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andymoriの"おいでよ"について語りたい。

はじめに


andymori
はふたつの時代に分けることができる。

まずはドラムが‘後藤大樹’だった、2nd AL『ファンファーレと熱狂』までの初期andymori。そしてドラムが‘岡山健二’に変わってからの、3rd AL 『革命』以降の後期andymori。

一般的に評価されている初期andymoriに比べて、後期andymoriはあまり話題に上がらない。
つい2~3年前にandymoriを知ったために、当時の彼らを知らないカツヲがネットで彼らのことを調べると、『革命』以降離れていったファンが多くいるようである。


初期と後期で何が違うのか。

「初期の楽曲は性急的でパンクな要素があるのに対し、後期ではそういった楽曲が少なくなった」
「初期の楽曲は、今までになかったミニマムな編成で早口でまくし立てるといったことを日本でほぼ初めてやった」
「だから、そのような楽曲が少なくなった後期はほとんど聴いたことがない」

みたいな意見をネットではよく見かける。

カツヲはそういった意見を見るとこう思うのだ。







しゃらくせぇ!!!!!

ガハハハハハ!するってぇとちみたちは“おいでよ”を知らないまま過ごしているのだね???今すぐに聴け!!!今すぐに“おいでよ”を聴け!!!!!



そこで今回は、カツヲが今1番愛してやまない歌である“おいでよ”を、精一杯の愛をこめて紹介したいと思う。

※有り余る‘愛’のためにえげつない文量になっている上に、的はずれな考察をしているかもしれないが悪しからず。


概要

まずは1度聴いてみてほしい。

気付いた人もいると思うが、この歌は、公式から公開されたものはYouTubeには存在しない。
音源化はされておらず、DVDのみで聴くことの出来る曲であるため、この動画は‘違法アップロード’である。しかし、全く消される気配がないし、10万回ほど再生されてるし、、、ってことで‘許されている感’がある。


この歌はandymori超後期にライブのみで歌われた曲である。初登場はandymori復活ライブとなった『andymori ワンマン ひこうき雲と夏の音 』。本編最後に披露された、ということもあり、彼らにとって一際特別な歌であろう。
andymoriとしては最後から2番目に完成した曲。ラストアルバム以降にライブで歌われた未音源化の曲は “それでも夜は星を連れて” “Sunny Side Diary” “おいでよ”の3曲のみ。‘1回目’の解散ライブとなった『SWEET LOVE SHOWER 2014』で初披露された“それでも夜は星を連れて”、2012年に2度演奏されている“Sunny Side Diary” という時系列を鑑みても、ラストから2番目に作られた曲、というのは正しいだろう。

小山田壮平の大怪我の後、活動再開してから作った曲であるということで、少なからずそのときに感じた、考えたことがダイレクトに現れている楽曲であることに間違いはない。
個人的な印象なのだが、“それでも夜は星を連れて”はファンに向けて書かれた歌詞であるのに対し、“おいでよ”はむしろ、小山田壮平が自分自身に向けて書いた歌詞であるように感じる。詳しくは各章を呼んでいただければわかると思う。
また、この歌の制作過程を4th LIVE DVD『ひこうき雲と夏の音』で観れちゃったりする。気になる方はぜひ。

http://andymori.com/disco/?id=19&category=


この曲の背景的な部分は一旦終わりにして、音楽的な話を。
この曲は、andymoriとしては珍しい王道j-pop構成になっている(Bメロはないけど)。ふと思ったけども、“teen's”って転調はあるけどずっと同じメロディだよなぁ。


もはや言う必要は無いけれど、めちゃくちゃ簡単なコード進行で、楽器も‘ギター’ ‘ベース’ ‘ドラム’のみ。
ひとつ特徴的なのは、イントロからアウトロまで段階的にビルドアップしていく構成になっていることである。サビのたびにボルテージがひとつ上がる曲は沢山あるが、ここまで少しずつ楽器の密度が濃くなっていく曲は“おいでよ”の他に“teen's”  “無までの30分”のみである。他にも“ビューティフルセレブリティー” “楽園” “スパイラル”等も挙げられなくはないが、‘段階的に’という点でピッタリ当てはまるのはこの3曲のみであった。

