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第1話「天気雨を止める者」 #hk_amgs

碧空戦士アマガサ 第1話
(再放送/約2.7万文字)

前回までのあらすじ)
 河崎晴香は超常事件<底なしの水溜り>の調査中、怪人・雨狐と遭遇。戦いの中で晴香は致命傷を負い、地に伏した。それを救ったのは、彼女が探す重要参考人、通称<アマガサ>であった。
 晴香が意識を失う寸前、その<アマガサ>は「変身!」という声とともに、白い光に包まれて──

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第1話「天気雨を止める者」

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 姐さんが大怪我した状態で発見された。あのひとをこんな目に遭わせるなんてゴジラでも無理だと思っていたけど(中略)。姐さんは常人なら全治1ヶ月の傷を1週間で治して帰ってきたけど、他の被害者同様、事件当時の記憶がないらしい。
 ────超常事件対策特殊機動部隊"時雨"活動日報より抜粋

 晴香はトングで肉を1枚掴むと、それを網の上に広げた。ジュウと空腹に響く音。煙が立ち上り、彼女の鼻腔をくすぐる。10秒ほど焼いたところで裏返すと、美味しそうな音は更に大きくなり、彼女を至福へといざなう。

 晴香はきっかり10秒間その音を楽しんだ後、自分の箸で肉を引き上げ、ライスの上に──

「いや姐さん、いつも言ってるけど早いですって」

 晴香の最高に幸福な瞬間に水を差したのは、向かいに座るラグビー選手のような体格の男だった。

 名を滝本晃明(タキモト・テルアキ)、愛称はタキ。晴香の後輩であり、退院した晴香を迎えにきた相棒である。

「それほぼ生じゃないっすか。腹壊しますよ」

「大丈夫、牛肉は完璧だ」

「ええ……」

 ここは晴香の馴染みの焼肉屋だ。ランチタイムには少し遅い時間帯で、店には晴香たちを含め2組しかいない。仕事の話をするには好都合だ。

「えーと、まず報告ごとからですけど」

 晴香が焼肉ライスを頬張る一方で、タキは入院中の出来事についての報告を始めた。

「姐さんの入院中、新たな事件は発生していません」

「え? マジかよ」

 晴香は目を見開き、言葉を続ける。

「こないだまで立て続けだったのに?」

「はい。姐さんが大怪我した時の"超常事件"を最後に、ぱたりと」

「おー。んじゃあこれで事件解決──」

 意気込んで言いかけた晴香は、不意に肺に残った空気をため息に変えた。

「……とは、いかねーよなぁ……」

 "超常事件"。

 その名の通り、超常的な力によって引き起こされたとしか思えない事件のことだ。半年ほど前から散発的に発生していて、ケース01"溶解するビル"、ケース02"殴り合う町"、ケース03"鬼火の行列"、ケース04"底なしの水溜り"──と、発生順にナンバリングされている。ちなみに晴香が大怪我をしたのは04だ。

 いずれも相当な人的・物的被害が出ているが、解決どころか犯人の特定すらできていないのが現状だ。

 一瞬でも期待を持ってしまった自分を恥じるように、晴香は再びため息をつく。

「原因も、犯人も、目的もわからん。結局なにがどうなったら解決なんだろうな、この事件」

「なんつーか、まるで災害っすよねぇ」

 焼き過ぎた(晴香基準)肉を取りながら、タキがぼやいた。晴香は「そうだな」と同意したが──その目つきは厳しかった。網の上で焼ける肉を睨みながら、彼女は言葉を続ける。

「まぁただ……これを単なる災害で片付けたんじゃ、被害者も浮かばれねーよ」

 晴香は自分の身体に刻まれた大きな傷に想いを馳せる。自分は生き残った。だが──

「……タキ、今回の被害者は?」

「あ、えーと……重体2名、重傷6名、軽傷5名……そして、死者4名。死者の中には子供も」

「……そうか」

 晴香はそう答えると、網の上の肉をまとめてつまみ上げ、自虐するように呟いた。

「現場に居合わせておきながら、この被害。……いや、この失態、か」

 そして椅子に背を預け、乾いた笑いを浮かべた。

「なにが<時雨>副隊長だか。役ただずもいいとこだ」

「姐さん……」

 どう言葉を返すべきかわからず、タキもまた網の上の肉を取りあげた。

 <時雨>──正式名称、警視庁直属超常事件対策特殊機動部隊は、超常事件の調査、解明、そして解決を目的とした特殊部隊である。

 晴香は副隊長、タキはIT顧問の任につきながら、前衛部隊として現場の調査を行なっている。先日晴香が超常事件に出くわして大怪我を負ったのも、その調査の途中でのことであった。

 しばしの沈黙の後、先に口を開いたのはタキだった。

「……あ、えーと……そういえばですね」

 タキは生肉を網に並べつつ、晴香に視線を向ける。後悔と自虐の表情のままの晴香に、タキは強いて明るい声で問いかけた。

「隊長から、姐さんから事件当時のことを聞いてこいって言われまして──」

「残念ながらなーんも覚えてない」

 食い気味に断言した晴香の言葉に、タキは大きくため息をついた。

「ですよね……」

 早々に肉を裏返す晴香を見ながら、タキは再度の溜息と共に言葉を続けた。

「他の生存者も、事件当時の記憶なしだったんですよね……いつものように」

 超常事件の共通点は二つある。

 ひとつは、事件時間帯の記憶と記録がぽっかりと欠落しているということ。生存者の記憶は勿論、現場の監視カメラ映像ですらその時間帯ブラックアウトするという徹底ぶりで、そのおかげで調査が遅々として進まないのだ。

 タキの言葉に、晴香はしばし宙を見つめ……言葉を選びながら、口を開く。

「不思議な感覚だ。記憶にモヤが掛かってるとかじゃなく、そこだけ真っ暗な……そうと知らなければ、記憶がないことすら気付かないかもしれない、そんな欠落がある」

「欠落」

「そう。そしてその欠落に集中したとき……ふと、思い出すんだ」

 晴香はそこで言葉を切り、水を一口飲んで。

「……天気雨が、降っていた」

「天気、雨……」

 その言葉をタキは深刻な顔で反芻した。

 被害者の証言に"天気雨"という言葉が現れる。それは超常事件の被害者の、ふたつめの共通点だった。

 記憶の欠落と、逆に残された"天気雨"の記憶。それらが超常事件を迷宮入り事件にせしめ、<時雨>が手を焼く原因であった。

「ちなみに、記憶って実際どこまであるんです? 雨が降ってきたトコとか?」

 タキの問いかけに、晴香は「んー」と少し考えて。

「<アマガサ>の尻尾を掴み、中央公園に踏み込んで……そして、天気雨が降ってきて……そこまでだな」

「<アマガサ>……"白い雨合羽の男"っすか」

「そう」

 タキの確認するような言葉に、晴香は頷いた。

 <アマガサ>とは、とある超常事件の現場映像で、晴香が偶然発見した男の呼称だ。

 その日は晴天であり、天気予報も軒並み晴れだった。それにも関わらず、その男は白い雨合羽を羽織り、手に傘を持って現場付近を歩いていた──まるで、雨が降ることを知っていたかのように。

 その後の調査で他の事件発生時にも現場付近にいたことが確認されており、一連の事件の重要参考人、もしくは犯人と考えられている。

 晴香は焼きすぎた(晴香基準)肉を引き上げながら、タキに問いかける。

「<アマガサ>探しの状況は?」

「んーと。足で探すのにも限界があったんで、乾さんと協力してちょっとしたシステムを組み上げ──おっと」

 説明を切ったタキは、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。画面には『乾 慎之介』の文字。

「ちょうど、噂の人からです。もしもし」

『お疲れ様、乾です。ちょっといいかな?』

 電話の向こうから聞こえてきたのは、明朗な男の声。<時雨>の諜報班長および後衛指揮を担当する男、乾慎之介だ。

 タキは乾の問いかけに「大丈夫っす」と答えつつ、スピーカーモードにしたスマートフォンをテーブルの上に置いた。

「晴香さんも一緒です。スピーカーにしてます」

『あ、退院おめでとうございます晴香さん』

「おう。飯食いながらだけど、いいか?」

『問題ありません』

 乾は生真面目な敬語で晴香に答えた。年齢的にも年次的にも乾のほうが上なのだが……曰く、「副隊長だから」だそうだ。

『では晴香さんへの報告も兼ねて……アマガサを追っていた晴香さんが大怪我をしたことから、彼の捜索は最優先だという結論に至りました』

 電話越しに乾が説明をはじめた。

『それで──アマガサの見た目の情報を元に、街頭監視カメラ映像を使った捜査・追跡システムを構築しました。……で、タキくん、先ほど最終チェック終わり。オールクリアだ』

