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証人 (イザヤ43:10-12, ヨハネ16:1-4a)

◆証し

画期的な本が出ています。『証し 日本のキリスト者』という本です。最相(さいしょう)葉月さんというライターの取材によるものです。キリスト者ではなく、聖書についても詳しく知るという立場ではないようです。ただ、キリスト者との出会いを通じて、キリスト教を「信仰する」とはどういうことなのか、という問題に取り憑かれたようになったのでした。
 
そこで全国を渡り歩いて取材し、この本には、結果として135人のキリスト者の「証し」を集めて発行するということになりました。構想10年、取材6年といいますから、只事ではありません。
 
もしもこれが、キリスト教出版社からの取材であったら、どうでしょう。恐らく模範的な信仰の態度を示そうという編集の意図が強く、取材を受ける方も身構えるのではないでしょうか。時に奔放な信仰という形で記事になる場合もありますが、それもキリスト教世界への起爆剤のように、何らかの形でキリスト教の「ためになる」ような方向性が見込まれていると思うのです。
 
しかし、ある種の好奇心から取材を重ねていくこの手法では、取材を受ける側も、もっと襟を開いた形で、いわばあけすけに語っているように見えます。クリスチャン雑誌によく掲載されるような証しとは違い、失礼な言い方かもしれませんが、こんなつまらないことをきっかけに信じたんですよ、という言葉がぽろぽろこぼれてくるのです。また、現職の牧師でありながら、犯罪者であった過去を明かすなど、読んでいてちょっと息を呑むような告白もそこに現われます。
 
発行は2023年の1月でしたが、キリスト教関係者の中で、ようやく最近認知されるようになってきました。なにしろ千頁を超える分厚さで、聖書より重そうです。私は電子書籍で購入しました。軽々と持ち運べます。電車の中で、ちまちま読んでいるという具合です。
 
本のタイトルである「証し」とは何でしょうか。著者は「キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えること」と紹介しています。さすがです。「北海道から沖縄、五島、奄美、小笠原まで全国の教会を訪ね」て、しかも途中からコロナ禍の中での取材という困難を経て、ここにできあがった本です。教会の中でなあなあな関係と情況にあるとお感じの方は、ぜひ触れて戴きたいと願います。建前ではない、本当のことが満ちあふれていると感じるに違いないと思うのです。
 

◆証人

10,12:あなたがたは私の証人
 
お開きしましたイザヤ書に「証人」という言葉が2箇所見られます。和語としての読み方だと「あかしびと」となるでしょうか。「証人」というと、法律の領域で使う言葉であるでしょうが、私たちは日常生活でも、言うことがあると思われます。
 
先の本で著者は、「証し」のことを「キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えること」とまとめた、と挙げました。イザヤ書で持ち出された「証人」も、まさに「神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝える人」ということになるでしょう。神が向けたかの言葉は、私たちとがそうした者である、という断言でした。
 
この「証人」という語は、英語でもそうですが、同時に「殉教者」を表すことのできる語です。そもそも「殉教者」という概念が必要になったとき、そういう人は自分の信仰を証言する人である、という理解があったからそれを用いた、というような事情ではないかと推測します。
 
信仰を続けるならば殺すぞ、と脅されても怯まず信仰を告白する。そのために殺されてしまう。まさに殉教者という意味ですが、かつて信仰の告白が命懸けであった、という様子を伝えてくれる言葉です。いえ、今もなお国や地域によっては、そういうことは現実に起こっているのであって、決してよそ事ではありません。安穏の暮らしている私たちも、自分がキリストを信じている、と言いづらい情況や経験があると思うのです。言えばよくないことが起こる、という懸念でためらうような場面が、きっとあったと思うのです。
 
旧約聖書続編には、その意味で実に酷たらしい場面さえ描かれています。プロテスタントの方々はお読みにならないかもしれませんが、ぜひこうした「続編」には、触れて戴きたいと思います。いま触れた酷たらしい場面の最たるものは、マカバイ記第二の7章です。初めての方は、覚悟してお読みください。
 
イエスの裁判の場面も、思い起こしましょう。引用はしませんが、イエスがこんなことを言ったとか言わないとか、ごちゃごちゃしていました。法律畑の人から説明を受けてみたい気がしますが、裁判としてはあまり体を成していないのではないでしょうか。証人を仕掛けた権力側の思惑も、計画したとおりにはうまく進んでいないようですし、第一、管理国ローマのみが死刑判決を下すことができるという背景の故に、ユダヤ人が死刑を求めるという構図自体が複雑です。目論んだことを実現させようと、いろいろやっているのですが、群衆もただ血に飢えた動物のように、吠え猛るばかりでした。
 
