Aパート
第2部「黒薔薇編」がおわり、ある意味仕切り直しとなるこの第3部「鳳暁生編」の初回(第25話「ふたりの永遠黙示録」)では、丁寧に冒頭から鳳暁生が、「鳳暁生編」全体を象徴するスポーツカーに乗って登場する。また、第1話において強調的に散りばめられていた(校則や掟などの)ルールからの逸脱といった作品の根本に関わるテーマが、この回において再び確認されることになる。上の暁生と冬芽によるやり取りも、そのうちのひとつと言えるだろう。なお、そこで暁生は、「生徒の自主性を重んじる」と語っているのだが、もちろんそれは表面上のことであって、これから暁生に「世界の果て」を見せられる生徒=デュエリストたちというのは、暁生によって「自主的に」決闘するよう「誘導」されているのが実態である。
第3部の開幕ということで、「引っ越し」という心機一転を感じられる丁寧な設定となっている。若葉が理事長館を訪ねると、ウテナとアンシーの二人は、新しい部屋の掃除をしている最中だ。このとき、チュチュが対峙する掃除機を、冒頭からの流れで、アキオカ―(鳳暁生のスポーツカー)のメタファーとして捉えることができるだろう。すなわち、アンシーの分身とも言えるチュチュが掃除機に吸い込まれている様子は、まさにアンシーが暁生(- 鳳学園)の磁場から抜け出せないことを象徴しており、吸い込まれた後に掃除機を壊して外へ出る様子は、まさに本作のラスト(=アンシーが自ら学園の外へ出ること)を予言的に暗示していると考えられるのである(掃除機=暁生は、「黒薔薇編」における「ネズミ取り」(第22話)=御影草時よりも手強そうである)。ちなみに脚本では、掃除機を壊す描写までは見られない。まだウテナが暁生の正体に気付いていないこの回の段階で考えるなら、上の脚本にあるように、掃除機に対しては、「やつあたり」するくらいの方が内容的にマッチしていると言えるかもしれない。また、ウテナがチュチュに対して、「クリーナーの前をうろついちゃだめだ」と忠告しているのもおもしろい。いわば掃除機=暁生という存在が危険であると、メタ的に言及しているわけである。
さて、掃除の手伝いに来た若葉は、暁生に対して天使のようなイメージを抱いているようだ(「あの笑顔……天使の微笑みっていうんですか?」)。しかし、もちろんそれは、このときの若葉自身が、アンシーに対して天使の仮面を被っているのと同様(「ほら姫宮さん、お茶のおかわりはいかが?」)、暁生が被っている仮面の姿に過ぎない(なんとも皮肉の効いた構造となっているのである)。そのことを証明するかのように、この場面のラストカットでは、暁生の「不審な表情」が映され(下の画像)、さらに【生徒会】シーンを挟みながら、(手紙の差出人である)世界の果て=暁生(=かつての「星」、かつての天使)=現在の堕天使(ルシファー)という等式が成り立つことが、丁寧に示されていくのである(なお、周知のように、【生徒会】シーンで見られる野球描写は、脚本にはないものである (*1) )。
暁生の正体が、今はなきかつての「星 (*2) 」、かつての天使(=「大事なものをなくした人」)であり、幼い頃のウテナを救ったディオスであったことが暗示された流れで(「なんだか、なつかしい感じがする人だよな」)、今度は新たな「星」、新たなディオスの誕生が丁寧に描かれる。すなわち、アンシーの中で、かつてのディオスの姿と、現在のウテナの姿が重なるのである(「ウテナ様も、私にはときどき、なつかしい人みたいに、思える時があります」)。これにより、アンシーの中からディオスの剣が消失することになるのだが、それに伴って、アンシーは、自らの言葉を喋ろうとするようにもなるのである(「ねぇ、ウテナ様……私、本当は……」)。ちなみに脚本では、ウテナとアンシーは、向かい合うことも手を握ることもせず、まるで(ディオスを暗示する)空にある「星」を眺めるかのように、「天井を見て」話している (*3) 。
新しい部屋の掃除をしていたウテナと丁寧に呼応するように、この回の決闘相手である西園寺もまた、道場の掃除をしている(なお、脚本では、先のウテナとアンシーのシーンが、「部屋の明かりが消えてウテナが眠るまで」という全体の流れだったのと丁寧に対比させるように、この西園寺と冬芽のシーンは、「明かりのある部屋から西園寺が出て(暁生によって)目覚め(させられ)るまで」という全体の流れになっている)。冬芽にうながされて西園寺が聞いた「世界の果てを駆け巡る、この音」=「アキオカーのエンジン音」とは、もちろん私たちが私たちの内面――魂や精神――で聞く、いわゆる「天使(神)の声」(啓示)などではない。冬芽は、「魂が本当はあきらめていなければ」などと言葉を繕っているが、実際のところそれは、単に外界から聞こえてくる「エンジン音」でしかないだろう。その音(声)は、いわば暁生という堕天使(悪魔)の囁きなのである (*4) 。そして西園寺は、その声に耳を傾けてしまうことになる……。
Bパート
Bパートの冒頭は、Aパートの冒頭と丁寧に呼応している。ただし今度は、冬芽だけでなく、西園寺もアキオカーに同乗している。この第3部「鳳暁生編」では、運転席に座って車の行く先を握る(≒権力を持つ)大人である暁生が、子供であるデュエリストたちを自分の車に乗せ、「世界の果て」へと運んでいくことが基本フォーマットとなっている(大人/子供という対比については、「ウテナの肩をさりげなく抱く」暁生と、「乱暴にアンシーを抱き寄せる」西園寺によっても描かれている)。この回において「世界の果て」へと運ばれるのは、西園寺である。そして、このBパートの冒頭では、まだ「世界の果て」を知らない西園寺が、「居心地が悪そう」な様子で描かれ、(アンシーの兄である暁生がその場にいることから)「薔薇の花嫁」についての話題を避けようとするのとは対照的に、すでに暁生に対して憧れのようなものを抱いている冬芽は、Aパートと同様、「心地いい震動」を感じて「楽しんでいるよう」に描かれ (*6) 、積極的に「決闘ゲーム」に関する話題を西園寺に振っていく。