余談なのだが、1st AL『andymori』の1曲目の“FOLLOW ME”、そしてラストから2番目に完成したであろう“おいでよ”。バンド超初期の曲と超後期の曲のタイトルが似ているのは、意図してやったことなのだろうか。

Aメロ(1番)

エレキギターの音色が刻む16ビートから始まるイントロは、Gコードにシンプルなストロークから始まる。Aメロに入ってからも、シンプルなストロークとコード進行は変わらずに続く。この部分は小山田壮平の声、ギターと、1小節に1音程度の藤原寛のベースのみで奏でられる。

白い砂浜で拾った貝殻を漆黒の海に投げた
あの日も風は誰かを撫でていたのさ

andymori “おいでよ”

そして歌詞。ぶっちゃけこの部分はよくわかりません。何かしらの比喩表現だとは考えられるけど、「海」といえばやっぱり夏のイメージなわけで、2番の同じ部分の歌詞と対比できることからも、単純に夏の情景描写だと思う。
じゃあ何故「夏」を選んだのか。
『ひこうき雲と夏の音』に向けて完成させた曲だとしたら、この選択はごく自然な事だとは思うし、その意図も含んでいると思う。しかしそれ以上に、前述したようにこの歌は、小山田壮平が自分自身に向けて書いた印象があり、それは後述する‘とある歌詞’から受けるものなのだが、そのことを踏まえると「夏」を選んだもうひとつの理由が見えてくる。

そのもうひとつの理由は後々明らかにすることにするが、この部分を比喩表現だとして無理やり考察してみると、かなり残酷な印象を受ける。
白は幸せのイメージ、黒は不幸のイメージがあり、そんな幸せの舞台にたくさん転がる小さな幸せ(貝殻)を、大きなゴミ箱(漆黒の海)に捨ててしまう。自分がそんな状況だとしても、何かを動かす「風」は他の誰かのことは優しく包んでいるわけで、、、。となるが、「」はandymori及び小山田壮平の書く歌詞によく出てくる単語であり、「物事をスタートさせるもの」や「流れて包んで連れていくもの」というニュアンスで使われていることが多い。しかし、「海」、「砂浜」、「貝殻」といった単語は滅多に出てこない。だからやっぱり情景描写な気がするなぁ。

道に迷って泣いてしまったこともあった
それでもずっと覚えていたことがあるだろう

andymori “おいでよ”

 ここは特に考察は要らない。「覚えていたこと」っていうのは、“ネバーランド”でいう「過ぎた日の情熱」や、“サンシャイン”でいう「昔のこと」と同義だろう。ここの歌詞を考えるとさらに、小山田壮平が自分自身に向けて書いた曲である、という考えが深まる。だって明らかに自分自身を客観視して語りかけているじゃないか。

サビ(1番)

サビに入り岡山健二がバスドラムを鳴らし始め、ベースの音も少しずつ豊かになるが、まだ静けさを保ちながら進む。小山田の伸びやかなファルセットが綺麗に響く。

おいで おいでよ 今すぐに抜け出しておいで
灰色の教室の窓の外へ
おいで おいでよ その心は見つめている
群青の空にまた月が浮かぶのを

andymori “おいでよ”

あぁ、救われた。
私はサビを初めて聴いた時そう思った。「頑張れ」でも「大丈夫だよ」でもなく、「おいでよ」。1歩隔てたところから呼びかけられる無責任な言葉ではなく、ただ居場所をつくる優しい言葉。
最近は少しづつ変わってきてはいるが、逃げる=負けるというイメージがあるような社会において、隠しているだけで、本当は逃げ出したい人は沢山いるはずだ。そんな人たちに対して呼びかけているのだ。「逃げ出しておいで」と。
次のラインをみると「自分自身に向けて書いた曲」というイメージが一気に薄れてしまうが、ここにも印象的な表現が。「ドアの外」ではなく「窓の外」。教室の「ドアの外」へ逃げ出しても、その先には廊下があり、階段があり、、、時間がかかってしまう。「窓の外」ならばすぐに外に出ることができる。たとえそこが高かったとしても、怪我をする可能性があったとしても、まずは一刻も早く逃げ出すためにはそんなことは二の次だろう。
次のラインは恐らく比喩表現なのだが、具体的に「これはこれの比喩だ」と言及するのは不粋な気がする。心が見つめるもの=群青の空に浮かぶ月、であるが、この月はAメロでの「覚えていたこと」と同義だと思う。多分。