「マジっすか! 良かったぁ」

 タキが安堵の声をあげる中、乾は『それでですね』と言葉を続けた。

『連絡したのは、テストも兼ねて、タキくんの姿を追跡してみようかなと思って』

「お、じゃあこれから戻るんで試して──」

 タキが身を乗り出し、なにやら言おうとした──その時だった。

「ごちそうさんでしたー」

 店内にいたもう1組が席を立つ。4人組のうち3名は先に外へ出て、ひとりがレジの前に。「あいよー」と店長の間の抜けた声が奥から聞こえてくる。

 晴香は、なんの気なしにそちらに目を遣った。そして──

 レジ前に残っていた男が、金を払わずに店から飛び出した。

「あーっ!?」

 店長の悲鳴が店内に響く。

「おいおい集団食い逃げかよ!?」

「タキ、荷物頼む。乾、続きはインカムで」

 狼狽えるタキに向かい、晴香は伝票を投げつけながら立ち上がる。

「ちょ、ちょっと姐さん!?」

「店長、あいつら捕まえたら特カルビ奢りな」

 頭を抱える店長の肩を叩くと、晴香は店を飛び出す。同時に届いた甲高いエンジン音に、晴香は視線を遣った。

 集団食い逃げ犯たちはスクーターで逃げ出したようだ。300メートルほど先に、信号無視して走り去る姿が見える。

「よし……行くか」

 晴香はトン、トンとその場で跳躍すると、そちらへ向かってスプリントを開始した。

 ゴウと響く風の音。周囲の景色が流れる。快調に動く足。通行人を追い抜いて、晴香は走る──と、イヤホンマイクから乾の冷静な声が聴こえてきた。

『事件ですか?』

「ああ、食い逃げだ。男4人組で──」

『姐さんちょっと! 病み上がりなんスから!』

 乾と晴香の会話を遮って、タキの声が耳をつんざく。思わずバランスを崩した晴香は慌てて姿勢を整えつつ、マイクに怒鳴り返した。

「やかましい、リハビリだ!」

 晴香は走る速度を上げる。ママチャリを追い抜き、蕎麦屋の配達を追い抜き、先ほどスクーターが走り去った交差点を越え──さらに速く、速く。

 体調は良好。傷ももう痛くない。完璧だ。

「乾、例のシステムの試運転だ。対象は──」

 指示を出しつつ、晴香は聴こえてくるエンジン音を頼りに最短ルートを推測。手近な路地裏へと飛び込むと、速度を落とすことなく駆け抜ける。ゴミの山を飛び越え、人ひとりぶんの細い道を抜け、そして数秒後、イヤホンマイクから乾の声が聞こえてきた。

『捕捉しました。対象は三丁目交差点付近まできています』

「オーケー、すぐそこだ」

 晴香は不敵な笑みと共に答えた。

『もはやシステム関係ないじゃないッスか……』

 タキの声は無視して、晴香は立ち止まると大きく息を吐く。即座に息を整えて、彼女は目の前の路地を睨みつけた。

 それは、雑居ビルに挟まれた細い道だ。幅は両手を広げられるくらい、奥行きは5,6歩分ほど。そして突当りには高さ3mほどのフェンスがあり、その向こうには大きな通りが見える。目的の"三丁目交差点"だ。

 晴香は耳を澄ます。エンジン音が近づいてくる。

「……よし、行くぜ」

 叫び、晴香は加速した。全力の助走の後、力強く踏み込み、壁を三角飛びで蹴り登った。そして猫の如くフェンスの上に着地し、一瞬だけその動きを止めて。

『三丁目交差点に他に車両はいません。イケます!』

「ナイス」

 完璧なタイミングで、イヤホンマイクから乾の声が聞こえた。

 よくできた部下だ。晴香は笑い──足場を蹴って、大通りに向かって跳躍した。

 鈍化する時間の中、晴香は空中で対象を捕捉した。二人乗りスクーターが二台。前のスクーターの運転手が、飛び出してきた晴香を見上げている。そして──

「どぉおおりゃああっ!」

 晴香は気合の声と共に、その運転手の首を蹴り飛ばした。

「うおおおっ!?」

 悲鳴をあげながら、食い逃げ犯の二人が車道に投げ出される。晴香は地面に転がって衝撃を殺し、即座に立ちあがった。部下からの連絡通り、周囲に車両はなかった。

「な、なんだテメェ!?」

 後続のスクーターが急ブレーキをかけ、二人が降りてくる。

「なぁに、正義の焼肉好きだ」

「おまっ……あの店から追っかけてきたのか!?」

「当たり前だ。白昼堂々、食い逃げ、原付二人乗り、信号無視。後ろのやつはノーヘルか? いい度胸してるなおい」

「るッせぇ!」

 男達は二人同時に晴香に殴り掛かった。しかし──遅い。

「ぉラァッっ!」

 晴香の後ろ回し蹴りが、片方の腹部を捉え、突き刺さった。更に反動を利用して繰り出された掌底が、もう片方の胸部を強かに打ち付ける。二人の男は声すらあげられないまま、白昼の路上に倒れ伏した。

「よしよし、全然動ける。完治だな」

 晴香は上着を正しながら呟いた。と、その時。

「ば、化け物かよ!?」「おい逃げっぞ!」

「あ!?」

 振り返った晴香の目に飛び込んできたのは、フラフラしながら逃げていく二人の男の姿だった。先刻スクーターごと吹っ飛ばした二人だ。対向車線まで吹っ飛んだ彼らはスクーターを放置したまま逃げていく。

「ちっ、死んでなかったのかあいつら!」

『姐さんそれ完全に悪役のセリフです』

 タキの言葉は無視し、晴香は道を渡ろうとする。しかし、折悪く車が通りかかり、阻まれてしまった。舌打ちした晴香の視線の先、犯人たちはヨタヨタと通りを歩いていき──その進路上に、人影。

「邪魔だオラァッ!」

「どけッ!」

 その人影は、男だった。道に迷ったようにキョロキョロしていて、威圧的に怒鳴る犯人二人組のことに気付いていないように見える。明らかに危険な状況だが──

「……ん?」

 晴香の動きは、そこで止まった。

 一瞬、それが見間違いかと思った。

 その人影は、白い雨合羽を着て、左手に番傘を携えていた。

「どけッつってんだろてめぇ!」

 そうこうする内に、犯人のひとりがその男へと至り、怒鳴り声と共に突飛ばそうと手を伸ばす。

「あ、やべぇ」

 気を取り直した晴香は呟き、駆け出しかけたが──それは杞憂であった。

「おっと」

「んナぁっ!?」

 白い雨合羽の男は犯人の攻撃をひょいと避け、その足を的確に払ったのだ。驚きの声をあげながら、犯人が地に這いつくばる。

 そして彼は右手に持った扇子でパタパタと顔を扇ぎながら、転倒した犯人の背中を思いっきり踏みつけた。

「ゲアッ……」

「なっ!? なにしやがンだてめぇ!」

 カエルのような声と共に昏倒した相棒を見て、狼狽したもう片方が殴りかかる。

 白い雨合羽の男は、その拳を手にした扇子でパシリと防いだ。

「んなっ!?」

「こら、危ないでしょ」

 彼は扇子を素早く畳み、犯人の手首を打ち付けた。

「痛って──」

 犯人が体制を崩し、悲鳴をあげた直後。

「よっと」

 白い雨合羽の男は、犯人の側頭部に見事なハイキックを叩き込み、昏倒させた。

 晴香は立ち尽くしたまま、その一部始終を見届けた。そして唖然とした表情で、イヤホンマイクに向かって、呟いた。

「お、おい……乾」

『はい、見えてます。あれは……」

 唖然とした様子の晴香の言葉に、カメラ越しに状況を見ていた乾が同意した。

「<アマガサ>……だよな」


***


「すまない。助かった」

 晴香は警察手帳を掲げながら、その男<アマガサ>に話しかけた。

 茶髪の、背の高い男だ。年齢は二十過ぎくらいだろうか。纏う雰囲気は柔らかだが、それと裏腹に目つきは鋭い。映像で見たのと同じ白い雨合羽を羽織り、左手には赤い傘。近づいて見ると、それはどうやら古びた番傘のようだった。

 アマガサは晴香の顔を見て、少し驚いた顔を見せた。しかしすぐにそれを引っ込め、代わりに出てきたのは少しぎこちない笑顔だ。

「え……警察の方……だったんですか?」

「ああ、一応な」

 相手は一連の事件の重要参考人であり、もしかすると自分に大怪我を負わせた人間かもしれない。晴香は最大限の警戒をしつつも、それを悟られぬようにっこりと微笑み──まずはジャブを打つ。

「ちなみに、どこかで会ったことあるっけか?」

「えっ!? い、いや、はじめましてですよ!」

「そうか、気のせいかな。変なこと聞いてすまない」

 ──こいつ、私のことを知っている。

 笑顔で誤魔化しながら、晴香は内心で確信した。作り笑顔のその男は少し視線を泳がせた後、取り繕うように言葉を続ける。

「そっ……それよりあの。これって正当防衛になります?」

 "これ"とは勿論、ふたりの食い逃げ犯だ。二人ともアマガサの足元に転がって、気を失っている。晴香は足元に視線を遣り、にっこり笑顔のままアマガサに答える。

「もちろん。こいつら、食い逃げの現行犯でな。……あ、あと暴行未遂か」

 言いながら、晴香は握手を求めるように右手を差し出した。

「本当に助かったよ。ありがとう」

「いやぁ、そんな大したことでは──」

 言いながら、アマガサはその手を握り返して。

 その瞬間、晴香はその手に万力のごとく力を込めた。

「痛てっ……!?」

 アマガサが小さく悲鳴をあげた。晴香は笑顔を引っ込めると相手を睨みつけ……低い声で言い放った。

「公園では世話になったな」

「えっ!?」

 これも勿論カマかけだ。相変わらず晴香には当時の記憶はないし、アマガサがそこに居合わせたかも知らない。

 しかし、どうやら彼は、割と素直な性格らしい。

「お、おおお覚えて……るんですか?」

 ──ビンゴだ。

 晴香は手を握る力を強めた。アマガサはあの時公園にいて、そして晴香の怪我と、記憶の欠落を知っている──否、関わっている!

