「怒り」について思うこと

私は先日も自分の「怒り」で失敗してしまったと反省した。
内容は詳しくは書けないけれど、言葉の捉え方が相手と違い、そのわだかまりでお互いに熱くなり言い合いの喧嘩に発展した。
「怒り」は第二の感情とも言われています。第一の感情はその時々で違いますが、悲しみであったり、寂しさであったり、逆に安心であったりします。
「怒り」は電光石火のように沸き上がり、それを我慢するのは一苦労。むしろ一気に発散した方が気持ちもスッキリするし自然でしょ?って思ってしまったり。それでは喧嘩やいざこざばかりになってしまいますね。
怒りは火の粉が降りかかりまわりに燃え広がるかのように、人や言葉や物や出来事を通して伝染して広がるように思えたりもしますが、嘘です。錯覚です。気のせいです。勘違いです。
ただたんに、自分以外の人や言葉や物や出来事のせいにして、それを許さない「執着心」が自分の中に怒りを発生させているんだと私は思います。
だから、「怒り」の元はどう考えても自分です。
「執着心」を手放すこと。
でも「執着心」を手放そうとしても、目の前の出来事に感化されてなかなかそうもいかないと思います。
先日私が思ったのは
怪しい「魔法の鏡」だと思い込んでいたという事。
「魔法の鏡」が自分が見ている世界
「魔法の鏡」を除き込んでるのが自分
その「魔法の鏡」は鏡の中に「怒り」が満ちていたら、鏡を見た者も不思議な力で「怒り」が燃え上がってしまう。だから私は「怒り」の感情が燃え上がる。
そんなワケない。
テレビゲームで敵に攻撃くらって「痛てっ!」って言ってるのとたぶん一緒。
私が思うに「魔法の鏡」じゃなくて普通の「ガラス」なんだと思う。
「ガラス」は目の前で起きた出来事、人、物、言葉
「ガラス」を除き込んでるのは自分の心
「ガラス」の向こう側に相手の心
ガラスは見る角度や光の屈折、見る人の視力や体調によって見え方は変わるかもしれない。
でも確実に言えることは自分と相手はガラスを隔てているから心が影響することはない。
だから「怒り」を発生させる必要はない。
だって本当は皆知っているでしょ?本当に大切なのはガラスなんかよりも「自分の心」と「相手の心」。それだけ。それなら「執着」していた「ガラス」なんて気にすることはない。

それでも、「怒り」が発生したらどうするか?

発生したなら手で丸めてポイっと捨てること。

中国拳法の先生は「それ」を「邪気」と呼んでいました。

先生いわく、基本人間は誰でも生きるうえで常に「邪気」を放出している。だからポイっと捨てること。手で丸めて捨てる仕草をして捨ててもいい。
禅や瞑想、呼吸法で吐き出し放出して、自然から良い気を取り込んで循環させてもいい。神社で払い浄めてもらってもいい。お経を唱えたりしてもいい。

簡単に言ってるようだけど「邪気」は物凄く危険。

人間が発生させるのに人間じゃどうにもならない。

自然の力に常に助けていただき生かされている。

だから感謝して生きましょう。


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