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歴史、日本に「原爆投下」は誰が主導したのか?トルーマン?それともルーズベルト?または…?

#原爆投下 #トルーマン
#ルーズベルト #マンハッタン計画  
2024年、米国第96回アカデミー賞、不思議なことに、原爆に関係した2つの映画が受賞した。ひとつは「原子力の父」ともいうべき、物理学者Jロバート・オッペンハイマーの人生を描いた作品。もう一つが、日本映画「ゴジラ-1.0」。

ゴジラといえば、1946年米軍が太平洋ビキニ環礁でおこなった原爆実験により、近くにいたゴジラが被爆。一旦は体が焼けただれたが、再生する途中の遺伝子エラーにより、巨大化したという設定だ。ゴジラ映画のほうは、アカデミー視覚効果賞だった。

*ここからが本題…。
マンハッタン計画により、アメリカは3発の原爆をつくった。そして、ニューメキシコ州の砂漠で実験。「トリニティ実験」と称したその成果は、なんとTNT爆弾20,000トンに相当する威力だった。このとき大統領は、Hトルーマンに変わっており、この核実験が成功した話しは、ドイツでのポツダム会議中に聞いている。

反共主義者のトルーマン。ポツダム会議に出席したスターリンにこのことを告げたという。いわば米国の絶対的有利、顔はホコロんだようだ。もちろん、スターリンは焦ったに違いない。しかし、「我関せず」を演じたと思われる。

原爆をどう使うか!これについては、前年(1944年) 9月には、Fルーズベルトと英国首相チャーチルとの間で、既に決められていたようだ。ハイドパーク協定たが、核を日本へ使用することが…。ここが第一のポイントだ。

1945年4月12日、ルーズベルトは脳卒中で急死してしまう。かわって大統領になったのが、トルーマンだった。核開発について何も知らされていないが、大統領になって共産勢力との対抗を意識した時、核の力に魅力を感じたに違いないとも言えよう。

アメリカ人にとって、ルーズベルトの人気は未だに絶大なものがある。第一位はリンカーンだが、第二位には必ずルーズベルトが入るという。それほど愛されている大統領だが、日本人にとっては憎むべき存在と言っていい。

日系人の強制収容を推し進めたのも、このルーズベルト。1942年2月、大統領令「9066号」署名している。これ以後、日系人は家や財産を失い、収容所に隔離されていく。ルーズベルトにとって日系人は「とんでもない人間」に見えたということだろう。

*ルーズベルトを影で支えた政治家!
ジェームズFバーンズという男がいる。家は貧しく、大学には行けなかった。しかし、苦労して弁護士の資格をとる。そして、民主党の下院議員となった。けっこう腰が軽く、いろんな仕事をすぐに行い、周りからの評判はかなり良かったようだ。

一方、ルーズベルトは裕福な家庭の出だ。こちらは、大学をでて弁護士となる。この時バーンズはルーズベルトに目をつけたようだ。「政治家にならないか!」と持ちかけた。そして、ルーズベルトはニューヨークで、バーンズの力を借りて28歳で上院議員に初当選する。

しかし、ルーズベルトは39歳でポリオウィルスに感染し、8年ほど入院することとなった。しかも、退院してからもまともに歩けない不自由となったようだ。車椅子は欠かせなくなった。

退院すると、まもなくニューヨーク州知事の話しが舞いこむ。これもどうもバーンズの力で当選したようだ。4年後の1932年、州知事のときの手腕を買われ、大統領選には出場。『ニューディール政策』を国民に訴え、勝利した。

この後、バーンズとルーズベルトは、保守対リベラルの立場で一時的に対立することになる。しかしすぐ関係を修復し、ルーズベルト大統領選第4期では、バーンズは経済担当の国務長官となった。そしてこのとき第二次世界大戦が始まることとなる。

戦時経済政策の責任者として、バ−ンズは絶対的な力を持つこととなった。いわば「影の大統領」ともいえる存在。ルーズベルトが計画した「マンハッタン計画(=核開発)」も、バーンズの手に委ねられるたようだ。軍関係者や学者も、口出しできぬ存在となっていた。

1945年4月に大統領となったト−マン。自分もふくめ、軍関係者や学者のほとんどが、日本の都市への原爆投下には反対だった。一人だけ違う意見の男がいた。それが、バーンズだ。トルーマンに対して執拗に食いさがり、日本への攻撃を飲ませたという。

理由は、20億ドルもの多額の費用をかけて、何も効果が得られなかった場合、国民から非難を浴びてしまう。しかし、実績を示せば、自分の功績となる。そんな思惑があったと思われる。

また、対戦後の東西冷戦も睨んでいたようだ。核保有は米国の切り札となる、そんな思いもあったのだろう。いずれにしろ、トルーマンは、反共主義という立場である。ソビエトへの牽制にはなるだろうとの読みから、「ゴーサイン」を出してしまった。

原爆投下場所を最終選定したのは、米国陸軍少将レズリー・グローブズだったようだ。書面として残っているのは、このグローブズのものだけだから…。

まとめ
我々日本人の知らないところで、原爆使用の話しが進んでいったようである。日本が、原爆投下の少し前に、講和を受け入れなかったのも、バーンズによるようだ。日本政府が、ポツダム宣言を受け入れる条件を再度米国に確認した時、このバーンズが「無条件」としたためといわれている。

ある意味、バーンズは「死の商人」になり下がったといって良いだろう。日本への原爆投下を主導したのは、J Fバーンズその人だ。

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