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ヘブンヘル


 いつものように午前7時に目覚ましが鳴った。二度寝をし、枕元を見ると、妻の姿はもうない。彼女の朝は忙しい。キッチンから、パンを焼く香ばしい匂いと、コーヒーを淹れる音が聞こえる。

 僕も起きて顔を洗い、歯磨きを済ませる。妻が用意してくれた朝食を食べる。
「うん、おいしい」
 ほほ笑みかけると、妻は優しく笑った。
 8時過ぎに家を出る。
「行ってらっしゃい」
 玄関で妻に見送られながら、忘れ物はないか確認する。
 肩にかけた鞄、そして妻が用意してくれた弁当を手に家を出た。
「行ってきます」

 いつもの通り、歩いて駅に向かう。その途中の横断歩道で、赤信号を無視した車が僕に向かって、突っ込んできた! 現場は騒然としている。

  サイレンを鳴らして救急車が到着した。赤色灯が回転している。ぼくはその光景を見ていた。
 意識のないぼくは病院に緊急搬送された。
 駆けつけた妻が、先生に尋ねた。
「主人は?」
 先生は無念そうな表情で、首を横に振り、
「手の施しようがありません」
 泣き崩れる妻の横にぼくはいた。ぼくの肉体は集中治療室にあった。
 魂だけが違う場所に移動していた。
 ぼくは熊谷健太。会社の出勤途中、交通事故に巻き込まれて、瀕死の状態である。

***


「ヘブンヘルへようこそ!」
 紫色の肌をした妖怪が愛嬌のある声で言った。
「あぁ、ぼくは死んじゃったのかー」
 妖怪は困った顔になって、
「健太さん、実は……」と戸惑い、「あの……誠に申し上げにくいのですが……えぇ……その……手違いがございまして……」狼狽えた。

「死人には足も、ヘチマの皮もないだろう? でもぼくに足はある。どうしてなんだろう?」
「それでは申し上げます。あなたにはまだ寿命が残っています。こちらのミスで、死ぬことになっています!」

「それじゃあ! ぼくはまだ死んでいないとでも言うのかい?」
「ええ、まだ死んでいません。魂だけがここに来ています。ここは死の入り口です」

「『うん、なるほど。でも』ややこしいことになったなぁ」
「ただいま検討中でして、追って連絡が入ることに、今しばらく……」
「仮に生き延びたとしても寝たきりとか、妻に迷惑をかけるなんて御免だよ」
「安心して下さい。しかるべき処置を致します」
「お願いだよ、頼むね」
「お任せあれ」
「返事は軽いよねぇ」
「業務の一環です」

「なるほど、立ち往生とはこのことだ」
「少々時間がございますので館内を案内させて頂きます」
 ぼくは妖怪と一緒にヘブンヘルを歩いた。

「あちらをご覧下さい」
 岩の壁には丸い窓があり、ぼくはその窓を覗いた。
 それは責め苦だった。鋭く光る剣の山、真っ赤な血の池が見えた。
 大勢の人たちが、もがき苦しんでいる。
「地獄です」
「ふん、ふん」
「デスクに座っておられる方が、閻魔大王です」
「厳めしい顔をしているね」
「その両脇にいるのが、赤鬼と青鬼です」
「手に持っているのは金棒だ! パンツは虎柄なんだね!」

「こちらをご覧下さい」
 反対側の窓を覗きこんだ。
 それは、それは、美しく、綺麗なお花畑がどこまでも広がっている。
 人々は絶えず笑顔で幸せそうだ。
「天国です」

「聞きたいのだが、ぼくは死ねば天国と地獄どちらに行くのかね?」
「企業秘密で、公表は致し兼ねます」
「死んだときのお楽しみってわけだな。地獄だけは死んでもごめんだ」
「しばし失礼」
 紫色の妖怪は突然、白目になって首を二回縦に振った。

「たった今、上層部から報告が入ったのですが、魂を下界に戻すことが決定しました」
「嫌に急だ! 少し心の準備があってしかるべきでは…」
「早速ですが…。良いお年を…メリークリスマス…」

 暗転したその瞬間、意識が戻った。視界がいつもと違う! 異様に低く、見上げると車が飛んでいた。
 ぼくは生き延びたが、動物のようなロボット…そう、ぼくの体はロボットになっていた。手足を動かしてみる。意外とスムーズに動く。
 ヘブンヘルで過ごした時間は、ほんの数十分の出来事に思えたが、事故から長い月日が流れているみたいだ。
 妖怪に言われた『しかるべき処置』が気になる。それを考えながら、ぼくは歩き始めた。
 その風景は認識し難いほど変わっていた。建物は未来的なデザインで、へんてこなロボットたちで溢れていた。彼らの姿は光沢のある体を持ち、特に目を引くのはその頭部だった。透明な液体に浸された中で、神経回路と思われる物体が浮かんでいて、その光景は彼らがかつて人間だったことを示唆しているようだった。

(妻は?)ぼくは初めて声を発した。でもその声は言葉になっていなかった。何故なら、ぼくの感覚は反応を示さなかった。それはもう、ぼくが知っている言葉や声ではなく、全く違う、別の方法で意思疎通を図っているようだ。
 ぼくはその場を離れて歩き出した。
 彼らは立ち止まって、首を360度回転させる。その奇妙な動きでぼくをじっと見つめた。
 彼らは機械的な音を立てながら腕を回転させ、体を反転して、ぼくの動きを目で追っているようだった。その中でも際立っているロボットは、ぼくに強い興味を示しているように見えた。彼の動きは他のロボットとは違っていて、どこか人間らしさを感じさせるものがあった。ぼくは、そのロボットの足元に立ち止まって、彼を見上げた。すると、ぼくは持ち上げられ、そのロボットは、目の部分にある赤く光るレンズ越しにぼくをじっと見つめているようだった。その時、分かった。言葉こそないがこのロボットは妻である。そう直感した。彼女の動き、彼女がぼくを見つめるその眼差し、全てがかつての彼女だと告げているようだった。

 ぼくの鼓動は高鳴った。心臓の役目をしていると思われる部分が、人間だった時のように狂おしく動き始めた。言葉ではないが、心の声になって聞こえた。(おかえりなさい)それはまぎれも無く、彼女の声だった。時と形を超えて、彼女の声がぼくの心に響いた。涙がこぼれる、その時、横のロボットが優しくぼくの頭を撫でた。(ただいま)ぼくは答えた。
 長い時間を経て、ぼくたちは再会することが出来た。

(んっ! この、横のロボットは一体誰だろう?)

『シュー』
 横のロボットは、何故か、突然動かなくなった。


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