預言者イザヤの出来事
イザヤ6:1-13
イザヤの幻は恐ろしい。主を見たというのです。神を見た者は命がないと信じられていた文化でしたから、これは怖いことです。しかしこの預言者は、主を見ることで命を受けました。この構造は新約にも受け継がれています。ウジヤ王の死の年と記録されています。悪い王ではありませんでしたが、祭司の職域を侵して不幸な病を背負いました。
イザヤは突如、主の座を見ます。飛び交うセラフィムを見、その歌を聞きました。イザヤ自身、汚れた身でありながら、こうして主を見たことを嘆いています。特に唇の汚れを気にしています。ヤコブ書を思わせます。舌の不義を思う心は、私たちの常でしょう。セラフィムは主を称え、聖なる者と歌います。地は動き、神殿は神秘的な煙に満ちます。
イザヤの許に、飛んでいたセラフィムのひとりが近づきます。祭壇は、焼く献げもののための火があり、炭がありました。炭火がイザヤの唇に付けられます。これで汚れからは解放されるというのです。さあ、もう清められた。罪は無きものとなった。新約の時代の私たちからすると、イエスの十字架の力を受けたような気持ちに重ねたくなります。
洗礼者のヨハネは、罪は取り去られるのに火で焼かれるバプテスマを要すると考えたようですが、その火を以て臨むのは、自分ではなくイエスであると告げました。イザヤは、遣わされる者として、ここから立ち上がることになります。唇の清めの意義は大きかったと言えます。主の声がしました。誰が遣わされるべきか。イザヤは応えます。私を。
主は命じます。では行け。悟るのではなく、ただ聞け。理解するのではなく、ただ見よ。主の言葉を伝える者として、これがどれほど大切なことなのかを知るのだ。人は、何かしら自分が偉くなったかのように慢心してしまうものです。告げる者もそう錯覚するし、聞いた民の側も、また特権的に分かったような自負心に躍らされてしまうものです。
神の言葉を伝えれば、世界は良くなるのでしょうか。いえ、世界は崩れるだろうと知らされます。わずか十分の一だけが残されるだけというのは、なんとも寂しい知らせです。さらにそれすら荒れるに任させるのだとも言われます。これを救うためには、主のひこばえとしての、救いの切り株としての、イエス・キリストの現れを待つしかありませんでした。
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