田中菜月

田中菜月

最近の記事

ライバー#2

“矢崎君。久しぶりだね。” 俺は、少し頭痛がすると言って、配信を止めた。それは、”矢崎”というこの場にいるはずのない人間の存在を突きつけられたからだと思った。しかし、iPhoneの画面に暗く映る俺の顔を観ているうちに違う気がしてきた。俺は、俺であるという事を忘れていたのかも知れなかった。 俺は、現実的に会社勤めをしていて、毎日、ゲートに社員証をかざし出社し、それから退勤するまでそれを首に掛けて一日を過ごす。その社員証には俺の顔写真も載っている。でも、俺がその顔を見ることは

    • ライバー#1

      俺は今日もライブ配信をする。理由はない。理由を考えたこともあったが、割った卵に殻の破片が浮いているのを観て、考えるのをやめた。俺にとって、ライブ配信をする理由なんて、卵の殻以下の事なんだと、その時に分かって少し驚いた。ライブなんて言っても大掛かりなカメラがあるわけではない。ただiPhoneのアプリを起動し、ウサギの眼みたいな赤いボタンを押すだけだ。 iPhoneの画面に俺の顔が映る。俺は、ライブを始めるまで何年も自分の顔を観てなかった。毎日、鏡には向かうのだが、顔を観たとい

      • 豪雨前夜#4

        空気が流れ、人が流れると、葉が揺れ枝に縋るようにゆっくりと落ちた。先に、吐き捨てた唾液を纏った黒い液体が色を反射することもなく葉を受け止めた。 秋生は、自分の心持ちについて考えた。 これまでも岡惚れを抜かした女に無碍に扱われる事は、度々、経験済みではあったが、この度の仕打ち(所詮は、好き勝手に岡惚れを抜かしたにすぎぬのだが、、)に関しては腹の中が収まらぬ感覚が全身を激っていたのだった。 その因は、誠に純粋かつ気品高い笑顔を持つはずの遥が、実はシニカルな視線と一種の憐れみ

        • 豪雨前夜#3

          その日の気分は彼の性格を因として余り良いものではなかった。 なぜなら、秋生は異性関係については、事あるごとに、田舎者独特の百姓気質ともいうべき邪推癖を発揮し下衆の勘繰りをくりかえす悪癖があった。 それでも、根がジェントルメンかつ八方美人の彼は、それを面と向かっておくびに出すような事で相手に不快な想いをさせてしまうのは彼のちゃちなプライドが許さず、エチケットとしても弁えていた。 だから、言葉にはせず、表面上は和かに、心の内ではどこまでも猜疑心を滾らせるという一段と質の悪い

        ライバー#2

          豪雨前夜#2

          どういうわけか秋生は幼い頃から猜疑心がとりわけ強くできていた。だから、周囲が甘言を呈してこようものなら否応なく何処までも疑ってかかるのだ。 そんなことだから、結句、A子は秋生のそれを一段と焚きつけてくるのである。 その日、秋生は用意した香水を慎重につけて出かけて行った。 電車を降り、駅から出ると大学へは一本の通りで通じている。 通りには咲き誇った桜が何本も軒を連ね春風に揺らされ花筏を作っていた。 そこに、ほとんどの人間は何の感慨も感じないように実に大儀そうに乗り、各

          豪雨前夜#2

          豪雨前夜

           天井の裸電球が提灯のように灯りを燈らせ、赤くなった秋生の顔を照らしている。 橋下秋生は先の出来事が頭の中で、それこそ、提灯をぶら下げた大名行列の様に巡っていた。 慊りない。 慊りない。 何度も、息を吐くように呟くと、傍にあるスマートフォンを取り上げ、最後にいつ起動したか分からぬ程のSNSを開いてみることにした。 2、3度パスワードを間違えたのちに、もうやく開いてみると、秋生の生まれ育った田舎の顔すら覚えがないような同級の近況を表した写真、文章などが出てくる。それら

          豪雨前夜