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大水と主の声

詩編29:1-11 
 
「神々の子らよ」と呼びかけるところから、この詩は始まります。「神々」という表現にはひとくせあるようですが、その意図やからくりについて、きっと研究者はよくご存じなのでしょう。ただ、ここではもう少し自由に想像してみたいと思います。「神々の子らよ」は、以前の訳では「神の子らよ」とされていたので、この複数形には戸惑います。
 
「神々」となると、異教の神々のことのように聞こえます。また、創世記で神が自ら「我々」と称していることからして、主なる神そのものだと見てよい、という人もいます。果たしてこれは、私たちを呼んでいるのか、世界中の人間を相手に呼びかけているのか。簡単に決めつけてはいけないかもしれません。でも、私もまた当事者でありましょう。
 
描かれているのは、主なる神の創造の業の系統にあることだと思います。主とつながりをもつ関係が結ばれるとき、人は救われます。救いへと導かれるのは、必ずしもすべての人ではないと思われます。ただ、この詩を聞いて集まって来た者は、主の力の元に従うことが、ここで求められています。ダビデの眼差しは、主と人の関係に注がれています。
 
目の前に見えるのは、洪水の風景です。雨の少ないと言われる地ですが、雨季にはまとまとまった雨が降ります。固い地盤に注ぐ集中豪雨は、滑り落ちるような大水をもたらします。人とその文明をあっという間に押し流してしまいかねない大水ですが、主は流されることはありません。大水の上に主は在し、地上の災いは遙か下の出来事に過ぎません。
 
その主は、今日に見える形でここにあるのではありません。ダビデはこの主を「声」として知るのです。短い詩の中に「主の声」というフレーズが、七度も現れます。描かれるのは、まずその声が大水の上にあることです。すなわちダビデにとって、主は声として存在する、ということです。この声にもまた、力があるのです。
 
輝くという形容を得た主の声は、木や炎を以て存分に、自然に対する影響を明らかに現します。水の上に、声があります。この声ならば、私たちは聞くことができるでしょう。主に出会うということは、目に見える形で、というよりも、主の声を聞くことで成り立つと言えるでしょう。声によって、私たちは主を知ることができるのです。
 
少なくとも、ダビデはそうでした。聖書を見る限り、殆どの人は、そのようにして主を知っています。主は人の王です。どうか主の名による民に、「力を与えてくださるように」と祈ります。「主がその民を祝福してくださるように」という結びの祈りは、「平安のうちに」と閉じられます。大水の上からの主の声が、私たちに平安をもたらすのです。

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