「当たり前だ。お前のせいでこっちは大変だった」

 これも勿論嘘だ。……いや、大変だったのは本当だが。

「ええっ……!?」

 ともあれ効果は絶大だったようで、アマガサはなんとか逃げようと手をよじり、その視線はキョロキョロと落ち着かない。

 案外素直なやつだな……などと思いながら、晴香は右手にさらに力を込め、冷たく言い放った。

「お前は重要参考人だ。本部まで来てもらいたいのだが」

「そ、それは……──」

 その瞬間、アマガサの右手が抵抗をやめ──刹那、晴香の視界の端に、殺気。

「っ!?」

 晴香は咄嗟に屈み込む。頭上を掠めたのは、アマガサの左脚だ。

「それは、困る!」

 手を握られたまま繰り出されたハイキックは、その不自然な姿勢ゆえ大した威力はなかった。しかし、反動で晴香の拘束が外れるには十分だ。

「っ……こいつ!」

 晴香は慌ててアマガサに掴みかかるが、彼はひらりとそれを回避する。

「ごめんねオマワリさん、俺急いでるから!」

 彼はそう言うと踵を返し、レインコートを翻して駆け出した。が──同時に晴香が、叫ぶ。

「タキ!」

「ほいさ!」

 晴香の指示で飛び出したのは、物陰に隠れていたタキだった。そしてその大きな身体で、アマガサを抱きとめる!

「どあっ!?」

「観念しなっさい!」

 ニヤリと笑ったタキは、そのまま両手でアマガサを締め上げる。

「あだだだだだ!?」

 悲鳴をあげるアマガサを、タキは抱きとめたまま持ち上げた。その男はじたばたと暴れるが、タキの怪力は緩まない。

「よーしタキ。そのまま離すなよ」

 晴香はポキポキと指を鳴らしながら、その男へと歩み寄る。アマガサはなおももがいていたが──

 その抵抗が、不意にやむ。

「……仕方ない」

「お?」

 首を傾げた晴香の前で、アマガサは左手に携えた番傘から手を離した。その傘が重力に引かれて地面へと引き寄せられる。

 そしてアマガサは、"それ"の名を呼んだ。

「"カラカサ"!」

 番傘が地面に激突する、その瞬間。

『おうよ!』

 番傘が、喋った。

「は?」

 驚く晴香とタキの目の前で、番傘がぴょんと跳ね上がる。その表面にぎょろりと目が開き、口が開き、舌が出て──カランと持ち主の傍に着地する。

『任せろい!』

 そいつは人語を発したのち、タキをボコボコに叩きはじめた。

「いでででで!? なんだこいつ!?」

『湊斗を離せこのデカブツ!』

 唖然とする晴香の見る前で、全身を殴られたタキの拘束が緩み、アマガサの両足が地面を踏みしめる。

「今だっ……!」

 アマガサは声をあげ、お辞儀するように姿勢を倒す。重心がスイと移動し──その背中越しに、タキの天地が入れ替わる。

「うっそぉっ!?」

 タキはそのまま悲鳴とともに、晴香の眼前へと投げ出された。

「どわぁああぁっ!?」

「あぶねっ!?」

 晴香は慌てて跳び退がった。タキは背中からドスンとアスファルトに叩きつけられ、そしてその一瞬で──

「じゃあねオマワリさん! もう会いたくない!」

『おとといきやがれだ!』

 アマガサと謎の番傘は捨て台詞とともに姿を消してしまった。

「やられた……!」

 晴香は毒づき、倒れたタキを助け起こした。

「……痛ってて……すんません……」

「探すぞ、タキ。まだ遠くには行ってないはずだ」

 鼻頭を抑えたタキは、晴香の指示に「了解っす」と答えたが……すぐに足を止める。

「……いや姐さん、それどころじゃないです」

「あ?」

 先行していた晴香が振り返る。タキが指さす先には気を失った食い逃げ犯。対向車線にもう二人。辺りを見回せば、事故の音を聞きつけて野次馬も集まってきている……。

「あー……」

 晴香はしばし、自分の仕事と警察関係者としての使命を天秤にかけ……頭を抱えながら、事後処理を開始したのだった。


***


 それから、1時間ほど経って。

「いやぁ、こうも簡単にアマガサが見つかるとは!」

「いいから前向いて運転しろ」

 <時雨>の社用車の中で、晴香とタキは言い合っていた。目指す先はアマガサの現在地と目される地点。食い逃げ犯の処理をしている間、本部に居る乾が件の捜索・追跡システムでアマガサを見つけていたのだった。

『最後に検出されたのは、そのあたりでした。10分ほど前です』

「オーケー。サンキューな」

 乾の無線に礼を言いながら、晴香は辺りを見回した。

 辿り着いたのは、オフィス街の中央──様々なオフィスビルに囲まれた広場のような場所だ。時刻はちょうど昼過ぎで、車内からざっと見回しただけでも結構な数のサラリーマンが付近を歩いている。

「いやマジ凄くないっすか? 流石俺って感じ!」

「はいはいそうだな。おら、行くぞ」

 鼻にティッシュを詰めたままのタキの自画自賛を適当に受け流し、晴香は扉に手を掛け──その時だった。

 ボタリ、と。

 フロントガラスに雨が落ちる。

「ん?」

「あれ、雨っすかね」

 二人が怪訝な声をあげる中、フロントガラスを叩く雨粒は瞬く間に増えていく。

「うわ、土砂降り……」

「……おい、タキ」

 声をあげるタキの声には応えず、晴香は空を見上げていた。

 ──太陽が輝く、青い空を。

「天気雨……!」

『……ザッ……晴香さザザッ……無線ザッ』

 晴香が呟くのと時を同じくして、車載の無線が急激に不安定になり、乾の声が途切れる。突然の雨に慌てたように、周囲のサラリーマンたちが軒下を目指して移動を始める中──"それ"が起きた。

 天気雨によって生成されたいくつかの水溜りが、虹色に輝きだした。突然の状況にサラリーマンたちは戸惑い、あたりを見回し──そして水溜りから、黒い水柱が立ち上がった。

「なっ……なんだ、これ?」

 タキが声をあげる間にも黒い水柱は徐々に変化し……形を変える。

 それは、のっぺりとした黒い怪人だった。質感としては水に濡れた粘土に近いが、天気雨に打たれて広がる波紋は水面のそれだ。

 ノッペラボウのような顔を持ったそれは、全部で6体。中でも、その手に刀めいた武器を持つ者がいるのを見て取り、晴香は自らの胸──先日の大怪我の跡に手を当てた。

「化け物……」

 突然出現した異形に、サラリーマンたちは驚きの声をあげて逃げてゆく。

「よ、よくわかんないけど、とにかく避難誘導とか──」

 シャンッ。

 言いかけたタキの言葉を、澄んだ音が遮った。同時に、混乱し逃げ惑っていたサラリーマンたちがピタリと動きを止める。そして、まるで糸が切れた人形のように項垂れた。

 再び、澄んだ音。晴香は音の出所を探して辺りを見回す。そして目を止めて、眉を潜めた。

「……なんだ、あいつ?」

 広場の中央、黒い人型たちの中心に、烏帽子を被った狐面の男が立っていた。そいつは夜色の平安装束に身を包んでおり、右手に持った錫杖を地に突き立てている。

「え? どれっすか」

 怪訝な顔の晴香を見て、タキもまた「なんか見るからにヤバそうっすね」などと緊張感のないことを言っている。

 黒い人型たちは、烏帽子の狐男を守るように囲んでいる。怪人たちの司令塔かなにかのようであり、それを見た晴香はひとつの可能性に思い当たった。

「……もしかしてあいつ、<アマガサ>か?」

「え、あー……まぁ、あり得ますね……」

 タキも曖昧に同意する。

 超常事件の現場に必ずおり、天気雨が降ることを知っているかのように振舞い、そしてなにより人外(妖怪?)の力を行使できる者。

 仮面で顔は見えないが、背格好は近い。可能性は十分にある。

 晴香の中で疑念が膨らむ中、烏帽子の男は錫杖を掲げると、再び地に突き立てた。

 澄んだ音が、辺りに響く。

 同時に、サラリーマンたちが動き出した。彼らはゆっくりと振り返り……手近な者を、全力で殴りつける!

