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ニネベの人々と王に学ぶ

ヨナ3:5-10 
 
どうしても、ヨナの少しひょうきんな言動に注目が集まりますが、異教の地ニネベの人々と王の態度には、味わうべき価値があると思います。しぶしぶ神に引きずり出されてニネベに来たヨナが叫びます。あと40日でニネベは滅ぶことになっているぞ。異国のチンケな人間がやってきてこんなことを叫んでいても、狂った人間にしか見えません。
 
しかしニネベの人々は、この言葉を神の言葉として聞きました。この神を信頼したのです。断食して神に向き、滅ぼさないでくださいと祈ろうではないか、と互いに声をかけ、悔い改めの態度を示すのです。まずは庶民の間から、この奇蹟の救済が始まりました。イスラエルの民は、神が愛しても愛しても主を裏切り背きに背きを重ねていたのですが。
 
ニネベの人々は、自分たちの国の神ではないのに、天地創造の神が力を及ぼすことを信じて、その主に立ち帰ったというのです。この違いは何なのでしょう。もちろん、ヨナの歩みを際立たせるための脚色である点は否めないでしょう。でも、ヨナのだしに使われるだけのキャラクターとして、この信仰が利用されたのだとしたら、もったいないことです。
 
聖書は人を単なる道具のように自在に扱う、そんな暴君の書ではないと捉えます。この悔い改めの態度が、ただの引き立て役に過ぎないとしたら、まるで道化師です。ニネベの王は、人々の悔い改めを見て、自らもその姿勢をとります。王の衣を脱ぎ捨て粗布をまとい、灰の中に自らの悪を噛みしめます。それから目を開き、その権限を発揮するのです。
 
この神に、国民全体で赦しを乞おうではないか。王の権限で、布告を出したとしています。これは正しい王権の発動となります。王にできる徳と言えば、こういうことであるのです。しかも、家畜も主に叫べと命じます。殆ど戯画的にしか見えない場面ですが、たぶん真剣です。神は思い直してくださるかもしれない。真摯な願いは、神に届きます。
 
こうなると、ヨナの物語の引き立て役にしておくのはもったいないことです。ここから私たちは、自分の姿を見ようではありませんか。40日、つまり神の定めた十分な時を経たら、人は滅びるのです。肉体的な死のことを重ねて考えてもよいでしょう。けれども私たちは、滅びを免れるかもしれません。神の思い直しの例を聖書から知るからです。

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