呼ばれた証人たちは、買収されたのか、「偽証者」(マタイ26:60)が次々と現われますが、なかなか証拠立てられません。しびれを切らした大祭司は、イエスの言葉尻を拾うようにして、「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか」(26:65)と群衆を誘導します。要するに、確かな証人がいない、ということをこれは物語っているわけです。
 
神を信じる者は、神の証人として立つことはできるのですが、神を訴える者は、証人を立てることがついにできなかったのです。
 

◆ほかに神はいない

10,12:あなたがたは私の証人
 
イザヤ書の言葉は、いきなり神が人に向けて、重大な任務を突きつけてくるかのように聞こえます。
 
11:私、私が主である。/私のほかに救う者はいない。
 
「神」はやや一般的な名称で、「主」と訳しているのはこの神固有の名前を指している、という場合が聖書には多々あります。あまりそうした意識なしに用いられているような場合もあるように思われます。ユダヤ人自体、神の名をみだりに唱えるべからず、という十戒のひとつを重んじて、神の名を表す4文字に、当初とは違う母音記号を載せて読んでいた、などという解説をご覧になった方もいらっしゃるだろうと思います。「主」も元はそのような、ある意味で読み方を無理矢理変えられた言葉でありますが、よくしたもので、日本語の「主」は、なかなか適切なイメージを私たちに起こさせます。
 
「主人」という意味ですから、これに対する「僕」と訳される語は、はっきり言えば「奴隷」と訳してしかるべき関係にあることになります。この主のほかに、人を救うことのできる者はいない、とイザヤは伝えています。
 
12:私が告げ、救い、知らせた。/あなたがたの中に、ほかに神はいない。/あなたがたは私の証人――主の仰せ。/私が神である。
 
「あなたがたの中に、ほかに神はいない」というのであれば、別の民族の中には別の神がいる、ということが予測されます。しかしこれはむしろ、「あなたがたの中に、外国の神はいない」というように読むべきなのかもしれません。そして続く箇所と併せて見れば、「あなたがたの中に、外国の神はいないが故に、あなたがたは私の証人である」というようにも読む可能性があるように思われます。
 
あなたがたは主の証人である。つまり、「主のあかしびと」であると宣言されていることになるでしょう。これは主なる神がなしたことだ、これは主が告げた言葉だ、そのように証言する者である、というのです。そのような者になれ、と言ったのではありません。あなたがたはもういまこの時点で既に、主を証言する者であるのだ、という力強い言葉が投げかけられているのです。
 

◆私にとり神は

いまなお、私に言わせれば稚拙な「一神教」批判があります。一神教を信じている国々では戦争が起こっている、その神以外の神々を認めないから争いになるのだ、などと。それに対して、多神教の国では戦争があまりなく、寛容の精神があるから、平和に物事を解決できるようだ、というようにも言う者が、昔はたくさんいました。
 
事はそんなに単純ではありません。日本は多神教だから寛容だというのであれば、どうして国家神道が戦争であれほど人の心を狂わせる信仰を押しつけたのでしょうか。神道は元来多神教だと言えます。しかし国家神道は、まるで天皇をのみ神とするような組織化を図り、戦争へと日本をひた走りにさせたのではないでしょうか。
 
しかも、これは今なお信じている人がいるのですが、神道は宗教ではない、というような論理さえ持ち出してきます。殊更には例を挙げませんが、キリスト者であっても戦争で亡くなった人を国家が神道形式で祀るのは、信教の自由を冒すものではない、となどいう考えです。寛容な神道に対して、自分の神の他を認めないキリスト教は心が狭く、わがままである、とでも言いたげな態度です。そうしてキリスト教は、邪教扱いされていくのでした。裁判の場でもそういう扱いを受けていた、ということです。
 
戦時中、国家神道は、他の神々を否定するようなことはしなかった、とされています。こうしてやはりそれは宗教ではなく、習俗のようなものだ、という詭弁を使うわけです。だからキリスト教を信じることは禁止しないぞ、と弁解するのですが、天皇と神とはどちらが偉いか、という問いに対する返答次第では、簡単に牢獄に連れて行くことがまかり通っていたと聞いています。そしてもっと怖いのは、これは権力者だけがやっていたことではなくて、世間全体がそうしていた、つまり誰もが加害者であったことであり、さらに、そのことに気づかずやっていた、ということですが、いまはそこに深入りしないことにします。
 
