「遊び足りない」事が問題なのでは?

画像1 子供の頃の遊びと言えば、テレビゲームは多少あったけれども近所の自然の中での遊びが多かったと思う。春は山で山菜を取り、花見をし、夏は川や海で魚釣りや磯遊び、秋には山でキノコ取りや紅葉狩り、冬は雪だるま作り等たくさん遊ばせて貰っていた。
画像2 五感で感じて喜怒哀楽の感情で楽しみ、探究心や好奇心を掻き立てられた。それは硬く言えば「学び」や「経験」と言えるが、きっとそれは大人が作った造語であり、子供からすれば「遊び」なのである。学校での「学び」や「経験」は「学業」や「部活」と言われ、社会に出るとそれらは「仕事」や「家庭生活」と言われたりする。本質は似ているのに「学業」「部活」「仕事」「家庭生活」と「遊び」は区別される。「遊び」には「〜しなければ」という拘束力やストレスがない。ゆえに自然体でいられる。
画像3 大人になると「経済」や「社会」に振り回されて不自然になり、大切な物を見失いそうになる時がある。「お金」「世間体」「仕事」「社会のルールやマナー」その思考が「SDGs持続可能な開発目標」という不自然な言葉を生んでるように私は思う。もちろん明確な目標とカタチにしないと足並みを揃えることも出来ないし、方向性も見出せないのはわかる。ただその拘束力やストレスに反発したり、それを大義名分に振りかざす者も出て来ると思う。そうではないのだ。もっとシンプルで単純で良いと思うのだ。
画像4 子供の頃、オモチャを乱暴にあつかったり、片付けなかったりしたら親に怒られたと思う。怒られても言うことを聞かなかったら、親は「オモチャを捨てますよ」と言い、子供はオモチャを捨てられる危機感から謝り反省をする。ここが重要。「失いそうになり何が本当に大切か知ること」「謝り反省すること」この二つが大切。
画像5 「失いそうになり何が本当に大切か知ること」とは「オモチャを失いそうになることによって、大切な「遊び」ができなくなると知ること」だから「謝り反省する」。とてもスマートだと思う。大人の硬い言葉の「学び」「経験」「学業」「部活」「仕事」「家庭生活」が前文の「遊び」に入れてみるといい。反発する必要も、それを大義名分として振りかざす必要もない。子供でもわかる判断をしただけなのだから。それが出来ない方は子供にも満たないと思う。
画像6 このように「経済」や「社会」に振り回されそうになったら、まず「遊ぶ」こと。自然の中でたくさん遊ばせていただき、たくさん五感で感じて、たくさん深呼吸して取り入れて、お腹いっぱいにさせていただけたら気付けるはず。自然の大きな大きな懐の中で遊ばせていただいてるし、育てていただいてることに。ところでどんな雑草と呼ばれてる植物も酸素を分けて恵んでくれていること知っていましたか?地球上では炭素の量が限られていて、例えどんなに小さな生物であったとしても生きている間は炭素を保有して存在していることを知っていましたか?
画像7 人間は呼吸しなきゃ生きていけないのです。よくエネルギー問題に対応する策の一つにソーラーパネルがある。山を切り崩し、草木を切り、除草剤で土を殺して他の生物をそこで生きられないような努力をしているようですが、何か勘違いしてませんか?遊び直して世界を見渡して下さい。我欲でおかしな言動してる者たちに付き合う必要はない。ご自分の人生を大切に生きましょう。

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