『あまんちゅ!〜あどばんす〜』「ピーター編」(第7話~第9話)を読む
第7話「永遠のガクエンサイのコト」
アバン終了後のAパート冒頭。姉ちゃん先輩が、翌日に控えた文化祭のために作っているのは、ウツボカズラとラフレシアの装飾品である。ここで、それぞれの植物の花言葉を確認してみると、ウツボカズラが「甘い罠」であり、ラフレシアが「夢うつつ」である。これらの花言葉は、どちらもピーターの存在を匂わせるものであり、これから姉ちゃん先輩が体験する、ピーターとの夢のような出来事をうかがわせるものになっていると言えるだろう。また、これらの一風変わった植物を冒頭から出すことで、おそらくこの「ピーター編」が、普段の『あまんちゅ』とは少し違ったテイストであるということの宣言にもなっているのだと思われる。
姉ちゃん先輩は、無意識的に好意を寄せる永遠野先生が、嬉しそうに真斗ちゃん先生と一緒に教室を出て行くところを見て、つい吐き捨てるように、「まずっ」とつぶやく。見たくなかったものを見てしまい、永遠野先生のことが〝好きだ〟という自身の本心に気づきそうになりながらも、その気持ちを素直には認められず、その行き場のないモヤモヤした気持ちを、苦い「ゴーヤ汁」にぶつけている感じがよく伝わってくる台詞である。
ちなみに、教室から廊下に出て、自分のクラスを「外」から見ているこの姉ちゃん先輩のシーンと対比させるように、次のシーンでは、さらに校内の「外」に出て、「すべてのクラスが見渡せる」グラウンド上に立つ永遠野先生と真斗ちゃん先生(=大人)の姿が描かれることになる。
さて、姉ちゃん先輩が、「ゴーヤ汁」の口直しのために、みんなの輪から抜け出して、屋上の踊り場で「いちごミルク」を買って一休みしていると、「ピーター編」の主役であるピーターの登場である。姉ちゃん先輩とピーター=永遠野先生は、共に「いちごミルク」と「ゴーヤ汁」を飲むことで共通(シンクロ)しており、ピーターが「いちごミルク」を飲んでいることが、ピーターの正体が永遠野先生であることの伏線にもなっていたようである(なお、二人が「いちごミルク」を飲む場面において、姉ちゃん先輩の前に現れるのが永遠野先生ではなくピーターなのは、大人になった永遠野先生には、口直しの必要がないためであろう)。
ところで、夢占いにおいて「いちごミルク」とは、「甘い恋愛がしたい」という気持ちが強くなっていることを表すそうだ。そして、実際に姉ちゃん先輩はこの後、夢か現実かわからないような、甘い「おデート」をピーターとすることになるのである。
まるでピーターと姉ちゃん先輩の二人が、「窓の向こう側の世界」へ行くかのようなショット。「ピーター編」ではこのような、窓(=境界)を使った印象的なシーンがいくつも見られる。
姉ちゃん先輩が見当たらないことを、見廻りをする真斗ちゃん先生に伝える女子生徒。一般にワニとは「危険」を象徴するものとされているが、ここで女子生徒たちが持っているのは、ワニの人形である。つまり、一見危なそうに見えて実は安全という意味において、これは物語と完全にシンクロしていると言えるだろう(アバンにおける「とびだし注意」の電柱幕や真斗ちゃん先生の「気をつけろ!」といった台詞に加えて、ここでも真斗ちゃん先生はピーターのことを「警戒している」わけだが、実際にピーターが姉ちゃん先輩に対して危害を加えるようなことは起こらない)。あるいはワニには、『ピーター・パン』に登場するワニへのオマージュという意味合いが含まれているのかもしれない。
ループ感を感じさせる視覚的な遊びシーン。真斗ちゃん先生が姉ちゃん先輩やピーターを探して、校内(箱庭)の中をぐるぐると回っているような印象を持たせる。なお、ループと言えば、「文化祭前日」という設定や、永遠野先生による、「昔は、この時間が止まってしまえばいいと思ってました。朝が来なければ、この楽しい時間が終わらないのに」という台詞、さらにはピーターと姉ちゃん先輩の「夢のような」幻想的デートシーンなどから、特にこの回においては、この「ピーター編」の元ネタのひとつであろう押井守監督の映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を想起させるようなシーンが随所で見られる。
