潔癖症
アルバイトの帰り道、「ご自由にお持ち帰り下さい」と記された食器群に出会した。ショッキングだ。
焼き鳥を出す居酒屋の軒先に置かれていたのだが、店の戸には「リニューアル予定!」と書かれていた。
景気の良い「お持ち帰りください」だと分かり、少しほっとした。店の改装なり、経営方針の転換なりで邪魔になったものなのだろう。
私は立ち止まり、しばらく考えた。
そして、レンゲや小皿はもう持っているので、こういう機会でないとなかなか所有に至らないであろうジョッキを手に取り持ち帰った。
アサヒビールの小ジョッキだ。
よく洗って、使ってみたが、今のところ飲み口のヘリがやたらと分厚いだけだ。
ジョッキの真価は、冷やした時に現れる。
常温ではせいぜい重たいグラスでしかない。
しげしげとジョッキを眺めながら、不思議に思う。
どうして私は抵抗感なく、このジョッキを使っているのだろうか。
店で使われ、不特定多数の人間が口をつけたジョッキだ。
なぜ私はそれを持ち帰り、手洗いしただけで抵抗なく口をつけているのか。
私は潔癖症だ。それも相当に強度な潔癖症だ。
電車の手すり・吊り革はなるべく触りたくないし、いやいやそれらを掴む時には「ごめん、俺の右手」と、生贄に差し出す気持ちになっている。そして安全とバランスの贄となった右手は、洗われ除菌されるまで何にも使わない。
ホームに降りたら、トイレで洗い流すまで、右手を所在なさげにぷらんと垂れ下げている。中央線に乗る潔癖ティラノサウルスとは私のことだ。
うがいのため、自宅の洗面所にはコップを置いているが、私はこれに口をつけない。
ひとたび口をつければ、そこから雑菌が広がって、次にそのコップでうがいをしようものなら却って健康を損ねるのではないか、という脅迫的な観念があるからだ。
そんな私が、なぜこのジョッキを使えるのか。
リユースショップで二束三文で売られている食器類を使うのは抵抗がある。
そんな私が、なぜこのジョッキを使えるのか。
この謎を紐解いていきたい。
こんな著名な判例がある。
飲食店の食器に放尿をした場合、この行為は器物損壊罪にあたるのか、というものだ。食器は洗えば元通りなのだから、物質的には大きな変化を加えられているわけではないが、これについて判例は器物損壊にあたるという。心情的に食器の効用を損ねている以上、物質的な変化を加えていなくとも損壊しているということだそうだ。
この事例でも顕著だが、「洗えば良いじゃん」ですまないラインというのは確実に存在している。
その基準が人によってまちまちだというだけだ。
私にしてみれば、見ず知らずの他人が何度も口をつけたという事実は、それだけで利用を躊躇わせるものだ。
故に、リユースショップの食器は受け付けない。
では、なぜこのジョッキは例外視できているのか。
それには、このジョッキがもともと飲食店のものだったということが大きく関わっている。
私自身、酒類を提供する飲食店でアルバイトをしているのでわかるのだが、ジョッキは常に清潔に保たれている。客が飲み終えたジョッキは速やかに丁寧な手洗いをし、その後食洗機にかけられる。
この過程を自分で経験している、この目で見ているからこそ、飲食店のジョッキへの特別視、信頼というものが生じているのだろう。
加えて、ガラス製であることも安心感を下支えしているように思われる。
プラスチックのコップなどは、あまりにもノンノンだ。
細かい傷に何かがいそう、と思ってしまう。柔らかい感触も相まって、バイオな嫌さを感じてしまう。
その点、分厚いガラスはそのような問題と無縁であるかのように冷たく堅固に振舞ってくれる。
なんなら、軽く水でゆすげば、過去を全て洗い流せそうな、そんな頼り甲斐のある材質だ。
私はガラスのジョッキに全幅の信頼を寄せている。
とはいえ、この一件で明らかになったことは、衛生観念、潔癖というものがいかに不確実で恣意的なものか、ということだ。
潔癖な自分を大事にしたい反面、おおらかにもなりたいとも思う。
そんなことを考えながら、ジョッキを傾ける。
うん、ジョッキで飲むペプシコーラは美味しい。
こんな感じで書き終えたのだが、どうにも気になる。
どうしてジョッキが2つだけ譲り出されていたのだろうか。
他の食器類は何十枚という単位で置かれていた。
だが、ジョッキだけは2つきりだった。
いくらリニューアルのためとはいえ、そんな半端な数のジョッキを手放すだろうか。2つ程度ならば、別に保持してても何も変わらないだろうに。
ジョッキが十個二十個出ていればすんなり納得できるのだが。
その2つだけをどうしても手放したい理由があったのだろうか。
いやいや、そんなまさかだ。
明治時代の判例だぞ。
さすがにそんなことあるはずない。
とりあえず、もらったジョッキは、一番上の、背伸びしないと届かない棚の奥の方に仕舞うことにする。
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