能登地震救援記 その4

その四
 とりあえず手に持てる食材を持ち通い慣れた坂を歩いて上がる。右手の路肩が崩れ落ちポッまどカリと見しらぬ空間が広がっている。その上の道は斜め亀裂が走り幅一メートル、50センチの高さで割れておいる。これは人力では埋められない大きさだ。さらに幾つかの盛り上がった道を上がりきると、夕暮れの薄明かりの中に龍昌寺の本堂と庫裡屋の建物が見えてきた。
 窓から漏れ来る光に導かれくりやのドアをひらくと台所のくりやに皆はが集まっていた。ストーブが炊かれた部屋は温かく、そこには明るい皆の顔があり、子供が元気な笑顔出迎えてくれた。以外にも十分な食材があり台所では料理の用意が進んでいた。澄子さんがいた。ほっとすると腹が減っていた。そう言えばあさから何も食べていなかった。温かなスープスパゲッティーを食べる自分がいちばん被災民だった。お寺の庫裡やが皆の避難所になっていた。薪があり暖房はストーブが赤々と燃えていた。プロバンスガスが使え暖かい料理ができた。電気は通じていないが電池のキャンプ用のランタンやランプで最低の明かりは確保されていた。寺のとトイレは元々肥溜め式なので問題はなかった。電波がなくスマホは反応しなくなった。水がなかった。水をペットボトルに詰め背負子で背負い谷あい川から持って来なくてはならなかった。ここには若者たちがいた。彼らが黙々と谷あいに降りてゆき水を担ぎ上げていた。
 彼らのおかげで風呂に入ることもできた。冬のために薪があるのだ。30畳ほどの広間に皆が集まり炊きたての白米と味噌汁肉野菜炒めの夕食をとった。三十年前遼たちがまだ子供だったころ村民が一緒に食事をとっていたころ、がおもいだされた。地震かそれぞれの殻を壊しまた不思議な連帯と繋がりを生み出していた。今後どうするかを話しあい、明日の朝に帰ると告げた。澄子さんの安全が確保され、必要なガソリンをとどけられ、皆の元気な姿を確認したので長いは無用だ。
 この事実を伝えることが大事なことなのだ。ここを心配している人はテレビの情報に晒されいる。見ているほうがしんどいだ。それに耐えられないからここまできたのだ。その事実を確め自分が一番救われるようにおもえた。  
 早め寝ようと風呂をもらった。ところが薪ぶろが熱くて入れない。冷まそうと蛇口をひねったが水がでない。そうか冷ますことも出来ないのた。気合いを入れて熱いお湯を頭からかぶり風呂をでる。本堂に引かれた布団に入り微睡んでいると、突然ザリザリと高音の振動音と共に高速の縦揺れか本堂全体を揺らし天井の張り板か安っぽいシンバルのように響いた。これは経験したことのない揺れだ。これは敵わない。車で寝るのも無理がない。眠気が不安を乗り越え一日は闇の中に落ちていった。

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