非常に深い現実問題です。イスラエルの民の神への信仰にしても、この民族に対しては、厳しい態度をとりました。信仰の強制があった、と言われても、それは決して間違いではないでしょう。
 
「あなたがた」との呼びかけだけであったなら、「日本人だから天皇を拝んで当然だ」という論理が正当化できる余地があるように見えます。「あなた」との呼びかけであればどうでしょう。個人の信仰は、集団の慣例と違う場合がありうるはずです。ただ、私が思うものこそが正しいのであって、他はダメだ、と考えることには警戒しなければなりません。教会や教義・信条にもそれぞれ意義があります。かと言って、自分で考えること、自分で体験することを否定してそうしたものに追従するだけでよい、とも言えないように思います。
 
これはとても微妙で、難しい問題です。いまここで結論を出すことはできません。祈り、聞き、噛みしめて問い続けていきたいものです。
 

◆つまずかせないため

さて、2023年に、キリスト教世界一般で伝統的な基準により定められた「復活祭」は、4月9日です。イエスの十字架と復活は、記録によると、間違いなく、この辺りの時期です。そこには「過越祭」が舞台だと明言してあり、その経緯の中で死刑にされたという筋書きを否定することは無理ではないかと思われます。
 
但し、その暦はユダヤの陰暦に基づくものでした。その後世界の標準になった太陽暦を採用するキリスト教側にとっては、時の刻み方がかなり異なる故に、特別な換算が必要となります。できるだけ当時の環境に近づけようと知恵を絞り、キリストの復活の日付について一定のルールを設けました。古く4世紀に定められた方式を採用していると説明されていますが、どうぞ興味をお持ちでしたら、調べてみるとよろしいかと思います。春分の日と満月との関係で毎年復活祭を定めているのだそうです。
 
それで今年は4月9日。決め方がどうであれ、先輩たちが受け継いできたものには、素直に敬意を表したいと思います。このメッセージでも、4月9日の復活祭を見つめながら、イエスの、辛い歩みに従って歩んで行きたいと願っています。
 
ここまで、「証人」ということを、イザヤ書を用いながらでしたが、しつこく辿ってきたのにも訳があります。私たちがイエスの証人である、という点を確認するためです。先に、「証人」という言葉は、同時に「殉教者」を表す、と申しました。私たちは殉教者そのものではありませんが、それにどこかでつながるものであるのだと思います。その点をもう一度歩くスピードを落として、見つめてみましょう。イエスが、逮捕される直前、弟子たちに最後のメッセージを送っている場面です。教会ではよく「告別の説教」と読んでいる、ヨハネによる福音書16章です。
 
1:これらのことを語ったのは、あなたがたをつまずかせないためである。
 
「つまずく」とは、神との間に妨げとなる情況で使われるであろう言葉です。しばしば、神を純粋に信じようとする人の信仰を邪魔して、信じるのを止めさせるようなことを「つまずき」という呼び方をして使います。しかし、この言葉を巡って考えて行くだけでも、一つや二つの説教では済まなくなるだろうと思います。
 
しかしそれでは読み進められないので、イエスが弟子たちの信仰を育てていきたい思いであることを、確認しておくことにしましょう。恐らく筆者ヨハネからのメッセージでもあると思うのですが、この福音書を読む者たちが、イエスにこれからも従ってきてほしい、という願いがこめられているのではないでしょうか。場面としては、イエスが弟子たちに従ってきてほしい、という描写、そして読者に対しては、あなたもこのイエスに従い続けてきてほしい、というメッセージであると受け止めておきます。
 

◆加害者となってしまう

2:人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。
 
ところが、イエスに従わせまいとする勢力が、必ず襲うことをイエスは予告します。それでもイエスに従ってほしい。これは筆者ヨハネの悲痛な叫びでもあったことでしょう。
 
それにしても、ここには由々しき書き方がなされています。「自分は神に奉仕している」と考えつつ、イエスに従う者を殺すだろう、というのです。もちろんこれは、キリスト教徒をその当時迫害していたユダヤ人のことを含む意味で言っているだろうと思うのですが、そう簡単に決めつけず、この言葉によく耳を傾けてみましょう。弟子たちを追放し、殺す者は、どんなふうな心理なのでしょうか。
 
自分は神の側に立っている。自分のすることは神のためである。これは正義である。従って、それに逆らう者は神の敵対者である故に、死ぬ運命にある。自分は神の味方であるから、自分がそいつらを殺すのだ。殺してよいのだ。
 