「なっ──」

 ほぼ同時に広場に響いた打撃音は、晴香の声をかき消すほどの音だった。殴られた者たちは首が曲がり、明らかに無事ではない。殴った方も、拳が妙な方に曲がっている者もいる。

 しかし今度は、先に殴られた方がヨタヨタと間合いを詰めると、相手を殴り返す。一部の者はそれを防ぎ、カウンターの一撃を見舞う。殴り合い、そして、蹴り合い。

「ちょっ……これって……!?」

 錫杖が繰り返し突き立てられ、その音色が早くなる。それはまるで戦太鼓のように人々の闘争を煽り、戦乱の波は瞬く間に広場中に拡大し──ものの数秒で、そこはすべての者が殺しあう戦場と化した。

「お、おいおいおいおい、こいつはまさか……」

「ケース02!?」

 思い当たった晴香の言葉を、タキが叫んだ。

 ──ケース02<殴り合う町>。

 それは、とある住宅地で発生した超常事件だ。すべての人が殴り合いをはじめ、通報者も、目撃者も、そして最終的には止めに入った警官たちまでもがその戦いに参加したという。

 被害者は原型がなくなるまで殴打された者が多かったが、一部には刃物で身を裂かれた者もいたと聞く。

「……まさか」

 晴香が思い当たり、視線を巡らせたまさにその時。烏帽子の狐男を守るように立っていた黒い人型たちが、おもむろに動きだした。

 そしてそれらは無造作に、手近なサラリーマンを刀で斬り裂いた。

 夥しい量の血を流しながら、サラリーマンのひとりが倒れる。周囲で乱闘していた人々はそれを呆然と見つめ──次の瞬間には、闘争の矛先を黒い人型へと向け、殴り掛かる。

 その光景を見て、晴香は瞠目した。

「あいつら……逃げる気はないのか!?」

 明らかに正常ではない。人々は奇声をあげながら黒い人型に殴りかかり、次々に斬り裂かれ地に伏してゆく。他の怪人たちの周囲でも同様に殺戮が始まった。広場中に、人と人、そして人と人外の戦いが蔓延してゆく。

 烏帽子の男は、ただ淡々と錫杖を突きながら、その光景を見つめていた。

「や、ヤバいっすよこれ! マジで死人が……って姐さん、伏せて!」

「っ!?」

 咄嗟に頭を下げた晴香の頭上、車のガラスが叩き割られ、なにかが突っ込んできた。その背に窓ガラスの破片が降り注ぐ。

「ちっ……!?」

 舌打ちとともに顔をあげる。サイドガラスを突き破ったのは、暴徒の頭であった。左目が潰れ、額から夥しい血を流している。

「ンどぁぁぁ!?」

 タキの悲鳴に振り返ると、そちらも割れたガラスから伸びる暴徒の手を振り払っていた。晴香は突っ込んできた暴徒の胸を押して弾き出すと、後部座席へと避難する。

「ゾンビ映画苦手なんすよ俺ぇ……」

 遅れてタキも転がり込んできて、身を隠すように体制を下げながら泣き言を言う。そして、ふと思いついたように呟いた。

「……俺らも噛まれたりしたらああなるんすかね?」

 その言葉を聞いて、晴香の脳裏に疑問がよぎる。

「つーかむしろ、なんで私らは正気なんだ……?」

「え? そりゃあ……」

 言いかけて、タキはそのままフリーズする。目があちこちに泳いで、最終的にその視線は晴香を捉えた。

「……雨を浴びてないから、とか?」

「そんなバイオテロみたいな──……ん?」

 言いかけて、晴香はふと言葉を止めた。

「……泣き声?」

「え?」

 錫杖の音と暴徒たちの怒声が響く中、晴香は耳を澄ました。そして、その声を聞き届ける。

 ──助けて! こないで!

 その声は、子供の泣き声だった。

「……っ!」

 晴香は即座に音の出所へと視線を巡らせる。そこは暴徒たちが群がる軒下で、"正気"の人間が抵抗しているようだ。

 さらに晴香の視界では、例の黒い人型が刀を手に歩いていくのが見える。

「──やべぇッ!」

 気づけば、晴香は車から飛び出していた。

「あっ! 姐さん!?」

 タキの声を置き去りに、晴香は疾走する。立ちはだかる暴徒のひとりを殴りつけ、掴みかかってきた暴徒を投げ飛ばし、黒い人型に向かって手を伸ばし──

 シャンッ。

 その時、錫杖の音が響いて。

「ッ……!?」

 晴香の身体は、手を伸ばした体勢のまま動かなくなった。身体から力が抜けてゆく。糸の切れた人形のように項垂れる晴香に気付いた黒い人型が、ゆっくりと振り返った。

 ──ズグン。

「……ッ……アッ……!?」

 晴香は顔をしかめて呻いた。ズグン、ズグンと重い鼓動に合わせて、視界が赤く染まっていく。頭の中を無数の虫が這い回るような不快感が晴香を苛む。そして、なにかが砕ける音、人々の悲鳴、怒号、銃声、肉が潰れる音など……ありとあらゆる異常で不快な音が、彼女の聴覚を支配する。

 いやに澄んだ錫杖の音が、その不快感を増長させてゆく。様々な負のエネルギーが晴香の精神に洪水のように押し寄せ、すり潰し、追い詰めてゆく。

 苦しみ出した晴香に対し、黒い人型は刀を振り上げ──

「晴香姐さんの暴力ゴーリラー!」

「──っんだとこらタキィ!」

 不意に聞こえたタキの声に、晴香は反射的に怒鳴った。同時に身体に力が戻る。

「……っ!」

 正気に返った彼女は、振り下ろされた刀を紙一重で側転回避した。そのまま急ぎ軒下に転がり込む。

 晴香は、不快な感覚が消え去ったことに気付いた。

「マジでこの雨が原因か……うおっ!?」

 呟いた晴香の鼻先に、怪人の追撃が襲いかかる。半身をずらしてそれを回避すると、晴香は流れるように、怪人にカウンターの一撃を叩き込んだ。

「ぉらァッ!」

 その拳が狙い違わず相手の顎へと吸い込まれ──

 ぱしゃん。

「は?」

 それはまるで、水の塊を殴ったような手応えであった。怪人の顔が爆ぜ、そしてすぐに元に戻る。そのノッペラボウのような顔が、笑った気がした。

「ッ──!」

 咄嗟に身を捩った晴香の肩を、振り上げられた刀が斬り裂いた。衝撃で晴香は後ろ向きに、軒下へと倒れこむ。

 ──追撃が来る!

 晴香は痛む右肩を強いて、地面を転がって。

「………………あれ?」

 来るはずの追撃がこない。見ると、怪人は晴香に刀を向けつつも、そこから踏み込んではきていなかった。

「なんだ?」

 怪訝な顔をした晴香に、怪人は構えていた刀を引き、そばにいる他の暴徒へと顔を移す。

「っ……やべぇ!」

 声をあげ、晴香は正気の人々を取り囲む暴徒たちの方へと駆け出した。

(……さっきのこいつの動き……もしかして)

 晴香は思案しながら、黒い人型が斬ろうとした暴徒の首根を掴み、軒下へと引っ張り込んだ。後頭部を打ち付けられ、暴徒が昏倒する。すると怪人はどこか口惜しそうに、他の暴徒へと標的を変えた。

「やっぱし……こいつ、軒下に入れないのか」

 呟く晴香は、本来の目的である救出対象の元に到着した。

 軒下で、ひとりの女が小さな女の子を守るように抱きかかえている。そして二人を守るように、父親と思しき男が、暴徒たちに向かって旅行鞄を振り回していた。

「ッオラぁっ!」

 晴香は、父親にしつこく縋る暴徒の胸ぐらを掴み、顔面に拳を叩き込んだ。そして別から襲いきた暴徒の腹に蹴りを見舞う。白目を剥いた二人の暴徒を、晴香は念のため軒下に投げ込んだ。

「あっ……ありがとうございます!」

 父親は、満身創痍の様子で晴香に礼を言った。彼も、そして軒下で抱き合って震える母娘も、スーツではない。旅行者然とした服装である。

「観光客か」

「は、はい……!」

 黒い人型がこちらへと向かってくる。晴香は足元に転がっていた三角コーンを拾い上げながら、旅行者へと声を投げた。

「おい、とりあえず軒下通って、建物の中に逃げろ」

「え、し、しかし──」

「いいから早く! それと、絶対に雨に掛かるな!」

「は、はいぃ!」

 親子は一礼し、逃げ出した。黒い人型が親子に顔を向け、そちらへと足を向ける。

 晴香はそいつら目掛け、三角コーンを投げつけた。

 水音と共に、黒い人型の胴に大穴が空く。すぐさまそれは元に戻り、黒い人型は煩わしそうに晴香へと顔を向ける。そして同時に、晴香の背後から、呻き声。

「ゥウゥウゥ……」

「アァァアァ……」

「……やべぇ、囲まれた」

 気付けば10人ほどの暴徒が、晴香のいる軒下を囲んでいた。中にはどこから持ってきたのやら、鉄パイプや角材、バットを持った者たちもいる。

 シャン、シャンと錫杖の音は響き続ける。腕が折れている者や、首が曲がっている者、頭が陥没している者──互いに殴り合いをしていたはずの彼らは、今や明確に晴香をターゲットとして、その濁った瞳を向けていた。

 そしてその後ろから近づいてくる、黒い人型。

「……まるで本当にゾンビ映画だな」

 呟き、晴香は拳を構え──

 その時だった。

「うおおい!? ちょっ……やめろ!」

 タキの悲鳴が広場に響いた。ハッとした晴香が視線を遣ると、車に群がった暴徒たちがタキを引きずり出そうとしている。

「タキ!」

 ──そうして生まれた隙は、致命的であった。

 注意がそれた晴香の頭を、暴徒の角材が打ち据えた。

「がッ……!?」

 ぐらついた晴香の胸ぐらを他の暴徒が掴み、頭突きを叩き込む。隣から伸びた暴徒の手が、晴香を殴り飛ばす。次々に襲いくる拳や蹴りを受け、晴香は声すら上げられず打ちのめされ──

