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『アキの奏で』を読む

あらすじ
 東京に来て10年、子供の頃からの夢であった太鼓奏者として活動しているアキ。だが現実は厳しく、演奏活動とアルバイトとの二重生活。先の見えない日々を悶々と過ごしていた。そんな時、アキの所に1本の電話が鳴る。15年ぶりに復活する事になった太鼓祭りの為に、帰ってきて技術指導をしてもらえないかと。

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©J.C.STAFF/文化庁 アニメミライ2015

 吉岡先生からの1本の電話は、暗いアキの部屋の中に、文字通りひとつのをもたらす。アキは、吉岡先生のいる熊本へ行くことで、忘れかけていた夢(≒生命力)を取り戻すことになるのである。しかしこの時のアキはまだ、将来について大きな不安を抱いている。そのため、カーテンの隙間から部屋に入り込む(生命力を象徴する)太陽の光を、まるで遠い過去を見るような表情で見つめた後、カーテンで閉ざしてしまうのである。このことは、アキの部屋=アキの心がまだ、過去の夢=光を受け入れられる状態ではない、ということを示しているのだと思われる。

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©J.C.STAFF/文化庁 アニメミライ2015

 アキの心が再び光を受け入れられるようになるキッカケのひとつが、故郷の熊本で見る美しい夕陽である。アキは、夕陽の光に包まれながら、これまで自分が歩んできた過去を思い出す(=回想シーンに突入する)。アキは、小学生の頃に太鼓(- 吉岡先生)と出会い、夢中になって太鼓祭りに向けて練習するようになる。しかし、太鼓祭り当日に不運な事故が起きてしまい、以後15年間、太鼓祭りは開催されなくなってしまうのである(太鼓祭りの前日に台風のせいで飛ばされてしまったアキの赤い傘こそ、アキの手元から離れてしまった太鼓祭りの象徴であろう)。

 次第に町の人たちも太鼓祭りのことを話題にしなくなり、太鼓に触れる機会を失ったアキは、どこかモヤモヤした想いを持ったまま中学時代を過ごしたようである。そのことを示すかのように、中学の卒業式シーンでは、空が曇っている。しかし、高校入学と同時に、アキの心=空は再び晴れる。アキは、再び太鼓(- 吉岡先生)と出会うのである。

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©J.C.STAFF/文化庁 アニメミライ2015

 高校生となって吉岡先生と再会したアキは、本格的に「あの音を取り戻したい。秋の太鼓祭りを復活させたい」と思うようになり、その前身として、まずは高校の和太鼓部を復活させる(将来プロになるだけのことはあって、女子の中ではアキが一番体力があるようだ)。

 そしてアキは、ついに文化祭という舞台において、初めてスポットライトを浴びながら、人前で太鼓を演奏することになり、その後、プロの太鼓奏者となるために上京し、実際にプロとなった現在――文化祭で感じていた光(ライト)=夢を忘れかけている現在――に至るのである。

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監督:鈴木洋平
原案:J.C.STAFF/石田美由紀
絵コンテ・演出:石田美由紀
脚本:倉太和久

 本作は、実質的に石田美由紀の作品と呼んでもいいのではないだろうか。主人公のアキが太鼓に対して抱いている悩みや葛藤は、原案と絵コンテを務めた石田自身(ひいては若手アニメーターたち)が、アニメに対して感じていることとパラレルなことであろう。アキの父親が、太鼓なんて「役に立たない」と言った瞬間、反論できずに逃げ出してしまった高校時代のアキの行動からは、ひときわ実感が感じられた。(本作のキービジュアルは、やけにそうしたアキの葛藤部分を強調しているように思われる。もしかしたら元々のプロットでは、厳しい環境にある現在のアキにスポットを当てていたのかもしれない。しかし、それでは作品全体のトーンが暗くなり過ぎてしまうため、現状のような形に落とし込まれたのではないだろうか。もちろん実際のところはわからないが、脚本名義にペンネームと思われる名前がクレジットされているのは、そういった類の経緯があったからではないだろうか)

 ところで、「奏」という漢字には、成し遂げるという意味があるそうだ。つまり本作『アキの奏で』は、主人公であるアキが、秋の太鼓祭りにおいて太鼓の音を奏でる〔成し遂げる〕物語であると言えよう。太鼓祭りの復活を成し遂げ、アキが再び前を向いて歩き出す(=アキの心が再び光を受け入れられるようになる)までの物語であると言えよう。また、本作は、文化庁の「若手アニメーター等人材育成プロジェクト参加作品」というだけのことはあって、子供から老人まで様々な人物が登場し、それぞれが細かい目線や手の動きなどによって丁寧に描き分けられている。そして、演奏シーンはもちろんのこと、多少複雑な日常芝居のシーンにも力が入っているように思われる(個人的には、アキの同僚である女性が、空となったビールをわざわざ画面の奥にアキがいる構図のまま動かしている序盤の打ち上げシーンが印象的であった)。

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©J.C.STAFF/文化庁 アニメミライ2015
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 さて、吉岡先生とアキは、駅で久しぶりに再会した場面において、「変わらんねぇ宮川」「吉岡先生も」と言い合っていた。しかし本心では二人とも、「あの頃のままなわけない」と思っており、車の中で少し会話をすることで、そうしたお互いが抱いていた本心に、それぞれが気づいて笑い合うという様子が描かれていた。アキの父親の言動もこれと同じで、実際のところは、どこまでが本心なのかよくわからないと言えるだろう。もしかしたら成り行きで、頑固オヤジのような態度をとっているだけなのかもしれないし、例えばプロになったアキの活動を、実はこっそり見に行っていたとしても、それほどおかしなことではないだろう。それこそ少し会話をするだけで、案外簡単に、二人の関係が修復してしまうことも考えられるだろう。

 アキは太鼓祭りの最中、一度も文化祭の演奏を見に来なかったそんな父親の姿を見つける。太鼓に対して否定的と思われていた父親が、理由はどうあれ(おそらく孫が主な原因だろう)堂々と見に来てくれたのである。もちろんこのシーンには、アニメに対して否定的な人にも、いつか自分たちの作品(想い)を見てほしい(伝わってほしい)という本作の作り手たちの願いが込められているのだと思われる。

 アキの熊本弁や太鼓祭りのように、なかなか変わらないものもある。しかし、そうした習慣や伝統でさえ、時間の経過とともに、その内実は確実に変わっていくものである。故郷の街の景色や名称が、時間の経過とともに変わっていくように、太鼓という夢に対して、背伸びをして覗くことしかできなかった少女が、その夢を叶えてプロの太鼓奏者として自立した女性となったように、すべての事物・事象(関係)は、変わらざるを得ない。

 アキの父親が演奏を見に来たように、何かの巡り合わせによって、伝わらないと思われていた人にも、(ほんの少しかもしれないが)想いが伝わることがあるのだ。だから、アキが葛藤を抱えながらも再び前を向いて歩き始めたように、これからも本作の作り手たちは、「役に立たない」かもしれないアニメを、それでも前を向いて、きっと作り続けていくのだろう(筆者は本作から、石田美由紀のそんな強い覚悟を感じたのである)。

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©J.C.STAFF/文化庁 アニメミライ2015

アキ「私は、幸せなんだと思う。夢に出会えたこと。今も夢に向かって歩き続けていること。ほんのちょっとだけ夢は現実になったけど、楽しいことだけじゃなくて。だけど手放すのは怖くて。後戻りもできなくなって。それでも、それでも前を見れば、道は……えいさ!」

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