キリスト教だと? それは新興宗教、カルト宗教ではないか。突然新しい宗教を唱えて、若者や女たちを洗脳して抱え込んでいる。そして自分たちだけが真理を知っているというようなことまで言っている。そんなふうに虚偽を言うから、ユダヤ人たる自分は、被害者になってしまうのだ。それはおかしい。これまでもずっと伝統的に神を信じ、神に仕えてきたのが自分たちだ。これこそ真理だ。真理を汚す者たちはこの世から消してしまえ。
 
落ち着いて聞いていられましたか。キリスト者は、腹立たしくなってきますでしょう。でも、冷静に受け止めた人は、お気づきのはずです。これは正論なのです。なぜなら、いまメジャーになっているキリスト教からして見れば、カルト宗教に対して、いまのような論理をぶつけるかもしれないし、同じような感情を懐くことは十分あり得るからです。
 
新約聖書の中のユダヤ人が、キリスト教を迫害した加害者であるとするならば、いまここにいる私たちも、同様に何かしら加害者になっているという可能性はないでしょうか。これは、問い続けて戴きたい問題です。簡単に「そんなことはない」と言い切ってしまうことが、一番危険なのです。
 
3:彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。
 
私たち自身も「知らない」のかもしれないとは思いませんか。「知る」というのは、すでに学んできたように、ただ頭だけの知識のことを言うのではありません。そういう言葉です。体験的に、全身で関わり、交わり合うような、深い関係づくりに達したことを意味します。私たちは、いえ、あなたは、創造主である神と、イエスとを、そのような深い関係の中で知っていると言えますか。これも、自ら問い直していく必要がある問題だということで、そばに置いておくべき問いであるとしてみませんか。
 

◆思い出す時

4:しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が彼らについて語ったのだということを、あなたがたに思い出させるためである。
 
イエスがいま話しています。弟子たちに、そして私たちに。「その時」が、いつか来るでしょう。自ら正義を標榜する者たちが、イエスに従う者を迫害する様を、目にすることになるのです。その時に、イエスが予め警告しておいたことをよく思い出すように、と話しています。
 
礼拝説教への、私たちの態度を思い返す必要があるように、私は示されます。礼拝説教が、もしも神の言葉が語られる場であるというのなら、その説教の言葉を噛みしめて、それが少なくとも一週間の力とし、命となるはずです。いつか思い出すために語ったのだ、というイエスの配慮を無にすることがないように、私たちは、神を礼拝する場で神から受けた言葉を、命の言葉として、大切に受け止め、胸に懐きたいものです。
 
礼拝中は「お勤め」として説教を聞く義務にあるとでも考えはいないでしょうか。礼拝が終わったら教会を出てどこに行こうか、晩ご飯は何にしようか、そんなことが頭を過らないでしょうか。礼拝後は、「お友だち」と、世間話や噂話をするために集まってケラケラ笑って、命の洗濯でもしているつもりになってはいないでしょうか。説教のことをどうして語り合わないのでしょう。聖書の話を、どうしてしないのでしょう。
 
説教要旨が週報に書かれているとすれば、そこに誤字脱字、あるいは明らかな間違いを見つけたら、報告しているでしょうか。そもそもそれをお読みでしょうか。分からない点や、そこから自分が思ったことを、牧師や周りの人に話すことはあるでしょうか。
 
ええ、そうしたことをなさっている人には、失礼なものの言い方をしてしまったことをお詫び致します。でも改めてお考え戴きたい。いったい、礼拝説教は、何のために語られているのでしょうか。
 
今日のこの拙い話の中からでも、何かがもたらされているはずです。たとえば、イエスは、あなたを救ったのです、イエスはあなたに、救いを体験させたのです、ほかの神などあなたにはありえない、と断言したのです。占いも要らないし、人間の知恵に究極的な助けを求める必要もありません。どんな不都合な情況に陥ろうと、イエスに背を向けるということはない、そういう信頼を胸に歩むことができるのです。
 
キリスト者は、神を知っています。神と出会っています。いままで知らなかった方も、ここで知ったかもしれません。知ってくださると、うれしい。神があなたを愛している、あなたは愛されている、そうお感じになれたら、なによりうれしい。「私のほかに救う者はいない」という神の言葉があなたの胸に入り、膨らんでいったとしたら、とてつもなくうれしい。
 
そして、そのことを確かにご自分の口で肯定していくことが、ここから始まっていくならば、この上なくうれしい。それは、神の証人となることです。「あなたがたは私の証人」だという言葉が、ここに実現し、ここからまた動き始めていくことです。礼拝説教で受けた聖書の言葉が、生活の中で思い出され、咀嚼されていくときに、あなたは、新しい自分になっていくのです。

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