詳説【無限無気力ループ】


私が無気力に人生を浪費している構造に今更気がついた。

生まれてから高校の半ばまで異常に利己的でエリート志向だった。他者の上に立つためだけに勉強した。同級生よりも大人よりも優秀になろうとした。一方で校則は守らなかったし、得意でない実技教科や部活はふざけてばかりだった。それでも「他者の上に立つ」という目的をもった勉強には相当の熱量を注いでいた。
元男子校の高校に入学し、性差別や周囲の性的自覚を感じるようになると、「全勝したい」が口癖になった。この社会は男は男と、女は女と戦っているけれど私は男も女もすべてに勝ちたい。という意味だ。そしてそれができるのは女でありながら性的自覚や欲求をもたない私だけだ、と思っていた。全勝の定義は経済的勝利だった。

「他者の上に立つこと」「全勝すること」こそが唯一無二の生きる目標であり意味だったのである。


しかし、高校の半ばから方向が変わってくる。様々な学問や人との出会いから「善とはなにか」を考えるようになった。謙虚の美しさに感激したり、信念のために自殺した人に敬服したり、この世を苦とする考えに傾倒したりした。この頃から厭世的になり、勉強もあまりせず、経済的勝利を欲する気持ちは減退した。
それは今思えば普遍的価値への気づきだ。「善」とは時代・地域・人種に関わらない普遍的価値だ。経済的勝利は現代日本で「今は」成立している特殊な価値にすぎない。そして一度、普遍的価値に気づいてしまった私はもう、特殊な価値に価値を見出せなくなった。
その一方で他者と比べて自分がいかに高尚かということを誇っていた。今度は「高尚」という定義で「全勝」を目指し始めた。
ここで厄介なのは経済的価値での「全勝」は努力の方向性や結果が明白であるのに対し、高尚での「全勝」に何ら具体的要件はないということだ。それゆえに、生きる目標や意味として「全勝」が機能しなくなる。すでに高尚な自分であるから、これを如何に守り抜いたまま死ねるか。それだけが問題で働かなくても何もしなくても構わない。


生きるために働かなければならないという考えが一般的だろうが、私は死んでも構わない。今のところは高尚さを守り抜いているから。
そもそも、生きることを絶対としたのは誰なのだろう。苦だらけのこの世に勝手に産み落とされたのに、自殺も許されず寿命を全うしなければならない。これ以上の苦はあるだろうか。
また、人間は自己中心性から逃れられないどうしようもない生き物だ。私自身も「高尚」を盾に他者を否定し続ける俗物の面をもつ。完全にはなれない宿命だ。完全になれない、それ即ち「全勝」が不可能ということで、やはり死を想わずにはいられない。死後の世界で浄土にいけるように現世の苦に耐えるほどの信心深さもない。悲しむ人がいるかもしれないが、私を知っているなら「現世の苦から解放されてよかった」と思ってほしいものだ。


死を想い始めてから長らく経つのに、まだ生きている積極的な理由があるとすれば興味だけ。
この世には知らないこと経験したことがないものがたくさんある。それらに苦を取り除く作用はないだろうが、新たな苦を提供してくれることで持論が精緻になるかもしれない。より高尚な精神で死を迎えられるかもしれない。多くの理解者を得られるかもしれない。
そう思うと他者からの働きかけにはある程度応じてしまう。遊びも仕事もとりあえず行ってみる。そこで一通りの苦を吸収して言葉にする。新しいもののないところには用はない。すぐ辞める。これをひたすらループして、概念や感覚ではなく、経験で絶望するのを待っている。

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