それにしても「心は見つめる」という表現はスピリチュアルな印象を受けるよなぁ。人間の身体には実質的に存在していない‘心’は、しばしば深層心理的な、無意識的な真実を語る存在として描かれることがあるが、この考えの由来はどこにあるのだろうか。あまりにも浸透しすぎて「心は存在する」となんの疑いもなく信じているが、やっぱり実感が湧かない。哲学とか倫理の分野に納得いく説明があるとは思うし、小山田壮平はそれらに対して興味がある印象があるが、私にはそれらに対する造詣が乏しいので終わりにします。

「月が浮かぶのを」で印象的なブレイクを挟み、間奏で楽器隊が一気に奏で始め、3人による心地よいコーラスが響く。


Aメロ(2番)

1番とは一変し、間奏の盛り上がりを維持したまま駆け抜ける

夏の陽射しにスイカの赤が滲んだ

andymori “おいでよ”

散々引っ張ってきた、「小山田壮平が自分自身に向けて書いた歌詞」と考える大きな理由はこのライン。やはり「」。
2013年7月4日 朝9時、小山田壮平は高さ4.5m程の高さから河川に飛び降りて、全身骨折するほどの大怪我を負った。彼がこのような行動をした真意は本人以外に図られるものでは無いが、彼にとって大きな出来事であることに間違いはない。
ここのラインはこの出来事について歌っているようにしか見えない。「夏」の出来事だし、「陽射し」が出ていたであろう朝の時間帯だし、「スイカ」って丁度人間の頭ぐらいの大きさだし、「血が‘滲む’」っていうぐらいだし、、、。
って言うことを踏まえて歌詞をもう一度見てみると、ほら、ほかのラインも当時の自分に向けて書いた歌詞にしか見えなくなってくるじゃないか。

手を繋げたら何も間違っていないさ

andymori “おいでよ”

 「手を繋ぐ」っていうのは、「ハグ」や「キス」よりも圧倒的にハードルが低いのにも関わらず、安心感は段違いだ。身体の表面積の数%程度の繋がりなのに、それだけで十分、と感じてしまう。何も間違ってない、と感じてしまう。親とその子どもを繋ぐのは、愛する男女を繋ぐのはいつだって「手」なのである。

寂しい夜は賑やかな街に出て
静かな朝に思い出してみてよ

andymori “おいでよ”

 くぅーーー、わかる。
寂しい夜は賑やかな街で、誰にも相手にされなくてもいいから歩いていたい。自分だけ世界に取り残されたわけではないことを確認したい。そして、歩き疲れてたどり着いた河川敷なんかで、鳥の鳴き声と川のせせらぎだけを聞いて感傷に浸っていたい。「あの頃は良かった」だなんて思いながら、そんなこと思ってたってなんにも変わらないってことをわかっていながら、少し恥ずかしくなって家に帰ったりしてしまいたい。
ここで「思い出すもの」って「覚えていたこと」とかと一緒だよね?それとも「おいでよ」という囁きや「手を繋げたら何も間違ってない」という言葉のことかしら。

サビ(2番)

シンバルの音もなり始め鮮やかさを増していく。さらに寛のハモリも参入し、あぁ心地よい。

おいで おいでよ 今すぐに抜け出しておいで
焦らないで 手を伸ばしてみてくれないか
おいで おいでよ この扉の向こう側の
黄金の小さな庭から囁いてる

andymori “おいでよ”