姉ちゃん先輩が、まさにピーター(=永遠野先生)と真斗ちゃん先生とを〝つなぐ〟存在であることを匂わせるショット。ピーターとのデートの最中、姉ちゃん先輩は、つい「この夢のような時間が終わらなければいいのに」とつぶやいてしまう。しかし、ピーターに「本当にそう思う?」と問われた姉ちゃん先輩は、「でも、楽しい時間はいつか終わるもの。だからいいの。だからこそピカピカに光輝くものなのよ」と答える。ピーターは、「大人になりたくない子供」だけを「永遠の国」へと連れて行く。そのため、すでに留まることなく流れていく時間(≒大人になること)を受け入れている姉ちゃん先輩のことを、ピーターは「永遠の国」へ連れて行こうとはせず、姿を消してしまうのであった。
この回のラスト、ピーターについての話をする真斗ちゃん先生。本当の「外」の世界を知る真斗ちゃん先生側の窓は開いており、姉ちゃん先輩側の窓は閉じられている。この構図により、学校内部で閉じられた窓の前に立つ姉ちゃん先輩が相対的に子供っぽく見え、姉ちゃん先輩が、「またピーターに逢いたい」と思っていることをうかがわせるようになっている。
第8話「届かない儚いオモイのコト」
姉ちゃん先輩と二人でいた際には、大人として振る舞っていた(=直接窓の「外」を見ていた)真斗ちゃん先生であったが、一人になると、窓に映った自分自身、すなわち自分の内面を見ている。おそらくピーターのことを考えているのだろう。真斗ちゃん先生のように、大人になったからといって、ピーターのような存在を完全に忘れてしまうことなどできないであろうし、忘れてしまうことが、大人として〝正しい〟というわけでもないだろう。
その正体が、好意を寄せる永遠野先生であるため、無意識的にピーターのことが気になって仕方がない様子の姉ちゃん先輩は、再び屋上の踊り場へと赴く。そこで、もう一度ピーターに「逢いたい」(≒「永遠の国」へ行きたい)と願いながらうたた寝をしていると、姉ちゃん先輩は、高校時代の(=大人になりたくなかった頃の)真斗ちゃん先生がいる、時間や空間を超越した世界――「永遠の国」へ迷い込むことになる。「永遠の国」の成り立ちについて語る真斗ちゃん先生の話は、大人になりたくない人(モラトリアム人間)のメタファーとして解釈できるだろう。すなわち、大人になりたくない人(=ピーター)とは、全能感を持った赤ん坊のような存在であるのだが、様々な迷い人と出逢ううちに――これについては、例えば様々なコンテンツを消費していくことのメタファーとしても読み取れるだろう――成長して、自分の世界(=「永遠の国」)を広げていくというのだ。
なお、ピーターの正体が、生後間もない幼児であることについては、『ピーター・パン』の生みの親として知られるジェイムズ・M・バリが、初めてピーター・パンというキャラクターを登場させた著作『小さな白い鳥』における設定を踏襲したものだと思われる。
確かにピーターのように、自分の世界(=「永遠の国」)に閉じこもった状態において成長することも可能ではあるだろう。とはいえ、やはりそこに文字通り「永遠に」閉じこもることは不可能であろう。ゆえに、船から零れ落ちる「水」とは、「現実」の象徴ではないだろうか。だんだん街が浸水していく様子は、ピーターという大人になりたくない人の身に、だんだん「現実」が介入してくることのメタファーとして読み取ることができるだろう。また、街の水没シーンからは東日本大震災が想起され、ピーターが、嫌でも「現実」と向き合わなければならなくなった感じを抱かせる。