「ちっ……くしょ……」

 防御も受身も取れぬまま、彼女はとうとう、雨の中へと倒れ伏した。

 黒い人型が、そんな晴香へと歩み寄る。

 シャンッ──

 再び響く錫杖の音。晴香の視界が再び赤く染まった。

 ズクン、ズグン。身体の力が抜け、脳裏にあの不快な"音"が響きはじめる。精神が苛まれ、追い込まれ、正気が失われてゆく。

「ぅあっ……!?」

 動けない晴香に向かい、黒い人型が刀を振り上げた。陽の光を反射して銀色に輝く刃が、晴香に向かって突き立てられ──

 その時、銃声が響いた。

 遅れて黒い人型の身体が爆ぜて、吹き飛ぶ。

「大丈夫。止まない雨はないよ」

 そんな声と共に、錫杖の音が消えた。晴香の視界が正常に戻り、ドサドサドサと周囲の人々が倒れ臥す音が聞こえてくる。

「っ……なん……だ?」

 呻きながら、晴香は顔を上げる。

 そこに、ひとりの男が立っていた。

 陽の光を浴びて天気雨がキラキラと輝く中、晴香に向かって番傘をさし掛ける、白いレインコートの男。

「っ……<アマガサ>!?」

 身体の痛みなど忘れて飛び起きた晴香の言葉に、そいつは首を傾げた。

「ん? 違うよ。こいつの名前は、カラカサ」

 緊張感のない声で、アマガサは左手の番傘を指さす。晴香がそれを見上げたとき、傘の内側にぎょろりと目玉が開いた。

『なんでこの女がここにいるんだ』

「うわ、キモい」

『なんだとー!?』

 思わず飛び出た晴香の言葉にキーキーと騒ぐ番傘を、アマガサは「まぁまぁ」などと宥めている。晴香はそれには取り合わず、辺りを見回した。

 周囲の暴徒たちは皆倒れ伏し、黒い人型たちは突如現れたアマガサを警戒するように刀を構えている。そして、広場の中央には、烏帽子の狐男が変わらず佇んでいた。

「……あいつは、別人だったのか」

 晴香は呟き、ふと空を見上げた。

「天気雨が……弾かれてる?」

「すごいでしょ、結界。これもカラカサの力だよ」

 自慢げに言うアマガサの周囲では、巨大な傘をさすが如く、雨が空中で弾けて消えている。

 烏帽子の狐男は錫杖を突いたまま、顔だけをアマガサに向けている。先ほどまでの無造作な雰囲気とはまた違う、警戒の色を見せる狐男を見て、晴香は眉を顰めた。

(……超常事件の犯人とアマガサは、仲間かと思っていたが……違うのか?)

 思案しながら、晴香は警戒心丸出しでアマガサを睨む。彼はそれを涼しい顔で受け止め、微笑んだ。

「来るのが遅れてごめんなさい。でも、もう大丈夫」

 今度のそれは、作り笑顔ではなかった。

 刀を構えてにじり寄ってくる黒い人型たちを見回しながら、アマガサは言葉を続ける。

「ここからは、傘の役目だ」

「傘……?」

 晴香の言葉に頷き、アマガサは柔らかく微笑むと、手にした番傘を畳んだ。

「任せて。この雨は、俺が止める──いくよ、カラカサ」

『任せろぃ!』

 呼びかけに応じた相棒を天に掲げ、アマガサは高らかに叫んだ。

「変身!」

 番傘の先から白い光が撃ち出され、アマガサの身体へと降り注いでいく。晴香の視界を包む白い光は天気雨に乱反射して虹となり、その身体に収束していく──

「なんだ……!?」

 晴香の問いに答えるように、その光が収まった。

 そこに佇むは、白銀の鎧に身を包んだひとりの戦士だった。

 白い鎧に、煉瓦色の胸当て。雨合羽の如き白いマントが翻る。天に掲げた真紅の傘銃──西洋のランスにも似たそれをゆっくりと引き下ろすと、彼は凛と言い放った。

「俺は傘。全ての雨を止める……番傘だ」

 アマガサの宣言が開戦の合図となった。

 周囲の怪人たちが刀を構え、一斉に飛びかかる。もっとも早く到達した一太刀を最低限の動きで回避すると、アマガサは流れるような回し蹴りを怪人の頭に叩き込む。

「あっ……!」

 晴香が思わず声をあげた。先ほどの自分の経験が頭をよぎる。水を叩いたようにぱしゃんとその首が──

「大丈夫」

 晴香の言わんとすることを察したのか、アマガサは力強く宣言した。

 そして敵の首が、形を保ったまま吹き飛んだ。

 残った身体は単なる水の塊となり、噴水が止まるかのように崩れ散る。首のほうは数メートル先の地面に落ちて、水風船が割れるように爆ぜ消えた。

「俺は、こいつらの天敵だ」

 アマガサは次なる黒い人型が振り下ろした太刀を番傘で受け止め、その顔面に掌底を打ち込む。パンッと音を残し、その首が消失する。

 残りの黒い人型は、アマガサを警戒するように一歩ずつ下がった。

 同時に、錫杖の音があたりに響く。

「!? あぶねっ!」

 アマガサが飛び退いた一瞬後、それまで彼がいた場所が爆ぜた。

「……勘の良い奴だ」

 それは、烏帽子の狐男が発した声であった。その手からは薄く煙が上がっている。アマガサは空中で、手にした傘をそちらに向けて引き金をひく。

 重い銃声と共に番傘の先端から光の弾が放たれ、烏帽子の狐男へと飛んでいく。狐男は身を翻してそれを回避し、再び地面に錫杖を突いた。

 澄んだ音と共に、残った三体の黒い人型が同時にアマガサを襲う。彼は着地と同時に襲いきた斬撃を、籠手と脛当てで受け止め、その名を呼んだ。

「カラカサ!」

『おうよ!』

 いつの間にやらアマガサの手を離れていたその番傘が、空中に跳ね上がる。そして、黒い人型たちへと光弾の雨を降らせた。人外たちはたたらを踏んで連携を崩す。

 アマガサは人外たちに拳や蹴りを叩き込んで距離を取った。そして落ちてきた番傘を手に取ると、厳かな声で言い放つ。

「全ての雨は──俺が止める!」

 そしてその場でターンしながら、アマガサは傘の先端から光の弾を放つ!

 全ての光弾が黒い人型に着弾し、轟音と共に爆散せしめた。

「やった……!」

 晴香が声をあげる。立ち上る水蒸気が周囲を白く染める中、アマガサは雨合羽を翻して番傘を広場の中央、烏帽子の狐面の男へと言い放った。

「残るはお前だけだ。"原初の雨狐"」

「……その力」

 "原初の雨狐"と呼ばれた烏帽子の狐男は、右手に携えた錫杖を槍のように構えながら、呟く。

「妖(アヤカシ)……否、九十九神か?」

 狐面の目が細まる。そこへきて、晴香は気付いた。

「あの顔……もしかして、ただの面じゃないのか?」

 面だと思っていたそれは、怪人が視線を動かしたり喋るたびに生き物めいて動いている。その呟きに頷いたのは、アマガサだった。

「そう。さっきの黒いやつと同じく、あいつも人間じゃない」

 アマガサは銃口を烏帽子の狐男へと向けたまま、言葉を続ける。

「奴らは雨狐(アマギツネ)。あなたに大怪我を負わせた怪人だ」

「雨狐……」

 晴香がその言葉を反芻するうちに、アマガサは番傘を、烏帽子の狐男──<雨狐>は錫杖を構え、敵の隙を伺いながらゆっくりと動き始める。

 一歩、二歩、三歩。

 互いの距離を保ったまま、両者の歩調は徐々に早くなる。……先に動いたのは、アマガサだった。

 轟音と共に、傘銃から光弾が放たれる。烏帽子の雨狐は闘牛士のごとく、横回転してそれを受け流し、右手の錫杖を地に突き立てて大地に妖気を送り込む。

 大地が脈動し、アマガサの足元から土の三角錐が生え出でる。

「うおっ!?」

 アマガサは僅かな兆候を察し、驚きながらも横跳びにそれを回避した。受け身をとった勢いで跳ね上がると、アマガサは空中で引き金を弾く。

 放たれた光弾は過たず烏帽子の雨狐へと向かう。

 同時に、アマガサが叫んだ。

「行けッ!」

 アマガサの声に応えるように、その光弾は散弾となって雨狐へと降り注ぐ。しかし、烏帽子の雨狐は動じない。

「……甘い」

 そいつは右手一本で錫杖を振るい、全ての光弾を軽々と捌き、弾いてゆく。そしてその最中、空いた左手を上げて無造作に振り下ろす。

 刹那、黒い妖気の塊が爪の形となり、アマガサへと襲いかかる!

