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日本人の好きな『忠臣蔵』、しかしこの話し、ほとんど根拠にもとづかない!

#忠臣蔵 #大石内蔵助 #大石良雄 #浅野長矩  
#吉良上野介

以前は12月14日ともなると、必ず忠臣蔵のドラマがテレビで放映されていた。NHKの大河ドラマでも、過去私が知っているだけでも4回も取りあげられている。1964年の赤穂浪士、1975年元禄太平記、1982年峠の群像、そして1999年の元禄繚乱。友人でこれらをビデオに残してくれているものがいて、よく借りては視聴したものだ。

*最近、放映されない理由!
忠臣蔵も基本は、「完全懲悪」ドラマ。悪いものがいて、さんざん暴れまくるが、最後には善人がそれを懲らしめるストーリー。以前ほどこの流れが、人気がないのも一因と考えられる。

もう一つの要因としては、この忠臣蔵にまつわる新しい資料が色々と出てきたことだ。それを見ていくと話しがまるっきり変わってくる。我々が真実とした話し、それは事件から47年も経って作られた「人形浄瑠璃」にあるという。このストーリー、完全な創作だったのだが、歌舞伎などでも取りあげられ、いつのまにか世間に流布し信じられていった。

*これまでの筋書き!
江戸幕府に、京の都から上皇が使者を派遣。この饗応(接待)を任されたのが、赤穂藩・浅野長矩だった。公家には、様々なシキタリがある。その知識を持っていたのが、吉良上野介義央。浅野より26歳ほど年長の吉良、1683年3月の1回目の接待は無事に終わらせる。

続いて18年後に浅野は2度目の接待を申しうける。ここで吉良は、浅野からの指導料が少ないことに腹を立てるという流れ。そして吉良は、浅野藩に嫌がらせをしたという筋書きである。怒った浅野は、江戸城内において、吉良を脇差で斬りつけた。すぐに周りのものに取り抑えられた浅野。その日のうちに、切腹となる。

赤穂藩にとっては、驚きのニュースだった。浅野藩が取りつぶしになるかもしれない。弟に家督を継がすことができれば納得はできる。しかし、望みは絶たれ改易となってしまう。ここで家老の大石良雄は仇討ちをする算段を始める。そして最後はみごとに主君の恨みを叶えたという話しだ。

*幕府の調査はなかった!
この物語、きちんと事実を調べて書き上げたものではなかった。そもそも、幕府もきちんと調査した形跡が残っていない。たぶん家老の大石も、そうなるであろうことを直感し、浅野藩の協力者に「こう言ってくれ!」と話したはずだ。

その一人に、赤穂藩の医者、吉井玄渓(よしいげんけい)がいた。その顛末を調べていた水戸藩の役人にたいし、吉井は大石と打ちあわせた話を告げた。

*浅野長矩、どんな人物!
幕府としては、各大名の素行調査をしていたようだ。その資料によると浅野長矩という人物の本当の姿が垣間みれる。「無類の女好き、家臣にたいして良い女を差しだすように伝えていて、それを忠実に行ったものは出世をさせた」、また「藩内の政治は、すべて家臣にマル投げ、自分ではおこなわない」。

一方で、領民に対してはかなり厳しかったという。製塩はすべて藩の専売制として、領民が売買をすることを厳しく取り締まったようだ。そして領民には、かなり重い税を課していたとする。まさに暴君といったところだった。

*吉良上野介の人物像!
吉良は領民から慕われていたと言う。領民のための土木事業やを積極的に行っている。治水事業や新田開発などだが、藩内の政治は自分が中心となり進めたようだ。

したがって素晴らしいことに、いまだに吉良の悪口をいう人はこの地方にはいないと言う。三河の人々にとって吉良は、名君としていまだに賞賛されている。

また、江戸城内で、浅野が吉良に斬りつけたとき、吉良は「浅野殿は乱心したのではないか?」と、かかりつけた医師に告げたという。もし乱心であるならば、かなり軽い刑罰で済んだともいわれている。これは赤穂藩に気遣ったとも見えるのだ。自分が斬りつけられたというのに、なんと寛大なのか!

まとめ
家老の大石良雄をいれ47名が吉良邸を襲撃した。将軍家のお膝元で起きた事件である。しかも、家臣が主君のため仇討ちをするという事は、かつてなかった。このため、幕府としては仇討ちとは認めなかったようだ。

武装集団によるテロ事件である。吉良と浅野の関係がどうのこうのという事は、幕府にとってどうでもよかった。とにかく、このような暴挙は取り締まらなくてはいけない。そんな考えで、生き残った大石をはじめとする27名にたいし、切腹を命じたようだ。

忠臣蔵、いわば美談として語り継がれてきたが、江戸の人々が勝手に話を作りあげた可能性が高いと言える。けっきょく、この話し、以後の日本人に多大な影響与えた事は事実だ。歴史とは、つまりは虚実が入り混じっていること、それを肝に銘じておくべきだろう。

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