しかし、「現実」と向き合わなければならなくなったピーターがとった行動は、あくまで自分と同じような「大人になりたくない人」を(現実世界から)自分の世界(=「永遠の国」)へ呼んで来ようとするだけで、その世界に閉じこもること自体をやめようとはしないのであった。
もはや「永遠の国」の水没を止められないと悟ったピーターは、姉ちゃん先輩と高校時代の真斗ちゃん先生をそれぞれの時代の現実世界へと帰して、一人で閉じこもる(≒死を待つ)ことを決める。このとき、大人になりたくなかった頃の真斗ちゃん先生は、一緒に閉じこもる道(≒心中)を選ぼうとする。ここでの真斗ちゃん先生による行動は、おそらく無意識的に大人になりたくないと感じているような、本作の視聴者(読者)を想定しているのだろう。そして、おそらく本作の作者は、真斗ちゃん先生のような「一緒に留まろう」とする態度では、本当の意味でピーターを救うことはできないぞと言いたいのではないだろうか。
第9話「終わりのない夢とナミダのコト」
ピーターから自殺宣言のようなことをされてしまった姉ちゃん先輩は、ピーターを救うべく、再び「永遠の国」へ行くことになる。そして、そこで姉ちゃん先輩は、現実では決して言えないであろう永遠野先生への〝好きだ〟という想いをピーターに伝え、「一緒に目を醒まそう」と言う。「楽しい時間はいつか終わる」という現実を受け入れている姉ちゃん先輩は、高校時代の真斗ちゃん先生のように「一緒に留まろう」とするのではなく、「一緒に帰ろう」とするのである。ここでの姉ちゃん先輩によって語られる台詞は、自分の世界に閉じこもっている人へ向けた、本作の作者からのメッセージとしても読み取れるだろう。例えば、「目が醒めたらギャン泣きしなさい」というのは、まるで「(多少迷惑をかけることになってでも)周りの人を頼りなさい」と言っているようである。
ちなみに、作中において姉ちゃん先輩は、「水」を「涙」の象徴として解釈しているのだが、「水」は一般に、「死と再生」の象徴ともされており、まさにそのことを示すかのように、ピーターにとっての「永遠の国」の世界が一旦終わりを迎えると同時に、ピーターという赤ん坊が目を醒ます(=新しい物語が始まる)ことになるのである。
前述した『ビューティフル・ドリーマー』の押井監督が、「もしラムが詐欺師だったら」というアイデアから制作したというOVA『御先祖様万々歳!』では、室戸文明というキャラクターが登場する。その作中において室戸文明は、最終的に自分が存在することで生じてしまったタイムパラドックスを解消するため、自分で自分を殺す道を選択してしまう。本作「ピーター編」について、タイムパラドックスを気にする人は少なくないように思われる。幸いにして、ピーターには姉ちゃん先輩がいたため、室戸文明のようなバッドエンドは回避されたのだが、もしもタイムパラドックスを気にして辻褄合わせが行き過ぎてしまうと、おそらくピーターも、室戸文明と同じ道(=矛盾を解消するために自分の存在そのものを消してしまう道)を辿ることになっていたと考えることができる。
しかし、そもそも本作における「永遠の国」とは、人々の無意識がつながった精神世界(ユング的無意識)のような世界であり、因果律に縛られていない世界である(『あまんちゅ!〜あどばんす〜』第4話「秋とふわりふわりの幸せのコト」において描かれた「共時性現象」からもわかるように、本作は、ユング心理学と相性が良いように思われる)。つまり、本作については、タイムパラドックスを考えること自体が間違いだと言えるのだ。そしてそのことは、実は『御先祖様万々歳!』における室戸文明にも言えることではないだろうか。室戸文明は、時間の流れを正常にしようとして自死の道を選択したわけだが、果たして「正常な時間」とは何であろうか。姉ちゃん先輩からすれば、押井的な「無限のループ構造からの脱出」なんて簡単なことである。パラドックスが生じていようが何だろうが、現に存在しているのだから、その矛盾を受け入れて、ただ現実を生きればいいだけのことである。
