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小泉明郎VR「火を運ぶプロメテウス」感想

◇表現はフラットではいけない。観る側はフラットでなければならない。

タルトに勧められて「AntiDream #2 -祝祭の彫刻-」(2020年)という作品を聴いてから、森美術館「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」(2022年6月-11月)や、角川武蔵野ミュージアム「タグコレ 現代アートはわからんね」(2023年2月-5月)等、このアーティストの作品を観に行ってはタルトとともに衝撃を受けている。


VR上演の機会を知り、2月に運良く体験することができた。


一番怖いのは、人間だけでなくすべての生き物は元来自分の姿が見えないように創られていることに気づいたこと。外界を把握できる眼の位置が顔のど真ん中にある。文明の火(科学)を得た人間にとっては眼自体が、世の中をどう捉えるか、という個のアイデンティティそのものとなっていった。にもかかわらず、私たちは自分の眼が付いた顔を見ることができない。見えるのは腕と手だけ。"手鏡現象"といって、人は死ぬ前に自分の手のひらを見る。
(水面に映る、鏡に映る自分を見ること自体がタブーであり、狂気をひきおこす。近代の自我=文明の火(科学→戦争)の犠牲者のひとりがエゴン・シーレであった。彼の自画像の眼の中には赤い火があり、その火が彼自身を焼き尽くしてしまった。)
明治の日本では、写真に映ることで魂を抜かれると思い込み、レンズを忌避していた。部族がTVカメラを嫌がるのも同様の理由である。今はTikTokやYouTube、オンライン会議で、人間は動いている自分を見ている。しかしそれでも個の輪郭はあいまいなままで、メタバース上でアバターの姿を借りることにも抵抗がない。
しかし、VRで"蝶の網膜を移植"して世界を見ると、眼(光)は世界がはじまる前から外界(自然・宇宙)に偏在していたことを知る。天に眼あり。

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