなことをしでかしてばかり、そんな自分のこともよく分かっています。けれども、私は根本的にそんな人間なのです、と打ち明けることそのものは、何の負い目でもありません。もう一度フィリピ書の4章を開きます。
6:何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7:そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
「キリスト・イエスにあって」の「にあって」は、英語ならば「in」、つまり「キリスト・イエスの中で」の感覚でもよいかと思います。キリストに包まれています。キリストに守られています。両手を広げたキリストに、匿われています。但し、その掌には釘が刺されており、血まみれで瀕死の状態です。
おまえの負い目とやらが、どのくらいの苦しみだというのか。そんなことはここに全部吸い込まれているではないか。お前のした悪も、いましている悪も、これからするであろう悪も、こうやって磔にされて、もう死んでないものとされたではないか。だから、人間の知恵や思いつきで神を勝手に推し量らず、おまえは与えられた道を歩め。――キリストの囁く声が耳元に聞こえます。
「人知を超えた神の平和」が、私の心(カルディア)と考え(ノエマ)を守ります。そこに「備え」があります。神が、もう備えていてくださっています。
23:人の歩みは主によって確かなものとされ/その人の道を主は喜ばれる。
24:彼は倒れても、打ち捨てられることはない。/主がその手を支えてくださる。
詩編の言葉を握りしめます。そして少しばかりの勇気を受けましょう。いまこの場を踏みしめて、ここから歩いていけばよいのです。さあ、神を信じて。