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アダルトアニメ『ぴこ×CoCo×ちこ』を読む

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©NATURAL HIGH 2008

 本作は、世界初のショタエロアニメ (*1) として有名な、『ぼくのぴこ』シリーズの第3弾である(基本的には、シリーズの過去作を見ていなくても楽しめる内容となっている)。本作における最大の特徴のひとつは、シリーズ初登場のCoCo(ここ)という幻想的なキャラクターであろう。町の地下に住むとされるCoCoという存在は、アニメ作品でいえば、『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』における「町の記憶」や、OVA『MINKY MOMO IN 夢にかける橋』における「出会いの橋」、あるいは、『CLANNAD(クラナド)』における「町の思い (*2) 」などを想起させる不思議な設定となっている。作中においてCoCoが、「大きな町には妖精がいる」と語っているように、まさにCoCo自身が、町の潜在意識を象徴する「妖精のような存在」として描かれているのである。しかし、本作における「町」とは、一般的な意味での町とは異なるように思われる。

CoCo「ぼくの名前はCoCo」
ぴこ「ここ?」
CoCo「そう、ここにいるのここ。ずっとここにいるから」
ちこ「ここって東京に?」
CoCo「ううん、この星に」

 CoCoの「この星に」という発言から、CoCoが宇宙人である可能性も考えられるわけだが、ここで重要なのは、CoCoにとって「ここ=(東京という)町」とは、「この星」全体のことを指していると思われる点だろう。つまり、CoCoという「妖精のような存在」は、ある特定の町に留まり続けているわけではないということが、ここでは示唆されていると言えるのだ。そしてそのことは、シリーズを通して町から町へと移動してきたぴことも、あるいは、常に動きまわり続けているちことも重なるものであり、このCoCoという新たに登場した幻想的なキャラクターの立ち位置が、決してぴこやちこと対立的(対比的)に配置されているわけではないということ――むしろ、ぴこやちこと近い存在であるということ――が、示唆されているのである(本作のラストシーンにおいて、冒頭CoCoがいたビルの屋上にぴこがいることが、そのことをよく表しているだろう)。要するに、ぴことちこも、CoCoと同じように、「妖精のような存在」と言えるのである(考えて見れば当たり前のことだが、ぴことちこも、十分に不思議な存在である)。

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 まるでイギリスの作家オルダス・ハクスリーが、ディストピア小説『すばらしい新世界』において、未成年の子供たちがセックスを「遊び」として楽しんでいる様子を描いたように、ぴことCoCoは、無邪気にお互いの体を重ねる。初めてぴことCoCoがエッチをするシーンについて、本作の監督である谷田部勝義は、「(彼らにとって)遊ぶこともエッチすることも、キスすることも手をつなぐことも、あまり変わらないことだと思うんだよね。ヘンなことをしようとしてるわけじゃなくて、したいことをしている」と、オーディオコメンタリーで語っている。やはりぴこたちは、セックスをある種の「遊び」として、自然な行為として捉えているようなのである。しかし当然のことながら、ぴこたちは何者にも管理されていない自由な存在であり、本作はいわゆる「ディストピアもの」ではない。谷田部は続けて、「遊びというより先に、相手が好きだということがある」と語っており、あくまで重要なのは、お互いの気持ちであることを強調している。

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 本作において随所で印象的な描かれ方をしている鬼灯。前述のオーディオコメンタリーによれば、CoCoがぴこたちと初めて会った場面においてCoCoが鬼灯の鉢を持っていたのは、CoCoが「ほおずき市かどこか」で「買ってきたから」ということらしい。そして、ぴこたちが「仲良くなるにつれて鬼灯がどんどん増えて」いき、逆に、仲が「うまくいかなくなった時に、鬼灯はなくなって」しまい、ラストの赤いタワーの場面において再び鬼灯が現れるのは、「三人が仲良くなったしるし」ということだそうだ。つまり、鬼灯という記号(シンボル)が、その時々における三人の「仲の良さ」を表しているというわけである。しかし、本作において鬼灯が果たしている役割は、それだけではないように思われる。

 鬼灯とは、お盆に仏花として飾られることも多いことから、おそらく鬼灯を画面に出すことで、CoCoという存在を、より霊的で不思議な存在に見せる狙いがあったのではないだろうか。そして、本作全体が、まさに「町の潜在意識」=「夢の世界」であるかのような印象を、視聴者に与える狙いがあったのだと思われる(例えば、CoCoによる「夜中の3時に三軒茶屋の3丁目で3匹の三毛猫がサンバを踊ってるのを見ると(…)」という「さん(三)」から始まる単語をつなげた一次過程的な音の連想による台詞には、精神分析の創始者であるジークムント・フロイトの、「夢分析」における自由連想法が念頭にあったことが考えられるだろう)。また、これらのことは、鬼灯の花言葉である「不思議」や「偽り」とも重なるものになっている(ちなみに、鬼灯の花言葉には、他にも「私を誘惑して」というのがあり、すぐさま本作における主題歌『僕を連れてって』が連想されるだろう)。

