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#24 さみしさのゆくえ

12月5日。土曜日。今日は大してなんもしてないのに1日早かったな。本格的に冬っぽくなってきた。
今日は【さみしさのゆくえ】というタイトルで。ご存じ、『14番目の月』に収録されているユーミンの曲である。この季節にぴったりだ。

今日の記録

10時頃起床。昨晩3時まで起きていたが、すっきり目覚める。穏やかな朝。布団でWeb記事などを読む。

スマブラ。連戦に次ぐ連戦。穏やかな朝、崩れる。朝食。納豆ご飯とバナナと豆乳。

午後、研究室へ。相変わらずHartの訳。気晴らしに昭和音楽を流す。ユーミン、レベッカ、中森明菜など。気づけば夕方。今日もCoCo壱。5日連続CoCo壱。ベジスープカレー。

夜。Hartの訳。ほんとこれしかしてねえ。それでも3ページしか進んでない。何をしてたんだ。この後はスマブラして寝るかな。

さみしさのゆくえ

こちらの曲、荒井由実4thアルバム『14番目の月』収録の、「さみしさのゆくえ」。母・カトリーヌはユーミンが大好きで、僕も影響を受けてよく聞いていた。1976年の曲なので、生まれる20年以上前の曲だ。

僕は天性の逆張リストゆえ、高校時代などは周りが聴いている音楽を絶対に耳にしたくなかった(今もそうだけど)。けれどもTASUTAYAにいって音楽をdigるような少年でもなかったので、家のパソコンに入っている曲を片っ端からスマホに入れて、それを何度も繰り返し聴いていた。親世代の曲、つまり中森明菜、ユーミン、サイモン&ガーファンクルなどなど。僕も次第に社会性を獲得し、TSUTAYAでCDをRENTALするようにもなった。

で、親世代曲の中でもとりわけ好きだったのが、こちらの「さみしさのゆくえ」。冬の別れの歌だ。ちなみに母親もユーミンでこの曲が一番好きらしい。
「おだやかな冬景色」っていう季節が地元に合ってるし、ユーミンらしい「別れ」の感情(と僕が思っているもの;相手に未練があるのだが、自分を強く見せようとする)が出ているのもよい。

悪ぶるわたししか知らず
あのとき旅立っていった
お互い自分のさみしさを抱いて
それ以上は持てなかったの

この歌詞が特に印象的であるなあ。

* * *

はい。ここからが本題ですが、最近noteでもtwitterでもなんでも、とにかく自分の弱さを見せるのがトレンドになってません? 幼少期に大人から理不尽を強いられ今でもトラウマだとか、毒親に育てられただとか、性的マイノリティとしての生きづらさを体験している、などなど(最後のやつが一番多い)。
といってもこれは今に始まったことではなくて、2009年の斉藤環の本『心理学化する社会』などにも書かれている。自分のトラウマを見せる、心の傷を周囲に開くことがそのまま「個性」になるというもの。逆を言えば、トラウマがないということは「没個性」になりかねないので、みんな必死になって心の傷を見せようとするという話(だったと思う)。

* * *

先日のNIKEのCMのように、今はとりわけ「マイノリティ」が注目される時代だと思う。そこで注目される「マイノリティ」は単に少数派というだけでなく、多くの場合生きづらさや困難を抱えているわ。で、なぜ彼ら・彼女らがそうした困難を抱えているかと言えば、社会のマジョリティがそうした人々に対して理解を持っていないから、というふうな説明がなされがちだ(実際そうではあると思う)。

僕は前々からこうした論法(マジョリティの無自覚がマイノリティを傷つけている)に、違和感ないし危機感を持っていて、まあそれが院での研究テーマにもなっている。こうした論法は「マジョリティ加害者論」とも名付けられるかもしれない。社会の多数派・主流派は、マイノリティに対して直接的に危害を及ぼしていなくても、無理解・無自覚などの形で「加害」の構造に関わっており、それである以上もう「加害者」の一人なんだ、という主張。

で、これは大阪なおみ選手に関連する記事だったと思うけど、「差別をしない、では不十分だ。一人一人が差別を根絶する(消極的ではなく積極的な)気持ちを持たなければならない」と主張するものがあった。検索しても出てこないので、大阪なおみ選手関連ではないのかもしれない。でも多分あったことはあったと思う。

何が言いたいかというと、心理的トラウマを抱える者、マイノリティに属する者を前にしたとき我々は、そうした人たちに理解を示したり、苦しみを軽減する義務を負うだろうということ。無理解のままでいたり見て見ぬふりをすることは、暴力に加担することと同義であり、すなわち、糾弾されるべき行為なのだ。
社会の多数派である我々には、「弱者」に対して手を差し伸べる(理解を示す・社会の差別的構造を撤廃する)義務が課されているだろう、ということ。

・・・で、それはまあ十分に理解できることだ。実際にそうでなければならないとも思う。けれど、こういう主張を見たときにいつも僕が思うのが、さっき挙げたユーミンの歌詞、すなわち、「お互い自分のさみしさを抱いて それ以上は持てなかったの」という歌詞だ。

我々は事実、他者に差別や性規範を強要する加害者かもしれない。だから、人に対して優しく、寛容でなければならないというのは、当然僕も認めるところだ。差別には積極的に抗わねばならぬだろう。
ただ時として、自分の苦痛や困難で手一杯になるときがある。かつ僕の場合、そうした困難は多くの人にとって取るに足らない、あるいは悩むに値しないことと見なされがちなのだ。ただ多くの人にとってそうであっても、ユーミンを聴き漁っていた高校時代同様、僕にとってはそれらは大きな問題なのだ。

単に「マジョリティだから」という理由で優しさや寛容を求められると、かつ、単に「マジョリティだから」と言う理由で苦痛や困難を無視されると、時としてしんどいという話。andymoriの「クレイジークレイマー」と言う曲の歌詞、

病名でもついたら 病名でもついたら
いじめられないしもう少しは楽なのかな

これ、僕も少し思います。やっぱり自分の弱さを見せ合う時代ということなのかな。近頃、マジョリティに対して「甘え」が許されない時代になったんじゃないかなあと思います(もし甘えたいなら、いかに自分が「マイノリティ」として苦痛を受けているかを示すのが有効だろう。そのときはマジョリティを「加害者」として提示するのも忘れずに)。こういうこと言うと怒られるんかな。まあ、今日はそんな感じ。一気に書いたので、読みづらかったら申し訳ない。


<今日読んだWeb記事>

これ読んで今日のやつ書こうなどなど考えたけど、これ自体には触れなかったな。