ちょっと恥ずかしい「おばあちゃんになっても必ず捜し出してみせる」という姉ちゃん先輩の台詞は、本作「ピーター編」において欠かすことのできない、最も重要な台詞のひとつではないかと思われる。というのも、「必ず捜し出す」とは、つまり「現実で逢う」ことを意味するからだ。これは、ピーターに現実へ帰る目的を与えてあげることに他ならない。現実において何の目的もなければ、またいつ「永遠の国」のような世界へ行ってしまってもおかしくないだろう。赤ん坊の永遠野先生の潜在意識の中に、「二宮愛に逢う」という目的が刻まれたからこそ、ピーターは、永遠野先生という「大人」になることができたのではないだろうか。また、このことは、前述した『ビューティフル・ドリーマー』に託けるなら、「責任をとる」ことにも関係していると言えるだろう。なぜなら、姉ちゃん先輩がピーターのためにやっていることは、比喩的に言えば、「出産」のようなことだからだ。姉ちゃん先輩は、いわば永遠野先生を産み(=目醒めさせ)、その責任を負う(=必ず逢う)のである。
責任を引き受けた姉ちゃん先輩だからこそ、現実の世界へ戻っても、すぐにピーターのことを思い出せたのではないだろうか。
一説には、人間が体験した出来事というのは、すべてが記憶として保存されているのだが、そのほとんどは有用でない記憶のため、想起するのが困難な状態にあるのだという。真斗ちゃん先生がピーターについて、元々どの程度覚えていたのかはわからないが、姉ちゃん先輩の話を聞いた真斗ちゃん先生は、ピーターとの出来事を完全に思い出した様子である。一方、現実の世界へ戻って来ても、ピーターのことをちゃんと忘れていなかった姉ちゃん先輩は、自ら真斗ちゃん先生のいる窓の「外」へと出て、真斗ちゃん先生とある種〝対等な〟立場となって(=並んで)描かれ、成長したことが映像的に示されるのである。
おそらく「ブルーストライプ(のパンツ)」とは、「運命の赤い糸」をずらした表現なのだろう。姉ちゃん先輩にとってピーター=永遠野先生は、運命の人ではないことから赤ではなく青なのであり(青春の青?)、縞模様なのは、二人が交わらない(=カップルにならない)ことのサイン(徴候)だったのではないだろうか。また、縞模様のパンツは線がぐるりと回っていることから、「ピーター編」のキーワードでもある「回る=ループ=永遠」ということも連想させる。真斗ちゃん先生の名字「火鳥」の元ネタは、永遠に死ぬことのない「火の鳥」であろうか。どちらも「永遠」に関する名前を持つ永遠野先生と真斗ちゃん先生のカップルを肯定しようとする姉ちゃん先輩の態度からは、「永遠回帰の法則を受け入れよ」と言った哲学者・ニーチェの「運命愛」的な思想(自らの運命をあるがままに受け入れること)が感じられる。もしかしたら姉ちゃん先輩の「愛」という名前は、「運命愛」からつけられたのかもしれないだろう(なお、いち早くニーチェ的な思想を背景にして、押井的な「無限のループ構造からの脱出」を描いた良作のアニメとして、首藤剛志脚本の映画『戦国魔人ゴーショーグン 時の異邦人』の名前を挙げておきたい)。
「ピーター編」のラスト、「よくできたじゃない」という姉ちゃん先輩の台詞には、まるで本作の製作者が、失恋という「ゴーヤ汁」以上に苦い経験をしてもなお、前を向こうとする姉ちゃん先輩(≒視聴者)を励まそうとするような、あるいは、自分の世界に閉じこもることなく、ちゃんと目を醒ますことができたピーター(≒視聴者)を褒めてあげるような、そんな意味が込められているのだろうと感じられる台詞となっている(永遠野先生が言っていたように、「ゴーヤ汁」も「飲めば好きになる」かもしれないのだ)。全体的に母性的な視点で描かれていた「ピーター編」の最後を飾る台詞として、これ以上のものはないのではないだろうか。
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