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 町には、携帯電話があふれている。私たちは、携帯を所持することによって、常に誰かとつながり合っているような気になることが可能となった。「たくさんの電話が集まると、脳と同じになって、心が生まれるの」というCoCoの発言は、まるでインターネット的な集合的無意識のことを言っているようでもあり、CoCo自身が、そうした「町に宿る集合的無意識」を象徴する存在であることを、自ら宣言しているかのようでもある(あるいは、本作自体が、まさに個々人が集まって作られた、ひとつの「心」なのだ、という意味が込められているのかもしれない)。

 CoCoは、ぴことちこに対して、まるで地下に電気が通ったり通らなかったりしていたように、「あちこちで生まれた色んな心が、つながったり切れたりして、変化していく」のだと語る。おそらくこの考えは正しいだろう。というのも、例えば遊園地の場面において、CoCoがちこのことを「かわいくて好き」と言った際、ぴこが「えっ……」と言って、悲しげな表情を浮かべたことが示唆するように、その瞬間におけるぴことCoCoの二人の「心」をつないでいた「線」は、確実に揺れ動いていたと言えるからだ(おそらく嫉妬の一種だろう)。つまり、このようなちょっとした一言でさえ、「心」とは影響を受け、変化してしまうものと言えるのである。あちこちにある「心」のつながりが、簡単に切れてしまう場合もあり得るというわけだ。

 さらにCoCoは続けて、そうして変化し続けていくのが、「この町(=この星)」なのだと語る。この発言は、CoCo独自の考えというよりは、前述したように、留まり続けることのないぴこたち三人の有り様(思想)ともリンクしていると言えるだろう。また、この考えは、本作自体の考えとも一致しているように思われる。なぜなら、そもそも『ぼくのぴこ』シリーズという特異なアニメを制作すること自体が、アニメ界はもちろんのこと、「この星」という現実世界の地図の中に、新たな「線」(=価値)を加えることに他ならないからだ。新たな変化(=創造)を生み出すことに他ならないからだ。

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 セックスとは、まさに「つながること」を体現している。本作では、まずぴことCoCoがつながり、次にちことCoCoがつながる(ぴことちこは、すでにつながり済みである)。しかし、ぴこが、ちことCoCoが「仲良くしている」ところを目撃してしまい、ぴことCoCo、ちことCoCoのつながりが、一旦切れかけてしまうのである(CoCoには、ぴことちこの二人を「天秤にかける」ことができず、そのため自分自身が、ぴことちこの前から姿を消そうとするのである)。CoCoとのつながりを諦め切れないぴことちこは、CoCoを探しに町中を走りまわり、最終的に電波(=「線」)が集中する場所――「妖精の住み家」とされていた赤いタワーで、CoCoを見つけることになる。

 二人に見つかったCoCoはそこで、「やっぱり一緒がいい」と言い(CoCoは、初めてぴこたちと会った場面においてゲームの景品を貰う際、「ひとつだけお別れすると、その子が寂しくないかしら」と言っていた。おそらくCoCo自身も、ひとりが寂しかったのだろう)、そして最後は、三人全員がつながって(=それぞれの「心」をつないでいた「線」を、より強固なものにして)、ハッピーエンドとなるのだ(三人で「円=輪」を作ってエッチをするのが象徴的である)。

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 三人がフィニッシュした瞬間、彼らを祝福するように花火が打ち上がり、まるで町そのものが「つながり」を取り戻したかのように、町全体に電気が灯る。打ち上がった花火が美しいのは、一瞬のことでしかない。しかし、その一瞬の美しさを「心」に焼き付けた者にとっては、その一瞬は、永遠のものとなるだろう。本作の惹句には、「少年の夏は永遠のファンタジー」とある。つまりこの花火には、おそらくぴことちこ(そして本作の視聴者)が体験した、この夏に起こったCoCoとの夢のような束の間の出来事が、彼らにとっては「永遠である」ということが、表現されているのだと思われる。

*1 参考:ぴこプロデューサー日記:久々・・・メールのご返事
*2 参考:CLANNADの考察・解釈レポート(心理学的視点から)

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谷田部勝義「(男と女という)枠自体が僕はどうでもよくて。枠の前に、〝好きかどうか〟ってことだから。枠は、社会的なものだから」

『ぴこ×CoCo×ちこ』オーディオコメンタリーより

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