 「今すぐに抜け出しておいで」と言っておきながら「焦らないで」と寄り添う。そして「手を伸ばしてみてくれないか」と呼びかける。「手を繋げたら何も間違っていない」から。
そして、またが出てきた。‘白’ ‘漆黒’ ‘灰色’ ‘群青’ ‘赤’に続いて‘黄金’。andymoriの歌でここまで色が出てくる歌はない。
ここでいう「黄金の小さな庭」とはなにを指しているのか。私はこの歌詞を見た時、率直に「あぁ、天国か」と感じた。「黄金の小さな庭」とはまさに自分が思い描く「天国」そのもので、そこへ行くためには生と死の境界を超えなければならない。その境界は「扉」によって明確に現れていて、「この扉の向こう側」から“おいでよ”という囁きが聞こえるのだ。扉を開けるか否か、それはあくまでそれぞれの人に託されている。そのうえでそんな選択肢もあることを教えてくれる。
2013年7月4日の小山田壮平には、扉の向こう側からそんな囁きが聞こえたのだろうか。

こんな考察をしてしまうと「死ぬこと」を勧めている歌、というとまたニュアンスが変わってくるが、「生きること」から逃げることを許している歌、というように思えてくる。 小山田壮平は「生きていればどうにかなる!」マインドではないとは思うし、「辛くなったら死んでもいい!」マインドでもないような気がする。あえて言うならば「いずれ死ぬことは分かっているよ」ぐらいの気持ちで、‘Life Is Party’だと思って生きる、というように感じる。そもそも『メメント・モリ』の意味がそんな感じだ。だから、「黄金の小さな庭」は「天国」なんて大仰なものではなく、「クラブナイト」のような場所なのかもわかりません。

どうでも良いのだけれど、「この扉の向こう側の」を「この言葉の向こう側の」と勘違いしている方が多くいるように思う。
YouTubeで1番再生回数が多い“おいでよ”の動画(この記事の最初の方に載っけたもの)は、『andymori ワンマン ひこうき雲と夏の音』の東京公演のもので、大阪公演に続いて2回目に披露した時のものである。緊張もあってか、1番の歌詞の「この心の」を歌いかけてしまい途中で軌道修正したため、「心」と「扉」が混ざって「言葉」に聞こえてしまった。
たしかに「言葉の」でも、言語に隠された真意=本音(本当の心)=黄金の小さな庭、と捉えることが出来るし、小山田壮平の歌詞っぽいし、ってことで疑問を持たずにいる人がほとんどだと思うが一応訂正しておく。
実際の歌詞を確かめたい人は『Sunrise&Sunset 小山田壮平詩集』をぜひ。


Cメロ

サビの盛り上がりを維持したまま続くCメロは、壮平の伸びやかな歌声と寛のコーラスがクライマックスへ向けて言葉を紡ぐ。小山田の歌は儚さを増していく。

時はなぜ 悲しみをつれてくる
僕はなぜ 君のことを見失う
確かめよう 夕食のテーブルで
沈黙は何よりも激しく愛を語る

andymori “おいでよ”

印象的なCメロでandymoriはぼくらに問いかける。
時はなぜ 悲しみをつれてくる
悲しみは時間が解決してくれる、だなんていうけどそんなこと今までなかった。ふとした時に急に思い出したりして胸が苦しくなってしまう。そして忘れたころにまた、悲しみはやってきたりする。andymoriは“Sunrise&Sunset”では 

Sunrise&Sunset 悲しみは消えない

andymori “おいでよ”

と歌い、“Life Is Party”では

いつの日か悲しみは消えるよって

andymori “おいでよ”

と歌う。“Life Is Party”の歌詞は一種の‘現実逃避的ななぐさめ’であるから、悲しみ=消えないもの、という前提があってこその詞である。そのためandymoriは一貫して悲しみは消えないものとして歌っている。しかし、悲しみ=消えないもの、ということを伝えた上で、それはなぜなのか、については教えてくれない。
「僕はなぜ 君のことを見失う
‘時’と‘悲しみ’という、抽象的な概念の関係性が歌われた前フレーズと対比して、一気にスケールが‘僕’と‘君’との関係性になる。すごい。
ここでもまた、それはなぜなのか、については教えてくれない。

