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[ NPB ]伝説の大打者で名監督!落合博満、その素顔にせまる!

#落合博満 #森繁和
#和田一浩 #落合信子

日本人にとって野球は、国民スポーツの代表。数々の名選手と名監督を産んできた。その中でも、異色中の異色、それが落合博満だ。野球少年だったが、何度も野球を辞めている。高校では7度退部して8度も入っている。大学に行ってもすぐに野球をやめてしまう。理由は、体育会で日常おこなわれる下級生いじめ。上級生は、いわば王様で、下級生を奴隷のようにしてあつかう。これで嫌気がさした。

しかし、持ち前の能力、周りが放っておけない。社会人として入った東芝府中工場。ここでもすぐに頭角をあらわし、四番となった。そしてプロに入団することに…。プロ野球では、年長のものが幅を聞かせる社会である。落合にはなかなか馴染めないものがあったようだ。本人、ここでもまたやめて、郷里へ帰るつもりでいた。

このとき既に付き合っていた女性がいた。今の信子夫人である。プロ野球契約が終わってたまたま飯を食いにいった先にいて、付き合いだしたという。この信子夫人が、野球を続けるように説得したことで、その後の落合が生まれたようだ。もしこの信子夫人がいなかったならその後の活躍はない。

*落合博満のヒミツ!
あまり触れていないことだが、太ももの周囲は60センチ以上あるという。これは競輪選手に匹敵するサイズだ。なぜこれほど太ももが太くなったのか。それが簡単な話、それだけ練習で鍛えあげたということだろう。とにかく落合は、練習は人には見せないし、決して練習しているとは言わない。だから、その努力は人にはわからないのだ。

練習は人に見せないところでおこなう。落合の言葉にそれがあらわれている。「野球とは、素振り1本でも多くやったやつが勝つ世界」。寸暇を惜しんで練習に打ち込んだ姿がみえるだろう。

*監督になってからの落合!
まず取り組んだのは人集め。2004年の中日、そのチームを引っ張っていく人物を選んだという。それがピッチングコーチとして選んだ森繁和である。落合は投手については何もわからないという立場。したがってそれを支えてくれる人材がどうしても必要だった。実はこの森繁和と落合はそれほどの接点はない。

森に言わせると、ある晩に電話がかかってきたそうだ。「俺だよ。わかるか?」と。しばらくしてようやく落合博満からの電話だと気づいた。「中日の監督になった。投手については君に任せたい」と言うのだ。ちょうどコーチを辞めたばかり、すぐに了承したという。

和田一浩も落合が集めた人物である。すでに35歳となり、フリーエージェントを宣言していた。この和田に声をかけたのだ。2007年のオフの事だった。和田は岐阜出身の選手。中日には親しみを持っていたためすぐに快諾する。

落合この和田にのぞんだ事は、主砲としての役割だった。こんな逸話が残っている。試合でノーアウト2塁、どうしてもチームとしては1点欲しい場面である。そこで和田はランナーを進める右打ちをしたそうだ。西武ではいつもそうしていたからだが…。試合後、監督室に呼ばれると落合から一言いわれた。「右打ちはするな!」と。あくまで自分のバッティングをしろと言うのだ。

*守備主体のチーム編成!
とにかく練習量の多さでは12球団随一だった。落合の考えは「守備は計算できるが、打撃はミズモノ」。打撃には好不調が付きものだが守備は練習さえすれば身につくもの。だからこれを徹底したという。

すごいのはコーチに伝えた言葉。「選手が1人でもグランドに残って練習していたら、コーチは最後まで見守ってくれ!」と。普通コーチは選手より早く切りあげるもの。しかし、コーチにもこのルールを徹底させた。

*まとめ
グランドに描かれたバッターボックス。これを落合はみて曲がっていると思うと、球審にいって書き直させたと言う。数ミリの違いでもわかったようだ。この辺理、やはり職人という気がしてくる。知合いの鳶(とび)によると、高層住宅を見上げて数ミリのズレでもあるとわかると言う。これが職人の世界である。

監督としては、いつもクールだった。テレビにはそう写っていたが、実際には違っていたようだ。監督室に戻ると、人には見えないところで感情を爆発させたという。落合にとって、自分が嫌だと思う事は、コーチにもさせないように指導している。若い時から、いじめや制裁を誰よりも憎んだ人物だからだ。

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