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断絶した日々を過ごしていたら側転ができた話

普遍だと思ってたものが粉々に砕かれるような経験をすると、これまでの価値観とか枠組みが信じられなくなる。実は1〜4月頃の、卒業から入社までの間は、笑えるくらいにそういうことが、ありえないくらい連続していて、色んなことに揉まれまくりました。

全く悲観的ではない!けれど、なんとなく普遍だと信じていたものが次々に壊れていった。そしてここに、空白の時間と、何者でもない自分がある。昨日の事実は今日の事実じゃない。どうやって自分を自分だと信じればいいのかな。そういうことを考えているうちに、自分を統合する暇もなく、あれよあれよという間に社会人になりました。

それからの1ヶ月は目まぐるしく、自分の状況をいちいち批判したり突っ込んだりできなかったです。自我が統合されていないから、リズムも何もない。断絶した毎日は、死ぬほど新しい。全部が生まれて初めて見る景色で、何も繋がらないまま、断絶した「今日」にビリビリと出会いまくっていました。そうやって、判断が追いつかないスピードで毎日が過ぎていき、目の前の状況をぼーーっと眺めるしかできずにいるうちに、4月が終わっていた。

毎日いろんなところを転々としていて、訳がわからないまま色んな価値観や考え方が自分の中に入ってきていて、あたまがボコボコにやられていた。身体は何一つ傷ついていないのに、俯瞰してイメージする自分の身体は傷だらけで立っていて不思議。多分形状記憶でそのうち戻るんだろうけど、自分の形を忘れるんじゃないかと本気で思った。

多分ちょっとした危機だったんだと思う、毎日めちゃくちゃなアドレナリンが出てました。夜中自転車で走ったり、何かを猛烈に書き出したり、訳のわからない絵を描きまくったりしました。自分がこれまでの自分の延長線上にあるために、首の皮一枚で繋がる手段が、制作だったような気がします。

そのうちに「あれ?私は今まで何を信じていたんだっけ?」って、一回赤ちゃんみたいになってしまいました。これまでの記憶を全部忘れてしまうみたいに。脳みそがゆで卵になったみたいに。

そしたら、聞いてください、ある日、側転ができるようになったんです!興奮のあまり、それを漫画にしたりしました。


多分、側転ができるための素地は出来ていたんだと思います。筋量とか体幹とかやり方とか、それがばらばらなところにあっただけで。でも、もちろん体育の授業以来、側転に挑戦したことはありませんでした。

それが、妙な必然性に駆られて、色んなものが一気につながった。絵画のイリュージョンみたいなことが、自分の身体で起こったんだと思います。
一度いままでの思考回路が全部砕けて、バラバラになったからこそ、「側転」という地点で繋がったんだろうな。わけもなく「出来る」って感じて、意味がわからないまま衝動的にやってました。インスタに側転動画を上げたらみんなが褒めてくれたこともあって、余計に赤ちゃんみたいな気持ちになってしまいました。

結局、形状記憶で自分の形を取り戻すのにも、1ヶ月くらいかかりました。へんなパッチワークみたいに、ギクシャクしたまま生活していたけど、周りの人たちが良心的なおかげもあり、5月は元気に過ごしています!とにかく今は、早くコロナが落ち着いて、躊躇なく人と会えるようになったらいいな。

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