俺がねづっちを見限った日

ねづっち。

元Wコロンのねづっち。

即興なぞかけと、「整いました!」の一言で一世を風靡したねづっち。

Youtube Shortsで人気がちょっと再燃したねづっち。



いいや、あえて根津と呼ばせていただく。

愛称で呼んでいては、俺の悲しみが届かない。

2010年。

俺は根津を見限った。


当時まだ小学生だった細野少年は、根津の大ファンだった。

豊富なボキャブラリーと並外れた瞬発力から繰り出す当意即妙な回答。

賢さが面白さになる様をまざまざと見せつけられた。

地元の秀才として一目置かれながらも、「お利口さん」としてどこか馬鹿にされていた細野少年にとって、根津は希望の光だった。

頭脳をめいっぱい働かせることが芸になる。
たくさん読んだ本、蓄えてきた言葉たちは武器になる。

秀才細野は、学校で即興なぞかけを始めた。
なにぶん賢かったので、TVショーの真似事も、そこそこのクオリティーで出せてしまう。
学校の人気者になるのに、時間は要らなかった。


俺にとって根津は光だった。
師だった。


そう。
あの日までは。


TVを点けると、根津がなぞかけのお題をふられていた。

「浅田真央ちゃんで!」

バンクーバーオリンピックの後で、注目の的だった浅田真央選手。

根津はいつものごとく、光の速さで整える。

根津「整いました!」

私はTVを食い入るように見る。

お師匠様は浅田真央のどこを何とかけるのだろうか。


根津「浅田真央さんとかけまして、木曜日とときます!」

TVタレント・私「その心は〜?」




根津「次は金でしょう!」


は?

師匠は何を言ってるんだ……?

根津「ねづっちです!」
TVタレント「お〜(パチパチパチパチ)」

え?終わり?


浅田真央選手は、バンクーバーで銀メダルを獲得したばかりだった。

つまり、根津の回答は以下のように理解される。

・次(こそ)は金(メダル)でしょう!
・次(の日)は金(曜日)でしょう!

まったく鮮やかじゃない。

俺はこの日この瞬間を境に、根津を見限った。

この人間から学ぶべきものはもう何もない。

俺は超えてしまったんだ。
だから、師だった人物のかけ方に納得がいかないんだ。

絶望とも失望ともいえぬ感情で、細野少年は呆然としていた。

怒りも混じっていたように記憶している。

質の低いなぞかけを披露された怒りと、こんな人間を範としてしまった自分への怒りだ。


なぜ「次は金でしょう」が美しいと思えないのか。
分析していこうと思う。

①二文字

かかっているのが「金」の二文字だけであることは大きな問題だ。

かかる文字数が長くなればなるほど鮮やかに感じられるところ、二文字とは実質的には最少字数だ。

②同義

そして、かけられている言葉がほぼ同義であることも美しさを損ねている。

なるべく異義である方が望ましいとされるなぞかけの世界で、同義である「金」を用いてしまっている。

「いやいや、かたやgold、かたやFridayなのだから、意義だろう」という反論が聞こえてきそうだ。

しかし、金曜日(Friday)に「金」という字を使うのは金星に由来し、金星に「金」という字を使うのは、金星が明るく輝きまるで金goldのようだったからだ。

辿っていけばすぐに二つは重なってしまう。

そうでなくても、漢字が同じ時点で駄作だ。

③芸術からプロパガンダへ

何より細野少年を傷つけたのは、そのなぞかけを披露した意図だ。

根津の腕前があれば、浅田真央をお題にしてももっと鮮やかな回答ができたはずなのだ。

「つぎはきんでしょう」を維持したとしても、

「浅田真央とかけて、割れた食器とときます」
「どちらも、つぎ(次・継ぎ)は金でしょう」

とかにすれば、まだお見事感は保てたはずだ。


ではなぜ「木曜日ととく。どちらも次は金でしょう」などと薄っぺらいなぞかけに走ったのか。

2010年。オリンピックの熱も冷めやらぬ中、スポーツを通じて一体感を得ている日本。

浅田真央選手を応援し労いたい気持ちが蔓延していただろう。

そこに乗っかり、根津はただ上部だけの耳心地の良いことを言ったのだ。

日本語という言語体系の中を自在に泳ぎ回り、意のままに言葉を操っていた芸術家はもういない。

そこにいたのは、メディアや世論が欲しがる気持ちのいい言葉を口にするだけの下卑た親父ギャグ吐き機だった。

「割れた食器」のように不吉な語は使えなかったのだ。
美学を捨て、マスに走ったのだ。





そんで、浅田真央選手の次(ソチ五輪)は6位とのこと。

金じゃないんかい。



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