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未来のことを言うときの感覚

pixabayのBroesisさんの写真に文字を載せたもの

未来を言う


 わたしは今あることにまた気付いて、その感覚を保ちたくなっているから、それが文字の上にも滲んでくれれば良いと思います。
 プルースト効果とは少し違うのかも知れないのだけれど、良い心地に切り替わるスイッチのようなものを探していて、これは何と言うのでしょうか?

 状況を過去に戻すとか、自分の年齢を過去に戻すとかではなくて、気分だけ、心持ちだけ、人生のいくつかの場面で感じた、疑いようもないもの凄い気持ち、要するに、感動している自分を呼び戻して、今も素直に何にときめくかを知ることはできるだろうかと考えている間に、本当にありありとあの、感動したときのことが、感覚に表れてきたので、可能だということがわかって、喜んでいるのですが、実証の仕方がわからない。

 桜を見たときの感動で、もっと凄い感動の仕方をした気がすると思って、だけどそれは、その当時は胸の中で、いいや、状況も、嫌なことが起こっていた。けれど、それが、その嫌なことが細かくは思い出せない。
 (嫌なことを味わい切る前に桜に感動したためである)

 卒業式で、桜は満開で、曇り空でした。行列になって歩いているときに見上げると、両脇に植えられた桜が散りながらトンネルのような長いアーチになって、未来に受け入れられているような、未来に飛び込んで行くような気がした。
 (桜はまさにその時、腕を広げていて、空中に舞う花びらが、さあおいで。ここから未来の世界がある。と言っているようでした)

 それは何の感情かと自分に訊いても、感情ではないというか、感情からはみ出しています。
 感じようとして感じたものでもないから、ただの感動です。
 その感覚に今でも行こうとして行けるとわかった、という報告だけれど、これが出来るとどう良いのか。どう良いのかというと、共有できる財産が結果的には増えます。
 上手く伝われば、それはわたしの感動した桜と同じ効果を持つようになるでしょう。
 桜に限らず、額面通り世で美しいと言われるものを美しいと言うのでなく、自分の心が美しさを感じた瞬間です。

 それで、この話が長くなりましたが、未来のことを言う時にも、似たようなことをします。
 わたしは勘が働くという自覚はないけれど、幼い頃のわたしを知っている人は、わたしの勘を頼って、未来のことをたずねてきます。
 わたしは適当を言えなくて、未来を感じ取れないか集中しようとします。(馬鹿げていると思うでしょうが、かなり苦心してわけもわからず意識を捨てて、集中してしまっている。心の中では、どうなるんだ。どうなるんでしょうか。わたしは知らない。都合の良いことも悪いことも勝手に作らないでほしい。という心持ち)

 作り話をするのでもないし、統計を取るのでもないし、これは今わたしの知っている中でどう説明できるでしょうね。
 無意識のところを使おうとすると言うんでしょうが、それは脳や体のどこが機能していると言うものでしょうか。

 とにかくそれは、誰でも出来ることで、まず最初には何も見ないし、何も聞かない。
 何も心に映そうとしないし、相手が正確な未来を期待していて、自分がそれに応えようとしているとも思っていないでしょう。変な何かに乗っ取られるのでもない。とにかくこれはいつか天才的な人が、人間や生物の機能として説明できる日が来るはずだと思います。

この話は続きます。

難しいです……。