また、この場面では、後部シートに座る冬芽と西園寺との丁寧な対比だけでなく、ウテナと西園寺との丁寧な対比も描かれる。すなわち、アンシーに向かって「君と友達になりたい」と語っていたウテナと、冬芽に向かって「友情なんて、この世界にはない」と語る西園寺との友達(友情)に関する対比であり、かつての暁生(ディオス)から「永遠のもの」を見せられた(≒「永遠の今」に触れた (*7) )、幼い頃のウテナと(「あの女の子は、暁生さんに永遠のものを見せられて、救われたのさ」)、現在の暁生(堕天使)から「世界の果て」を見せられる、「永遠のもの」を求める西園寺との永遠または暁生に関する対比である(したがって、サブタイトルの「ふたりの永遠黙示録」における「ふたり」とは、基本的には、ウテナと西園寺の「ふたり」のことを指していると考えられ、さらにそこから、ウテナとアンシーや西園寺と冬芽などの「ふたり」に拡大して解釈していくことも可能であると思われる)。
そして最終的に、前日まで「命令されて戦うのはまっぴらだ」と語っていた西園寺は、暁生から「世界の果て」を見せられたことによって、見事に「自主的に」決闘するよう「誘導」されてしまうのである(「もう僕は昨日までの僕とはちがう」 (*8) )。
冬芽による、「あの夜、あの女の子を柩の中から救いだしたのは、この暁生さんなんだ」という台詞の直後、まるで冬芽自身も、暁生によってある種「解放されてしまった」ことを示すかのように、冬芽と西園寺の友情の象徴とも言える包帯が「解かれる」カットが挟まれ、いつの間にか、冬芽の前がはだけて描写されているのは、おそらく風山十五の演出だろう。
作品の本質を、端的に暗示しているともいわれる影絵少女のパート。それはこの回においても当てはまるだろう。前述したように、アンシーはウテナの姿をかつてのディオスと重ねて見るようになり、自分の言葉を喋ろうとするようにもなった。自分の言葉を喋るということは、これまでのように「薔薇の花嫁」として、何でも無条件に受け入れるとは限らなくなったということである(少なくとも受け入れる段階において、ためらいが生じ得るということである)。これまでのウテナとアンシーは、二人でいるようでいて、実質的にはウテナだけの一人で自己完結していたと言える。
しかしこれからは、そうはいかない「二人でやってくむずかしさ」が待っているというを、ここでは暗示していると思われるのだ(ゆえに新しいバンクシーンでは、ウテナとアンシーの二人で「ゴンドラ」に乗って、決闘広場へ向かう姿が描かれるのだろう)。つまり、ウテナとアンシーは、ようやく二人のスタート地点に立ったということである。ちなみに、第37話における「カンタレラ」を想起させるような、B子の「アンタだって、私の食べかけのプリン食べちゃったじゃない! 二週間前のだけどね」という台詞は、脚本では、「アンタこそ、きのう私のブラウス勝手に着たくせに!」となっており、脚本よりも「二人でやってくむずかしさ」を感じられるものに変更されている。
作中において幹が語っていたように、決闘広場は、地面からニョキニョキ生えるスポーツカーが非常に印象的な、「新たな決闘のステージ」となっている。前述の通り、アンシーにとって現在のウテナは、かつてのディオスの位置を占めるような存在となっているため、この決闘中において、ディオスの剣は消失してしまうことになる (*9) 。しかし、それに伴い自分の「感情」を取り戻したアンシーは、自らの意志でウテナの胸からウテナの(ディオスの)剣を抜き、ウテナはそれを使うことで、見事に西園寺との決闘に勝利するのである。アンシーが自らの意志で行動したことは、これまでになかったルールからの逸脱を表しており、ディオスの剣が出現しないままウテナが決闘に勝ったことは、今後鳳暁生が、ウテナのことを「かつての自分のような存在」として認識し、本格的に自らの支配下に置こうとするようになることへの丁寧な伏線となっている。
ルールからの逸脱を推奨する、鳳暁生の台詞から始まったこの回のラストシーンは、近親相姦というルールからの逸脱を自ら実行する、鳳暁生の姿がほのめかされる (*10) 。なんとも丁寧な構成である。アンシーは、この回において自分の「感情」を取り戻したわけだが、まだまだ暁生の言う通りに従っている段階のようである(「(ためらいつつ、結局)……はい」)。おそらくアンシーは、これまで長期にわたって、暁生の言葉をルールとして内面化してきたため、そう簡単には、これまでと違った行動をとることができないのであろう。もっとも、言われたことに対して反発するようになったとしても、それだけでは暁生というブラック・ホールのように強力な磁場から抜け出して、「自由」になることはできない (*11) 。なぜなら、本当の意味でのルールからの逸脱(システムからの「自由」)とは、新しいルールを創造することだからだ。ルールを壊すだけでは「革命」ではない。本作における「革命」とは、新たなルールを創ることである (*12) 。
チュチュがいったん掃除機に吸い込まれながらも「外」へ出られたように、アンシー(とウテナの二人)が、暁生(- 鳳学園)という強力な磁場から抜け出して「革命」を果たすには、まだまだ長い道のりが待ち受けているのである。
【第25話 END】