「なっ!?」

『湊斗、危ない!』

 虚を突かれたアマガサが声をあげる中、代わりに反応したのは番傘のカラカサだった。

 彼は自ら傘を開き、盾めいてアマガサを庇う。

 黒い爪撃は番傘によって弾かれ、背後のビルに巨大な爪痕を残した。烏帽子の雨狐は目を細め、呟く。

「……運のいいやつだ」

「あっぶねぇ……。雨がなくても色々できるのか。厄介だな」

 アマガサは再び番傘をたたみ、構える。対する烏帽子の雨狐もまた、錫杖を槍めいて構え直す。空気が焦げんばかりの緊張感の中、烏帽子の雨狐が、呟いた。

「九十九神。低級とはいえ、神がなにゆえにヒトの側につく?」

『誰が低級だ、誰が!』

 アマガサの手元で、番傘<カラカサ>が声をあげた。アマガサは「まぁまぁ」とそれを諌めると、言葉を続けた。

「色々あるんだよ。さて……」

 アマガサは懐から扇子を取り出し、開く。見事な龍の描かれたそれは、食い逃げ犯を叩きのめしたときに手にしていたものだ。

「九十九神の力、見せてやる」

 アマガサは不敵に言い放つと、その扇子をフリスビーのように投げ放った!

「行くよ、リュウモンさん!」

『任せろィ!』

 <リュウモン>と呼ばれたその扇子は、老人のような声を残し、即座に加速する!

「ぬぅッ!?」

 扇子が体当たり。烏帽子の雨狐は、咄嗟に錫杖でそれを弾いた。

 超自然の風を纏ったリュウモンは自らを刃と化し──空中でその身を翻し、再度雨狐に襲いかかる。

『まだまだァッ!』

 高速で飛び回るリュウモンの攻撃に完全には対応しきれず、雨狐の装束にいくつかの裂傷が走る。

「このっ……!」

 雨狐は忌々しげに呟き──その死角から、殺気。

「食らえっ!」

「チィッ……!?」

 リュウモンの攻撃の間を縫い、音もなく間合いを詰めたアマガサの蹴りが、雨狐の腹を狙う。雨狐は辛うじて腕でガードしたが、アマガサは機を逃さず、連打を繰り出す。

「貴様ッ……!」

「ハァッ!」

 前蹴り、回し蹴り、右ジャブ、肘……途切れず繰り出されるアマガサの攻撃を、雨狐は捌き続けるが──とうとうその姿勢が、崩れる。

『そこじゃァッ!』

「くっ……!」

 生まれた隙を見逃さず、リュウモンが渾身の突進を繰り出した。烏帽子の雨狐は、錫杖を掲げてそれを防ぐ。が──

『甘いわァッ!』

 老兵の声が響いた。刹那、緑色の風が膨れ上がる。

 それは瞬く間に渦を巻き、巨大な竜巻へと変貌。錫杖の接点から、雨狐に向かって生え伸びた!

「なっ──!?」

 竜巻は烏帽子の雨狐を悲鳴ごと呑み込み、瓦礫と共にビル壁に縫い付ける!

「ぐあっ……!?」

『どうじゃ!』

 リュウモンが声をあげる中、アマガサは手にした番傘を天に向け、相棒へと呼びかける!

「行くよ、カラカサ!」

『妖力解放!』

 番傘の先端から、白い光が溢れ出す。そして広場に注ぐ天気雨が、虹色に輝き始めた。虹の光は帯となり、壁に埋もれた烏帽子の雨狐に巻き付き、拘束する。

「ぬゥっ……!?」

「トドメだ、"原初の雨狐"」

 アマガサは銃口を──その先端に膨大な妖気を蓄えた番傘を、烏帽子の雨狐に向けた。

 そして、決断的に言い放つ。

「この雨を、終わらせる!」

『出力全開!』

 アマガサが引き金を弾いた。カラカサの声と共に放出された膨大なエネルギーは、周囲の天気雨を蒸発させながら、烏帽子の雨狐を消滅させんと迸り──

 ──射線上に現れた二つの影によって、光の奔流は断ち切られた。

「なっ!?」

 アマガサが驚愕の声をあげる。裂け割れた光の奔流は明後日の方向へと飛び去り、消滅する。

「派手にやられたなァ、<紫陽花>よ」

 もうもうと立ち込める煙の奥から聞こえた声は、アマガサの全力の攻撃などなかったかのような、悠然とした口調だった。

「っ……新手か」

 アマガサが身構える中、煙が晴れてゆく。そして姿を現したのは、二体の雨狐だった。

 片や、血のように赤き鎧武者。

 片や、鮮やかな赤金の花魁。

 それらはアマガサのことなど歯牙にもかけず、地に伏した烏帽子の雨狐へと呼びかける。

「おーい、生きてるか、<紫陽花>?」

 烏帽子の雨狐──<紫陽花>と呼ばれたその者の頭を、鎧武者は刀の鞘でコンコンと叩く。その様を見て花魁はカラカラと笑った。

「やめたげなよ王様、結構ぼろぼろだよ?」

「<イナリ>……様……? <羽音(ハノン)>様も……何故……?」

 満身創痍の紫陽花は、二人の雨狐へと問いかけながら身を起こす。花魁・羽音(ハノン)と呼ばれた雨狐は、その様を見て「あらあらあら」と声をあげた。

「下手に動かない方がいいわよ、紫陽花ちゃん」

「今おめーに死なれると困るからな。それに──」

 イナリはぶっきらぼうにそこまで言うと、言葉を切る。そしてそこへきてようやく、アマガサへと注意を向けた。

「面白そうな奴が出てきたからな」

 そしてイナリは腕を組み、武器を構えたアマガサへと問いかけた。

「九十九神を従え、妙な力で変化(ヘンゲ)する、"原初"を知る男……面白ぇじゃねぇか。お前、名は?」

「……天野、湊斗(ミナト)」

 アマガサはそう答えると、手にした傘銃を構え、言葉を続けた。

「全ての雨を止める──お前たちの、天敵だ!」

 アマガサはそう吼えて、引き金を弾いた。番傘の先端から光弾が立て続けに放たれ、三体の雨狐へと襲いかかり──

 刹那、それらは炸裂することなく、消滅した。

「っ!?」

「上等だ、アマノミナト」

 狼狽えるアマガサを、イナリが嘲笑う。そいつはいつの間にか刀を抜いていた。

「斬り裂いた……!?」

 アマガサの言葉を聞き流し、イナリは獰猛な笑みと共に口を開く。

「てめェの戦、受けて立とう。ただし……今のてめェじゃ、退屈が過ぎる。だからよ」

 イナリは言葉を切って振り返る。そして右手の刀を構えると、なにもない空間を横一線に斬り裂き──刹那。

 雷光が迸り、猛烈な光がアマガサを染める。溢れ出す暴風のごときエネルギーが、アマガサを、そしてその戦いを見守っていた晴香を襲う。

「な、なんだ……!?」

 先に"それ"に気付いて声を上げたのは、晴香のほうだった。

 イナリの背後、斬撃によって生じた謎の裂け目から、色が溢れ出してくる。それは水を入れすぎた絵の具のように空間に浸透し、侵食し、瞬く間に風景を滲ませてゆく。

「っ……あれは……!」

 その光景を見て、アマガサもまた声を上げた。いつしか雷光は鳴りを潜め、滲んだ風景だけが残され──少しの間を置いて、まるでカメラのピントが合うかの如く、"それら"の姿が結像した。

 イナリの背後に佇む、30体ほどの雨狐が。

「雨狐の……群?」

 晴香が呟く。イナリは雨狐の群の中心で腕組みし、挑発的に首を傾げて言い放った。

「退屈しのぎだ。ゲームといこうぜ、アマノミナト」

「……なんだと?」

 アマガサの問いかけに、イナリは獰猛な笑みのまま答える。

「ルールは簡単だ。こいつらを全滅させりゃァ戦ってやる。その前に死んだらそれまで。どうだ?」

「ッ──ふざっけんな!」

 叫び、アマガサは地を蹴る。一瞬でイナリへと間合いを詰め、必殺の蹴りを放つ。

 しかし。

「だめだよぉ、ミナトちゃん?」

 そこに流れるような動きで割って入ったのは、花魁装束の雨狐・ハノンだった。手にした鉄扇でアマガサの蹴りをいとも容易く受け止めて、彼女はその細腕をゆっくりと伸ばし──

「今のまんまじゃ、すぐ死んじゃうよ?」

 そんな言葉と共に、アマガサの胸板をトンと叩いた。

 ──少なくとも、晴香からはそう見えた。しかし。

「がっ……!?」

 アマガサが、吹き飛ぶ。

 緩慢な動きとは裏腹に、アマガサの全身を襲った衝撃はすさまじかった。アマガサは数メートルほど吹き飛ばされ、受け身すら取れない状態で晴香の眼前に叩きつけられた。

「お、おい、大丈夫か!?」

「ゲホッ……くそっ……」

「ハノンの言う通りだぜ、アマノミナト」

 辛うじて起き上がったアマガサを嘲笑い、イナリは言葉を続けた。

「まァ、まずは第一関門だな……出てこい、アマヤドリども!」

 イナリが声をあげた。その声に応えるように広場中の水溜りが虹色に輝きだしたかと思えば、黒い水柱が立ち上がり人型を形作る。その数は先ほどの比ではなく、100体ほどの群れとなってアマガサと晴香を取り囲む。

