見出し画像

[人物伝]フランスを代表するシャンソン歌手『エディット・ピアフ』 彼女の生涯を振りかえる!

#シャンソン #ピアフ
#エデット・ピアフ #愛の讃歌


今回のお題、『エディット・ピアフ』だが、これを書いてくれと身内からのリクエストがあったため、筆をとることにした。本人が言うには、パリ五輪の開会式でセリーヌ・ディオンが『愛の賛歌』を熱唱。あまりの素晴らしさに魅了されたからだと言う。確かにこの歌の魅力は、我々日本人にも、間違いなく届いている。

『愛の讃歌』、日本の歌手で大ヒットしたのが越路吹雪だった。200万枚も販売されている。そういう私も子供ころから盛んにこれを聞かされたものだ。小学生のころ親族がよく遊びに来ていた。この人物がシャンソンにハマっていて来るたびに聞かされたのだ。今でも、シャンソンの「枯葉」を何も見ずに歌うことができる。

*幼少期のエディット・ピアフ!
本名は、エディット・ジョヴァンナ・ガションという。ピアフは、フランス語で「雀」を意味する。つまりは愛称(後に芸名)だった。1915年生まれのピアフ、両親は2人とも収入は安定してなかったようだ。父は大道芸人の曲芸師、母もストリートで唄う歌手だった。そのため、2人が子供を育てる余裕はなかったと言える。はじめ母方の祖父に預けられたピアフ。しかしすぐに追い出された。次に向かったのが父方の祖母の家。その祖母は仏国北部ノルマンディーで売春宿を経営していた。

劣悪な環境にも思えるが、祖母も働いていた娼婦も、ピアフには優しかったという。この頃のピアフは幸せだったようだ。しかし、3歳のとき目の病「角膜炎」にかかってしまう。失明するのではないかと思われるほど症状は悪く、7歳の時まで全く目が見えなかった。これを案じた祖母、ピアフをリジューまで連れていく。この地にある「聖テレーズ」に祈りを捧げ、目が治ることを念じたようだ。

するとどうだろう。驚くべきことに視力が回復したと言うのだ。この奇跡にいちばん仰天したのはピアフ本人だった。このため、ピアフは生涯にわたり「テレーズ」を信じるようにしてなっていく。一流の歌手になってからも、ピアフは十字架を離さなかった。そして苦難の時は必ずテレーズに祈りを捧げている。

*学校に行けなかったピアフ?
売春宿で生活しているピアフ。それはすぐに学校でも知れ渡るところとなり、学校内でイジメの対象となってしまう。近所にいた神父も心配したようだ。そして、父親に忠告する。「あなたがピアフの面倒をみなさい」と。ピアフは7歳で、祖母の家をでて曲芸師の父と放浪の旅に出た。

ピアフには全く曲芸の才能はなかったようだ。そのため路上で歌を唄うようになったと言う。8年後には父と別れ、ピアフは自分一人で生活するようになった。この頃知り合ったのが、モモーヌ(愛称)。このモモーヌは、いわゆるヤンキーで悪仲間といつも遊んでいたのだ。ピアフ20歳で恋愛し、女の子を出産する。しかし環境が悪かったのだろう。その子はわずか2歳で髄膜炎にかかり、命を落としてしまう。悲嘆に暮れるピアフだった。

*プロ歌手への道、その転機!
初めにピアフの才能に気づいたのは、高級キャバレー経営者のルイ・ルプレ。このルプレが、彼女に「ピアフ」と名付けた。だが、このルプレ、ほどなく何者かに殺されてしまう。すると、ピアフ、また悪仲間と付き合い始め、酒浸りの日々となった。

ここでさらに、ピアフの力量に感づいた人物がいた。作詞家のレモン・アッソ。このアッソ、ピアフに対し、その生き方を変えれば、歌を提供すると告げた。考えたピアフ、アッソの指示通り、彼の家にいく。そこから3年に及ぶ2人の共同生活が始まった。アッソは自分の持てる知識と教養を全てピアフに注ぎ込んだという。

アッソは、ピアフに飛躍の場を用意する。それはミュージックホールABCでのコンサート。この催しで、ピアフの名は人々に知れ渡るようになった。このころ戦争の陰が迫っており、アッソは軍隊に入ることとなる。しかし、一度名声が広まったことで、ピアフのもとには様々な文化人があらわれ、交流していくこととなった。詩人や戯曲家のジャン・コクトーや俳優のモーリス・シュバリエ。詩人のジャック・ボートガットなどだ。

*ピアフの才能が開花!
作詞家のアッソによる指導は無駄ではなかった。ピアフは身につけた知識をつかい、作詞をして人々を魅了するようになる。「ラヴィアンローズ(バラ色の日々)」や「愛の賛歌」も、ピアフの手による作詩である。

またピアフは、人材も発掘し育てた。例えば、シャルル・アズナブール、この世界的なシャンソン歌手を引き上げたのもピアフである。戦後すぐにピアフは、米国ツアーにアズナブールを同伴させた。また俳優で歌手のイヴ・モンタン。彼もまたピアフにより名声を勝ちえた人物とも言える。

*まとめ
エディット・ピアフの人生を見ると、様々な試練があったことがわかる。自身の怪我や病気もそうだが、子供や愛人や夫までも失ってもいる。ピアフは47歳でその生涯を閉じたが、それは癌によるものだった。しかし最後の夫となったテオ。20歳も年下ではあったが、最後までピアフを支えたと言う。しかもピアフの死後に残った負債も、このテオが6年かけて完済したようだ。ピアフの名言をひとつ紹介しよう。「私は何も後悔しない」である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?