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親の背中をみて育つとは?どういうこと!

#親の背中 #反面教師
#父の記憶 #思い出話し  

誰にでも親はいる。自分と親は全く別の人間、そう思っていても、どこかで何らかの影響受けているようだ。その辺りのことを考えてみることとする。

*幸運つづきの父!
大正ボーイの父。先の大戦で、もっとも死んだ年代に生まれた父だったが、運の良いことに、召集されその赴任先は中国本土だった。ただ入隊して半年後に病気で入院する。ここでまたまた信じられないことが起きた。幹部候補生の試験を受けていなかったのにもかかわらず、退院すると少尉となっていたのだ。

本人の話しによると、2つのことが考えられるという。1つは、旧制中学の最終学年で、学年一位の成績だったこと。そしてもう一つが、近くに住んでいた叔父、軍隊勤めのあと除隊となり、郷里に戻っていたこの人物から、軍隊で上官から認められる術を教わったことにある!そのように言っていた。

つまり、軍隊では、上官がなにか質問する。「この中で〇〇ができるものはいるか?」。この時できるできないにかかわらず、すぐに手を上げ「はいっ!私がやります」と答えろと言ったようだ。真面目のうえに馬鹿という文字がつく父。言われたことをそのまま実行したという。これが評価を上げたと思われる。

*中国本土で終戦となった父!
ここでまたまた幸運が続く。中国本土から日本への引き揚げ。この業務に当たっていたのが、かつて勤めていた会社(満鉄調査部)、その直属の上司だったこと。顔を合わせると、誰よりも先に日本に帰えれるよう手配してくれたと言う。

郷里・福島の実家に戻ると、ここでも歓迎されたようだ。会津の田舎町、近隣22町村で将校になったものは1人もいなかったと言う。初めて少尉になったのが父だ。だから地元では誰からも一目置かれて存在だったという。

このことで、仕事もすぐに決まる。地元では中堅の土建会社に就職した。その会社の社長から認められ、会計責任者になったようだ。あまりの幸運つづき、これには少々驚いた。

*勤務先の会社が倒産!
さすがに、戦後の復興期、物資もなければ、国や行政もまともには機能していなかった。入社して、数年で、会社は傾いてしまう。次の仕事を探しているときに、目にしたのが、警察予備隊(1950年設立、自衛隊の前身)の隊員募集のポスターだった。

ここでも軍隊時代に少尉だったことが生かされたようだ。初めから幹部としての採用だった。基本として幹部の仕事は楽だとされる。副官や当番兵が周りの細々とした雑事をやってくれるからだ。どこまでこの運が続くかと思うくらいだ。

*結婚相手は部下からの紹介!
入隊し、各地をまわって行き着いた勤務先は、長野県松本だった。ここで部下として知り合いになった人物にA氏がいたという。父の趣味は、当時流行の社交ダンスである。それを知って、自分の妻、その妹に社交ダンス好きがいると紹介したのだ。若い2人すぐに意気投合して結婚という話しとなった。

それで生まれたのが、私である。このA氏の家族と、私の家族とは、なぜか深いつながりとなった。A氏の長男が、大学入試に失敗した時、面倒を見たのだ。一浪で都内の予備校にかよう長男の下宿先として我が家が使われた。またその妹の結婚にも、父がふかく関わったようだ。

そして、その妹が紹介したのが、私のいまの妻である。以前このnote取りあげた仲人の話し。これはイトコであるこの妹の息子、その縁談話しだった。私が骨をおって、結婚相手を見つけたのだ。なにか不思議な縁で結ばれていると思う。

*奇人変人な父!
父自身は、12人兄弟の三男。しかし幼くして四男と五男が次々に亡くなったようだ。そのため、親(私にとっての祖父母)は、異常なほど可愛がったという。だから中間子であるにもかかわらず、性格は末っ子といった感じとなった。

悪いところを挙げれば、「自分中心」 「自分の意見を無理にでも通そうとする」 「人使いが荒い」 「一度きらった相手には、徹底的にやっつける」 「いつも一儲けを考える山師」 「自分ではやらずに、やたら他人にやらせる」などなどの言葉では全く足りない。

したがって、長男や次男の年上に対しては良い弟として振る舞ったが、自分より年下の弟たちからはすこぶる評判が良くなかった。すごいと思うのは、父の法事で集まった時など、彼ら弟から私が文句を言われたことだ。だが、一番その迷惑受けたのは自分の方なのだが……。

まとめ
父の良いところは、その悪さに隠れて、いまだに何も言えない自分がいる。あまりに面倒な人物だった事は間違いない。しかし、その血を受けついている自分、父を反面教師として見ていたようだ。父本人も、その父(私の祖父)の行動を同じように見ていた。いつも母を殴りつける父。自分は絶対しない!そう話していた記憶がある。

とにかく手紙を書くのが好きだった父。晩年は、仕事の関係の本を自費出版した。なんと初版でいきなり千部も作ったのだ。100部はなんとか売ったが、ほとんどが残った。人の意見を聞かないことで、無駄な金を使ったようだ。これを最後に処分したのは、私だった……!反面教師としては、色々と学ばせてくれた父だった。

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