「っ……これは……!」

 ふらつきながらも武器を構え、辺りを見回すアマガサ。その様を見て笑いながら、イナリはさらに声をあげた。

「まだ行くぜ? 紫陽花!」

「……御意に」

 いつの間にか回復していた紫陽花が、錫杖で地を突いた。天気雨が虹色の輝きを放ち、広場に倒れていた暴徒たちが一斉に起き上がる。

「お、おい……こいつら……!?」

 晴香が戸惑いの声をあげる。暴徒たちは錫杖に操られ、その全てがアマガサたちに狙いを定めていた。アマガサはその様を見て、呟く。

「結界が……効いていない?」

 それは、最悪の形で証明された。

「ガっ……!?」

 二度目の錫杖の音が響いたとき、晴香が呻き、崩れ落ちた。

 ズグン、ズグンと脈打つのに合わせ、彼女の視界は赤く染まり、不快な音が精神を訶み、蝕んでゆく。

「っ……オマワリさん!」

 晴香の異変に気付き、アマガサは結界を強化すべく慌てて振り返り──

「ま、そういうわけだ、せいぜい気張れや」

 いつの間にかそこに、イナリが立っていた。

「っ──!?」

 声をあげる間すら、なかった。

 イナリの刀が閃めく。

 白銀の鎧はいとも容易く斬り裂かれ、血が吹き出した。

「っッあ……」

『湊斗!?』

 カラカサが悲鳴のような声で、相棒の名を叫ぶ。

 変身が、解けた。

 胸から夥しい血を流しながら、アマガサは──天野湊斗は、膝をつく。

 イナリはその様を見下ろして、あざ割るように言い放った。

「じゃあな。退屈させんじゃねェぞ?」

 その姿が滲み、消えてゆく。

 元の位置で様子を見ていた紫陽花がそれに気付き、自らの身体を見下ろした。その身体も、滲みつつある。

「……時間切れか」

「あらあら。仕方ないわねぇ」

 紫陽花の言葉に答えたハノンも、他の雨狐の姿もまた、その姿が滲み、消えてゆく。

 湊斗は必死に顔をあげ、消えゆく雨狐へと手を伸ばす。

「待ちや……がれ……!」

 しかしその言葉は届かない。

 雨狐たちは滲み、消え去って。

 湊斗は血を吐き、倒れ臥す。

 アマヤドリと暴徒たちが洪水のように押し寄せるまで、さしたる時間はかからなかった。


***


 ──焦げ臭い。

 徐々にはっきりとしてゆく意識の中、晴香が最初に感じたのはそんな言葉だった。次いで感じたのは顔に当たる地面の硬さ、そして、タキの声。

「──ねさん! 姐さん!」

「っ……」

 晴香は意識を取り戻す。

「姐さんってば!」

 瞼を開ける。

 そこではタキが、暴徒をバーベルのように持ち上げていた。

「……!?」

 晴香は飛び起きて、辺りを見回す。

 そこは、先程晴香が観光客を助けた軒下だ。側で車が横転しており、どうやら焦げ臭いのはこれが原因らしい。

 軒を見上げると、縁からカーテンのように結界が張られ、黒い人型──アマヤドリとかいう怪人たちの侵入を防いでいた。しかし生身の人間たる暴徒たちはブロックできないらしく、そちらはタキが応戦している。

「よっと! よかった、正気っスね!」

 タキは声を上げながら、バーベルのように持ち上げていた暴徒を軒下へと放り投げた。晴香は立ち上がり、青アザだらけのタキに問いかける。

「……どのくらい寝ていた?」

「たぶん、5分くらいっス……うおっ!?」

 タキの話を遮って、暴徒が鉄パイプを持って殴りかかってきた。タキはそれを腕で受け止め、晴香の前蹴りが暴徒を吹き飛ばす。

「ひぃー、痛ってぇ……あ、気をつけてください。また来ますよ」

「あん?」

 タキの言う通り、天気雨の中に再び投げ出された暴徒は、ダメージなどないかのように起き上がり、鉄パイプを手に再びこちらへと突っ込んできた。タキはその攻撃を往なし、胸ぐらを掴んで軒下へと引き込む。

 途端に、その暴徒は糸が切れたように崩れ落ちた。

「なるほど。雨を遮断するのか」

「です。アマガサさんのアドバイスで」

 軒下に転がる人は、すでに30人ほど。皆気を失っているようだ。

「……アマガサは?」

 晴香に問いかけると、タキは広場の中央付近の人だかりを指さした。

「向こうで戦ってます。僕らをここに連れ込んだあと、"アマヤドリは任せろ"って言っ──」

 ギンッ!

 タキの言葉を遮るように、広場の中心付近から剣戟音が響いてきた。殴りかかってきた暴徒に応戦しながら、晴香はそちらへと視線をやり、人だかりの間から見えたその姿に、目を見開いた。

「……おいおい、鎧はどうした」

 アマガサ──天野湊斗は、変身していなかった。彼は扇子の付喪神・リュウモンを手に、素面のままアマヤドリたちと戦っている。

 先程イナリに斬られた胸元だけでなく、全身が血まみれで、足元もおぼつかない。辛うじて敵の攻撃を防御し、反撃しているようではあるが──アマヤドリの数は、先程イナリが召喚したときからさほど減っているようには見えなかった。

「あいつ……!」

 助太刀しようと駆けだした晴香であったが──

『オマワリさん! ストップ!』

「あだっ!?」

 突然眼前に落ちてきたカラカサと激突し、その足を止めた。打った鼻先を抑えつつ、晴香はその九十九神を睨む。

「てめぇ……」

『ご、ごめん……』

 そいつは見れば見るほど、ホラー漫画に出てくる"からかさお化け"の造形だった。番傘の表面に、横向きの亀裂が2本。片方は目玉、もう片方は口。持ち手の部分は子供の脚になっていて、足元には下駄を履いている。

 カラカサは重力を無視して晴香の目の高さに浮かび、声をあげた。

『軒下から出ちゃだめ! 他のニンゲンみたいになるよ!?』

「つってもお前、あいつ助けねーと!」

 言いながら晴香は眼前のカラカサを押すが、そいつは頑として動かない。その感覚は、磁石の同じ極同士を近づけたときの感覚に似ていた。

 晴香とカラカサが押し問答をする間にも、天野湊斗はふらつきながら怪人たちと戦っている。晴香はそちらを指さして、カラカサに問いを投げつけた。

「そもそもなんであいつ素面なんだよ!? さっきの強そうな鎧はどうした!?」

『そ、それは……』

 カラカサはなにやら言い澱み、振り切るように言葉を続ける。

『ど、どうだっていいだろ別に! 湊斗なら大丈夫──わっ!?』

 言い合いの最中、暴徒のひとりが突っ込んできて、カラカサが声を上げた。晴香は冷静に敵の腕を取り、軒下へと投げ込む。

「キリがねぇな、畜生」

 軒下に眠るサラリーマンの数はかなりの数になる。それでも尚、広場では多くのサラリーマンが暴れており──その一部は、天野湊斗にも危害を加えている。

『と、とにかく、アマヤドリくらいならひとりで──』

 言いながら、カラカサが振り返った、その時だった。

 暴徒が振り下ろした角材が、天野湊斗の頭を打ち付けた。

『湊斗!?』

 カラカサの悲鳴。ぐらりと、その身体が傾ぐ。かろうじて踏みとどまると、角材の暴徒のさらなる一撃を、天野湊斗は辛うじて躱した。その足元はおぼつかない。

「……チッ!」

 晴香は舌打ちし、結界から飛び出した。

『あ! お、おいっ!?』

「うるせぇ!」

 晴香は怒鳴り返し、手近な暴徒の鳩尾に拳を叩き込む。そして踊るように背後に回り込むと、スーツの上着を剥ぎ取った。

「雨を浴びなきゃいいんだろ!?」

 そしてそれを両手で掲げ、雨避けにして走り出した。ズグン、ズグンというあの感覚は……ないわけではないが、幾分かマシだ。

 天野湊斗を狙っていたアマヤドリたちは、晴香の存在に気付くのが遅れた。押し寄せてくるのは暴徒のみ。それを蹴りだけで倒しながら、晴香は角材の暴徒へと肉薄し、飛び蹴りを放つ!

「ゥオリャァッ!」

「えっ!? お、オマワリさん!?」

 天野湊斗がぎょっとして声を上げた。晴香は傘代わりの上着から片手を離すと、その手で天野湊斗の襟首を掴む。そして踵を返し──走り出す。

「ボロボロじゃねぇか! 無理すんな!」

 目指すは軒下。先程まで自分の居た場所であり、カラカサの結界がある場所だ。

「どあっ!? ちょ、ちょちょ待って待って、俺まだ戦わないと」

「るせぇ、時間がねぇんだ急げ!」

 片手を離した影響で、先程よりも晴香が浴びる雨は増えている。暴れる天野湊斗の首根を引っ張りながら、晴香は怒鳴り──そこへ、限界が訪れた。

 3度目の"あの"感覚が、彼女を襲う。

 視界が赤く染まり、足が止まる。

 脳内に響くのは肉が裂け潰れ骨が砕け──ああもう言わんこっちゃない!──泣き叫び怒り銃声──こいつらは俺に任せて!──剣戟炸裂音爆発音摩擦音悲鳴泣き声怒号──あなたが戦う必要なんてない!──

「っ……ぐぐ……ああああッ!」

 意識を塗り潰そうとするノイズに混じり、天野湊斗の言葉が聞こえて──

 ……晴香は、キレた。

「ぐだぐだうるせぇ!」

 そして天野湊斗の首根を全力で引っ張り、軒先へ向かって──投げる!