そして次のライン。
うぅ…。すごい詞だ。
沈黙は何よりも激しく愛を語る
ああ、そうなのか、そういうことなのか。時はなぜ、僕はなぜ、と問いかけてきて、確かめよう、といってこのフレーズを残す。あー上手く言葉にできないけれども、この詞で、すべて理解したような気持ちになる。
THE BLUE HEARTSの“ながれもの”という歌にこんな歌詞がある。
「愛する時には 言葉はいらぬ」
ある種の本能的なものではあるが、私たちは猿だった頃から互いを愛してきた。そこには言葉はなかった。国籍や年齢の壁、もっと言えば単なる他人の壁、を超えるには言葉など要らず、目を合わせることやハグをすることで充分であった。そういった‘言葉がなくても伝わる愛’について歌った“ながれもの”に対し、“おいでよ”での「沈黙は愛を語る」は、‘言葉がないからこそ伝わる愛’のことを言っている。それがどんな夕食のテーブルであるかは各個人の解釈に依るが、例えば、「灰色の教室」から連想される、学校に居場所がない子どもを包む、部屋の温度、あたたかい味噌汁、絨毯の匂いのような。

後期になってから小山田壮平は‘愛’について歌うことが増えたと思う。ただ‘愛’という単語が出てきたり、明確に‘愛’とは言わずに漠然と歌っていたり。そんな‘愛’のひとつの形を、印象的なCメロで彼は歌った。直前の問いかけを全て包み込むようなその‘愛’が、小山田壮平の伝える‘答え’なのかもしれない。

大サビ

健ちゃんのコーラスも入りさらにビルドアップしていく。

おいで おいでよ 今すぐに抜け出しておいで
塞ぎこんだ箱の中で見た夢に
おいで おいでよ その心は見つめている
あの丘の上に一人 立ち止まったまま
群青の空にまた星が光るのを

andymori “おいでよ”

ここでは「塞ぎ込んだ箱の中で見た夢に」抜け出しておいで、と呼びかける。忘れられない「覚えていたこと」を、心のどこかでは諦めきれていないということを見抜かれている。
「夢」というのは届かないからこそ輝くものであり、だからこそ簡単に手放してしまうものでもある。睡眠中に見る「夢」から転じて生まれた言葉であることからも、‘現実離れした叶わないものである’という認識があるが、「夢」を追いかけているときの自分は確かに煌めいている。そんな自分を取り戻したい、と思いながらも諦めてしまっているように演じていることを気づかせてくれるのだ。

「星が光るのを」で印象的なブレイクを挟み、アウトロでも盛り上がりは続く。リズミカルなタムドラム、スネアドラムで区切られるアウトロは、5小節目よりコーラスが入り、ラストはギターとコーラスのみでフェードアウトしていく形で曲は終わる。

さいごに

 カツヲはこの記事を書きながら何度も“おいでよ”を聴いたのだが、もしカツヲが彼らの曲をリアルタイムで聴いてたとして、「こんな曲を最後の最後に作ってこられてきてたとしたら絶対に解散を認められてたと思うか?」と自分の中のかまいたちが何度も叫んでいた。
 改めて歌詞を眺めると、明らかに‘andymori’として作った曲であり、解散を意識して作った曲であることがわかる。となると、これから小山田壮平がこの歌を歌うことはないだろうし、歌って欲しくない。同じポジションの“それでも夜は星を連れて”を、ベロべロックンローラーになったツイキャスで歌ったことがあるようだが、やっぱり歌って欲しくない。とか言いつつ今の小山田がこの曲を歌ったりしたら、カツヲ情けなく号泣し、溶けて、地球とひとつになるだろうけども。
 そして何度もこの歌を聴いてて思ったのだが、やっぱり声が好きだわ。愛してるわ。あかんわ。

他の人の意見を見たくて、[andymori おいでよ]と調べると、出てくるのは“クラブナイト”のページばかり。もっと色んな感想を聞きたいから、みんな感想を書いてくれ〜!!

これで2ndALまでしか聴いてなかったちみたちに、この曲の魅力は伝わったかい?
なんか上手くまとめられないからさよなら!

今後も加筆修正します。

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