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地雷系女子とMBTIブーム「ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか」


世の注目を一身に受けたセカオワ「Habit」。サビのキャッチーさはともかく、Aメロの「ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか」という歌詞も、痒い部分を絶妙に言い当ててると感じた人が多いんじゃないか。


地雷系とMBTIブームにつながり

界隈のネットミームだったのに、2020年頃から急に「推し文化」の象徴とでも言わんばかりにメディアでトレンドになった「地雷系」(ファッション)。そして、韓国で社会インフラとなって以降、K-POPを通して日本の若者もほぼ全員履修しているレベルの認知度を得たMBTI診断。
地雷系とMBTIという一見関係のない点と点は、現代人の「どこかに属したい欲」という観点では、一本の線で繋がるのではないかと思う。

分類「したがる」のではなく、「されたがる」

世にも有名なセカオワの歌詞は、私たちの「分類したがる」という癖を皮肉っていた。しかし私たちを突き動かしているものは、厳密には「分類される」こと、ひいては「どこかに属すこと」への強い欲求ではないだろうか。

社会の個人化が指摘されて長い。(社会学の講義を3回だけ受けた浅い知識) 血縁や家制度からある程度解放された現代人は、選択の自由や人間関係の自由を手に入れ、お金さえ払えば家から一歩も出ず誰とも関係性を持たなくても生きていけるようになった。私たちを厭が応にも縛り付けていたものがなくなると、今度は「自分はどこの何者なのか」という根無し草感が生じ、(自分自身で選択した)どこかに属しておきたいという欲求が芽生える。

気に入った集団に所属したい

一定の型の可愛い洋服を身に付けて「地雷系」集団の1人になれることや、自身の特性を自己判断して16の箱のどこかに必ず入れるMBTIは、そんな私たちの心の隙間にストンとハマったのだと思う。
自分で選択し、納得できる形で、自分自身を集団やカテゴリーに属させる。「分類される」=「所属する」こととは、ぼんやりとしていた私たち人間集団の差異が決定づけられバラバラになるのと同時に、近しい他者と仲間同士になる試みでもあるのだ。

ちなみに私は、2018年から2021年頃まで地雷系オタクをしていて、今は友人ほぼ全員のMBTIを把握しているイキり大学生。中学生の時にはセカオワのFCに入っていた。今回の考察に関しては、私が観察してきたものたちの点と点が線になったという感じだ。せっかくなので、次は私の実例から地雷系やMBTIを解剖したい。

地雷系ファッションは連帯のしるし

地雷系に関して。ピンクのリボンブラウスに黒いひざ丈ミニスカート、厚底ブーツ。エブリンやアンクルージュ、ロゼッタの服を着てる時、自分が新しい何者かになれた感じがしてとても気分が上がった。鏡を見て本気で可愛いと思い、自信が持てた。別に元々ガーリーな服を好んでた訳でもないし、小学生の時なんて母親が買ってきてくれたフリフリは大嫌いだったはずだが。
Zeppでワンマンだの幕張で握手会だの現場に行って、同担たちに紛れ込んだ。意識上ではマウントを取り合いながらも「自分と同じ」が周囲にいることに安心感を覚え、はたまた地雷系以外に対しては謎の優越感を感じていた。日常は標準体型3軍ぼっち女子高生としてなんとかやり過ごし、数カ月に一回のそんな時間で息を吹き返していた。
他のオタクのタグ画像やブランドのインスタを見て地雷系に無性に憧れたが、ファッションそのものが好きだったというより、全身にその服を身にまとって地雷系の一員になることが目的だったのだろう。

MBTIのおかげで解放された話

MBTIに関して。私は最近まで生粋のINFPで、そのネガティブな側面を全て兼ね備えた豆腐メンタルかまってちゃんメンヘラだった。そんな私がMBTIに出会った当時、これは私を肯定してくれてる!と妙な解放感を感じた。
どういうことかというと、MBTIという秩序の中では、現実にはパワーバランスのある人間の性格や行動原理というものが、全く並列に並べられるのだ。世の中では、計画的なJはPよりも周囲から評価や信頼を受けやすいし、外交的なEはIより友人が多くて休日が充実していたりする。I(内向型)でP(知覚型)だった私は、それだけが原因ではないが学校生活が上手くいってなかったし、すこぶる自信がなかった。
そんな中でMBTI診断は、どの特性にも長所短所があって、みんなみんな違ってみんないいんだよと、捉え方次第だよと言ってくれたのだ。人の特性は、人生が上手くいくかどうかという実利と結びついたジメジメしたものだ。そこにアルファベットがふられただけで、特定のキャラだけが勝ち続けないよう上手く調整されたゲームスキンのように、並列させられたのだった。
「私は外交官型の仲介者で、『だから』少しのことでも傷ついて、一軍になれなくて、課題がギリギリまで出せないんだ。」INFPなのは私の結果であって、それが私を説明してくれる訳ではないのに。その感覚に救われてしまった。

現代人の心の隙間を埋めるもの

そんな感じで、私の中でモワモワとしていたものを形にすることができた。随分ネガティブ発言ばかりだなあと見られるかもしれないが、これは貶し愛というやつだ。もしくは、自分の認知をここら辺で正しておこうという自律心か。
地雷系ファッションにも、MBTI診断にも、私は大いに救われてきた。「どこかの誰かになること」「分類されて、所属すること」を現代人が求めていることは事実。地雷系やMBTIは、その心のひずみを解消はしてくれずとも、一時的に居場所をくれるという応急処置をしてくれた。この自己責任社会で心理的安全性を保つために、これらを上手く使うというのは一つの手だと思う。
しかし、ここには人工物の矛盾や危険性がすぐ隣にあるということも強めに言いたい。没入し、その内側からしか物事を見れなくなると間違いなく不健全なことになる。
中高生が地雷系に憧れるのは非常に分かるが、それが湯水のように経済を回す推し文化や歌舞伎町と一直線上にあるのはやはりかなりマズい。MBTIも、人種さえ明確には区別できないと明らかになったこの時代に、人がきっぱり16タイプに分けられますというのは正直ナンセンスだ。無味無臭のアルファベットでは掬い上げられない微妙な差異を捨象するのもマズい匂いがする。

本能的な欲求と生きる


「分類されたい」という、社会変動に伴って顕在化した人間の本能的な欲求。分類され、所属するための私たちの試みはどこまでも続く。
この終わりのない生存合戦の中、せめて折り合いを見つけられるよう、地雷系やMBTIはあくまで主体的に利用していければいいと思う。

「俺たちはもっと曖昧で複雑で不明瞭なナニカ
悟ったふりして驕るなよ
君に分類する能力なんてない…」



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