「はっ!?」

 その両足が地面から離れ、浮遊感が天野湊斗を襲う。驚きの声をあげつつも、彼は猫のように身を捻って軒下に着地した。そこにビシッと指を突きつけ、晴香は叫ぶ。

「むしろそっちは一般市民だろ! お前が引っ込んでろ!」

「えええ!?」

『め、滅茶苦茶だ……!』

 天野湊斗とカラカサが口々にリアクションする中、晴香は背後から襲いきた暴徒の一撃を躱し、掌底を叩き込む!

「ああああもうイライラする! ひとりで全部できると思うな!」

 晴香は知る由もないが、それは天気雨の精神汚染によって感情が増幅されたが故の、怒りの発露による身体強化だった。

 晴香は普段よりも力強く、普段にも増して荒々しく、暴徒たちを殴り飛ばしながら、天野湊斗に向かって怒鳴る。

「大体な! お前が死んだら! こっちだって! 全滅だ! ズタボロで無理しやがって! やり方を! 考えろ!」

 晴香は、文節文節で暴徒を殴り飛ばして軒下へと放り込んでいく。

 ──彼女の心中では、いくつかの怒りが渦巻いていた。

 天野湊斗……<アマガサ>。晴香は、彼が超常事件の犯人である可能性すら考えていた。まず、その勘違いをしていたことが腹立たしい。

 そして、ひとりですべてを抱え込み、無茶な戦いを続けていた天野湊斗が、腹立たしい。

 そしてなにより──天気雨を前にして、自分がなにもできないのが腹立たしい!

「私はな! この事件を!」

 鉄パイプで殴りかかってきた暴徒を殴りつけ、武器を奪うと他の暴徒の攻撃をそれで防ぐ。

「解決しなきゃ! ならんのだ!」

 武器から両手を離し、相手の体制が崩れたところで、晴香は二人の暴徒をまとめて放り込んで──晴香は膝に手を置き、大きく息をついて、言葉を続けた。

「……そうじゃなきゃ、今まで死んだり泣いた奴らに、申し訳が立たんだろう」

「姐さん、後ろ!」

 タキの声に反応し、晴香は前に転がった。アマヤドリの刀が空を切る。晴香は受け身を取り、手近な三角コーンをそちらに投げつけた。

 ぱしゃんと怪人の身が崩れ、すぐに再生を始める。晴香はその隙にアマヤドリから距離を取り、軒下へと駆け込んだ。

「ゼェ……ハァ……だから、天野湊斗」

 そのまま倒れ込み、晴香は荒い息と共に──その名を呼ぶ。

「お前に死なれると、困るんだよ……無理をするなら……ゼェ……少しは、やり方を、考えろ……」

「オマワリさん……」

 軒下に駆け込んだ天野湊斗と晴香へ向かい、暴徒たちが突っ込んでくる。

「よいしょォッ!」

 それを止めたのは、タキだった。彼は突っ込んできた3人の暴徒の攻撃をその身で受け、抱きとめるようにまとめて掴むと、軒下へと投げ込んだ。彼が軒下に"避難"させた人々は、すでに60人を超えている。

「僕からも頼むよ。力を貸してほしいんだ。……正直、そろそろしんどいしね」

 晴香とタキの言葉を受けて──天野湊斗は、ため息をついた。

「……わかりました。カラカサ、こっちに来て」

 彼はカーテン状の結界を張っていたカラカサを手元に呼びよせた。結界は維持されたままだが、アマヤドリたちは完全に軒下を包囲している。そのうちの一体が、結界に刀を振り下ろした。

 ギンッと鋭い音がする。それを一瞥し、天野湊斗は話し始めた。

「アマヤドリは軒下には入れませんが、刀は届きます。だから、俺は結界を張って被害者の皆さんを隔離しています」

 別の一体が、結界に攻撃。段々とその頻度が上がっていくのを見ながら、天野湊斗は言葉を続ける。

「ただ、このままだとあの結界が壊れます。だから俺は表に出て、こいつらを引きつけていました」

「お前が変身してないのは、結界のせいか?」

 口を挟んだのは、息を整えて胡座をかいた晴香だった。天野湊斗はその問いに頷く。

「そうです。こちらの妖力もそろそろ限界で──」

「オーケー。お前は今すぐ結界を解除。変身してあいつらをぶっ飛ばせ」

「は!?」

 言葉を遮って飛び出した晴香の提案に、天野湊斗が素っ頓狂な声を上げる。

「いやいや話聞いてたんですか!? 刀は届くって……」

「聞いてたに決まってんだろ。その上で言ってんだよ。な、タキ?」

「そっスね。姐さん、鉄パイプとバットどっちがいいっすか?」

「私は鉄パイプがいい」

 "時雨"の二人のそんなやり取りを、天野湊斗はぽかんとしたまま見つめている。晴香は胡座をかいたまま鉄パイプを担ぎ、その顔を見上げる。

「刀くらいはこっちで防ぐ。暴徒の相手もこっちで受け持つ。お前はさっさとあの化物を片付けろ」

「っ……でも!」

「うるせぇ! 時間がねぇんだろ! さっさとしろ!」

 なおも言い返す天野湊斗に、晴香が怒鳴った──その時。

 パキンッ、と。

 澄んだ音を立てて、晴香たちの目の前の結界に亀裂が走った。その亀裂は徐々に広がっていく。

「おい、さっさとしろ、天野湊斗!」

「っ……カラカサ!」

 天野湊斗は手にした番傘に呼びかける。同時に結界が消え、アマヤドリたちの刀が軒下へと入り込んで──

 放たれた光弾が、正面にいたアマヤドリたちを消し飛ばした。

 追撃を警戒したのか、アマヤドリたちがそこから距離を取る。彼は軒下から一歩踏み出すと、天気雨を浴びながら、傘を空に向ける。

「……変身!」

 傘先から白い光が放たれ、天野湊斗に降り注ぐ。その光が晴れ──そこに、白銀の戦士が佇んでいた。彼は肩で息をしながら、手にした番傘を構える。

 晴香は鉄パイプを杖として、立ち上がった。

「よっこらしょ……そうだ、天野湊斗。お前、忘れんなよ?」

「え?」

「記憶消しても無駄だからな。私は公園の件を覚えてる。……逃げようとしても無駄だぞ。地の果てまで追い詰めてやる」

『うわぁ、怖……』

 それはもちろんハッタリであったが、天野湊斗はそれを知らない。案の定、白銀の戦士の手元で、カラカサがため息をつく。

「それが嫌なら、私らに協力しろ。この事件を解決するために、とにかくお前の力が必要だ。それに……」

 晴香はそこで言葉を切り、真剣な眼差しで、白銀の戦士に問いかける。

「あの怪人たちの"ゲーム"に勝つには、今のままじゃダメなんだろ?」

「…………!」

 白銀の戦士の身体が、少しだけ揺れた。

 アマヤドリのひとりが一歩踏み込んだ。白銀の戦士は即座に反応し、光弾でそれを射殺する。

 再び訪れた硬直状態の中──白銀の戦士は、晴香に顔を向けて口を開いた。

「……衣食住の保証はしてもらえます?」

『ちょっ……湊斗!?』

「急に切実な悩みがでたな。構わんぞ」

 カラカサが声を上げる中、晴香が笑った。白銀の戦士は肩を竦め、怪人たちに銃を向けたまま、懐に手を入れる。

「とりあえず、協力はします。が……まずはここを切り抜けるのが先決です」

 そして取り出したのは、扇子の九十九神<リュウモン>。彼はそれを晴香へと投げて寄越すと、扇子に向かって呼びかけた。

「リュウモンさん。護衛よろしく」

『しゃーないな。よかろう』

 リュウモンの声に続き、晴香とタキを緑色の風が包んだ。

「風の結界です。少しくらいならダメージを防げるはず」

「なるほど。サンキュー」

 気楽に笑う晴香に向かい、アマガサは問いかけた。

「……最後にひとつ、教えてください。えーっと」

「晴香だ。河崎晴香。こっちはタキ」

 晴香の自己紹介に「なるほど、晴香さん」と繰り返すと、彼は問いを投げかけた。

「<アマガサ>ってなんですか?」

「あー……」

 背中越しのその問いに、晴香はしばし言葉を選び……答えた。

「あれだ、コードネーム。お前のな」

「なるほど。いいっすね、<アマガサ>」

「だろ?」

 そんなやり取りの最中、アマヤドリたちが同時に刀を構える。

 ──はじまる。

 晴香たちは直感し、それぞれの獲物を構える。

「……行くぞ、アマガサ」

「……行きましょう、晴香さん、タキさん」

 二人の言葉が合図であったかのように、アマヤドリたちが一斉に地を蹴る。

 ドウッと銃声が響き、光弾が炸裂する。その間を縫って軒下へと押し寄せたアマヤドリが、刀を突き出してくる。晴香はそれを鉄パイプで打け止めて──アマヤドリの背後に、光弾が炸裂した。

「ナイス」

「……しばらく、頼みます!」

 アマガサは傘銃を構え、敵を次々に射殺しながら、自分に言い聞かせるように、宣言した。

「俺はアマガサ。すべての雨を止める、番傘だ!」

(第1話終わり。第2話「オイラの憂鬱」に続く)


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