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自分の足で立ち上がる預言者

エゼキエル2:1-7 
 
祭司の子エゼキエルに、主の言葉が臨み、幻を見せられました。不思議な生き物でした。その遙か上に、人の姿のようなものが見えました。エゼキエルに向けて語り始めます。「自分の足で立ちなさい」と、エゼキエルはそれを聞きます。しかし、「霊が私の中に入り、私を自分の足で立たせた」などと言っています。
 
これは、自分の足で立ったことになるのでしょうか。主は自ら命じておきながら、立ち上がらせるために霊を与えています。立つということは、そこから行動を起こすことを聖書では意味します。但し、預言者は主の言葉を預かり、それを語るよう仕向けられた存在です。エゼキエルはここから「反逆の家」へと差し向けられます。
 
「恥知らずで強情」なその群れに、「主なる神はこう言われる」と告げなくてはならないのです。彼らは、それを拒むにしても、ここに確かに預言者がいたことを痛感することでしょう。そう、何も言わないでいたなら、このことすら生じません。主の言葉があったことを知らしめるだけでも、何らかの意味があったことになるはずです。
 
水の上に投げたパンは、無駄になることはありません。そのためにも、預言者は恐れてはなりません。ヨシュアに対して言われたのとはまた違う趣で、エゼキエルは「恐れてはならない」という言葉を受けます。何を言われようが、人間の反逆など神の前では何の力ももたないのです。反逆の家には、しょせん勝利などないのです。
 
「いらくさと棘の中にいても、また、さそりの上に座すとしても」恐れる必要はない、そう主はエゼキエルに言います。反逆の家の言葉など、恐るるに足りません。何を慄くことがありましょう。主の言葉は明るい。果たしてそう簡単に恐怖を克服できるのか、人は訝しく思うかもしれません。しかし、エゼキエルは主の預言者なのです。
 
預言者として立てられるということは、することは基本的に一つです。神の言葉を語ることだけです。それを相手は聞き入れるかもしれないと期待したいけれども、主は「反逆の家」だと呼びました。拒まれることは必至です。でも、主の言葉を語るのです。それは、霊がエゼキエルの中に入って、しかも自分でその足で立ち上がったからなのです。

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